春の訪れ(4)
「なぁ、香奈。お前、従姉の結婚式って今度の土曜日だったよな。いつから東京に行くんだ?」
四月も中旬に入り、いっそう暖かさを増したある日の午後。
守君が机に頬杖をつき、隣に座る香奈ちゃんへ問いかけた。
「金曜夕方の飛行機で行くよ」
「そうか。久々に先輩に会えるからって、あんま迷惑かけんなよ」
「かけないよ、守じゃあるまいし」
「あの、先輩って、もしかして香奈ちゃんの付き合っている人のこと?」
確か二つ上の先輩で、今は東京で働いていると言っていたけれど。
香奈ちゃんが照れくさそうに微笑む。
「うん、そうなの。従姉の結婚式のついでに会ってこようと思ってて……」
「お前、東京初めてじゃなかったっけ。先輩のところまでちゃんとたどり着けるのか?」
守君が何気なく香奈ちゃんを気遣う。
「うん、大丈夫。先輩が空港まで迎えに来てくれるらしいから」
「お土産ちゃんと買ってこいよ」
「うん、忘れないように気をつけるね」
彼氏さんに会えるのが嬉しくて堪らないんだろう。
香奈ちゃんが満面の笑顔で頷いた。
* * * * *
東京から戻って以来、香奈の様子がおかしい――そう守君から聞かされたのは、水曜日の朝、またバスで熟睡していた守君を起こして一緒に下りたあとのことだった。
講義棟へと並んで歩きながら、守君をそっと見上げる。
「あの、様子がおかしいって、どんな風におかしいの?」
「んー、なんつうかボーッとしてたり、元気がなかったりするんだよ。向こうで司先輩と何かあったんだろうけど」
最初に気が付いたのは、アメフト部の後輩だったそうだ。
様子がおかしい、東京で何かあったんじゃないかとその子に言われみんなで観察してみると、確かにどこか上の空だし、いつもの元気がないみたいだ、という話にまとまったらしい。
「あいつああ見えて、結構ため込むタチでさ。自分だけで何とかしようと限界まで我慢したあげく暴走するから、ほっとけないんだよな」
「暴走?」
「あぁ。香奈が追い込まれてるときに酒を飲ませると、必ず何か事件が起こる」
「事件……」
「そして先輩たちはみな、それを期待して酒瓶片手に待ち構えてる感じだな」
あの頃あまりの迫力に圧倒された、逞しいアメフト部員たちの姿を思い出す。
あのワイルドな人たちが楽しみに待つ、香奈ちゃんの引き起こす事件って一体……。
隣を歩く守君が静かなのに気づき、様子を伺う。守君はどこか険しい顔で、物思いにふけっているようだった。
「……香奈ちゃんのことが、そんなに心配?」
ん? と顔を上げた守君が、私を見下ろしてくる。
「あの、すごく深刻な顔をしてるから……」
「まぁ、司先輩と香奈のことだから、まず大丈夫だとは思うけど……普段うるさいほど元気なヤツが落ち込んでいるのを見ると、やっぱ気になるよな」
守君が小さくため息をついた。
「おはよ、守。七海ちゃん」
講義室で待っていた香奈ちゃんは、私から見ると普段と何も変わらないように思えた。
香奈ちゃんに誘われ、香奈ちゃんを真ん中にして右に私、左に守君が腰掛ける。
二人はいつものように冗談を言い合い、講義が始まると守君は寝る準備なのかうつ伏せになる。前を向き先生を見つめる香奈ちゃんの横顔を、そっと覗き見た。
ぱっちりとした二重の、可愛い女の子。
いつも明るく元気で、沢山の仲間と素敵な彼氏がいて……。
こんなに何もかもが揃っているように見える香奈ちゃんでも、暴走しちゃうほどの悩みを抱えることがあるんだろうか。
静かな教室に、先生の穏やかな声が響き渡る。テキストを見ながらその声に耳を傾けていると、隣にいる香奈ちゃんが、小さく体を揺らし始めた。
めずらしい。いつも寝るのは守君ばかりで、香奈ちゃんは真面目に授業を聞いていることが多いのに。
いよいよ我慢できなくなったのか、前に座る人の背に隠れるようにして香奈ちゃんがうつぶせになる。その姿を横目に見てくすりと笑った時、視界に大きな手がすっと入ってきた。
――守君?
眠っていたはずの守君がいつの間にか体を起こしていて、頬杖をつき、香奈ちゃんの寝顔をじっと見つめている。
のばされた右手は香奈ちゃんの額にそっと触れ、肌をなぞり、顔にかかる髪を優しく払った。
――なんで? ……どうして?
見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて目を逸らす。
ただの友達なはずの香奈ちゃんに、どうしてそんなことをするの?
