春の訪れ(2)
一緒の学部、学科だということは分かっていたけれど、意識して見てみるようになると、守君