動揺を隠し、もう一度二人に目を向ける。
守君はもう香奈ちゃんに触れてはいなかったけれど、いまもじっとその寝顔を見つめたまま……。その真剣な眼差しから、すべてが伝わってきたような気がした。
――そっか。そうだったんだ。
守君も、私と同じ。
ずっと片想いをしていたんだ。誰よりも近くにいる、香奈ちゃんに――
今までの二人の様子を思い返し、あらためてそのことを確信する。
毎日じゃれあいながら交わす笑顔も、少し過剰に見えるスキンシップも。部活の仲間という関係だけではなく、香奈ちゃんを好きだからこその行動だったのだろう。
誰よりもそばにいるのに、大好きな人は自分のよく知る先輩のことを一途に想い続けている……。守君は今まで、一体どれだけ切ない思いをしてきたのかな。
香奈ちゃんにうっとうしがられても、手を振り払われてもちょっかいを出していた守君の姿が頭をよぎる。
なんだか泣きそうになって、目を伏せた。
午前の講義が終わり、学生たちが荷物をまとめ始める。
「腹減ったなぁ。学食行こうぜ」
「そうだね。七海ちゃん、今日はどこの学食にしよっか?」
優しく笑いかけてくれる香奈ちゃんの顔を直視しづらくて、思わず目を逸らした。
「あの、私、今日はあまりお腹が減っていないから……」
二人だけで行ってきて。そう続けたいのに言えなくて、口ごもる。
「お腹減ってないの? でも少しでも食べておいた方がいいよ。午後も授業あるし、具合が悪くなっちゃうといけないし」
香奈ちゃんが心配そうに表情を曇らせる。
「とりあえず学食行って、食えそうなものがないか見てみれば?」
守君にもそう言われ、また断りきれず頷いた。
今日は天気がいいせいか、そこまで混みあってはいないようだ。
学食の白いトレーを手に、守君が次々とおかずをのせていく。やがてレジの長い列に並ぶと、すぐ後ろにいる私に気付き、くるりと振り向いた。
「七海ちゃん、なんか食えそうなもんあった?」
「あ、うん。ありがとう」
「それならよかった。やっぱ腹減ると力出ないしな。俺1日4食は食わないとだめだわ」
この大量のご飯を、4回も?
重そうなトレーと、守君のがっしりとした体に目を向ける。
「……おっきくなるね、守君」
「できれば身長も伸ばしたいんだけどな」
「今って、170センチぐらい?」
「うん」
「十分だと思うけど……」
150センチそこそこの私から見れば、十分高いと思う。
「七海ちゃん、小さいもんなー」
くすりと笑った守君が、まるで大きさを確かめるように私の頭に手をのせる。
思わずトレーを落としそうになったけれど、なんとかそれをこらえた。
「こっち、空いてる」
「う、うん」
顔が絶対赤くなっているはず。そう思うといつも以上に恥ずかしくて、顔が上げられない。
まだレジに並んでいる香奈ちゃんのために守君の前の席を開け、一つ横の席に座った。
「お待たせ―。ごめんね、七海ちゃん。先に食べててよかったのに」
「ううん」
いただきます、と元気よく手を合わせた香奈ちゃんが、いつものように楽しげな笑顔で話しながらご飯を食べ始める。その話にぼんやりと相槌をうちつつ、頭の中ではさっきの出来事を思いだしていた。
守君は香奈ちゃんのことが好き――――さっきそう気づいた時には、もう会わないようにした方がいいかもしれないと正直思った。バスの時間を変えて、授業もなるべく目立たない席に一人で座って……。
だっていくら守君の片想いとはいえ、せっかく香奈ちゃんと二人で過ごすことのできる時間を邪魔されたくはないだろうし、私もそんな守君を見ているのが辛いから。
でもさっきみたいに頭を撫でられたり体のことを心配してもらったりすると、ほんの少しだけ期待してしまう。
香奈ちゃんには他に好きな人がいる。
このまま一緒にいたら、私のことも少しはそういう対象として見てくれるんじゃないかって。
「おーい、香奈。……香奈!」
守君の声に、ふと我に返る。
隣に目を向けると、お箸を持ったまま固まっている香奈ちゃんの頬を、守君がムニッとつまんだ。
「お前、何ぼんやりしてんだよ。昼飯食わねぇの?」
やっぱり少し様子がおかしかったんだろうか。元気のない香奈ちゃんを心配して、守君が眉をひそめる。
香奈ちゃんが守君と私を順に見つめ、ごめんと謝った。
「お前、東京行ってからずっとおかしいぞ。絶対あっちでなんかあっただろ」
「そんなことないって」
「バレバレなんだっつーの、小太郎たちも心配してたぞ。ってことで、今日部活終わったら小太郎んちに集合な!」
「え、今日? もしかしてお酒飲むの?」
「おう、もうこれ決定事項だから。俺、朝からバイクおいてバスで来たし、お泊りセット持ってきたし。なんなら俺が香奈んちに泊まって、朝までじっくり話聞いてやろうか? ほらあれだ、パジャマなんとかってやつ」
「パジャマパーティは女の子同士でやるものだよ。守を部屋に泊めるわけないじゃん」
……そっか、今日は雨じゃないのにどうしてバスなんだろうって思っていたけれど、そんな理由があったのか。
他の人と付き合っている香奈ちゃんの部屋に泊まろうとするほどに……守君は香奈ちゃんのことが心配なんだ。
ちょっとだけ近づけたような気がしていたけれど、やっぱり勘違いだったみたい。
守君、さっきお箸が止まっていたのは、香奈ちゃんだけじゃないよ。
私だって、一人でずっと考え込んでいたのにな……。
もしも、香奈ちゃんがその先輩と上手くいかなくなっているのだとしたら。
二人が別れたとしたら、守君は香奈ちゃんに告白するのかな。
私はそれを、応援してあげるべきなんだろうか。
「ごめん、とりあえずこれ返してくるね?」
香奈ちゃんがどこか元気のない声で言って、まだご飯の残るトレーを手に立ち上がった。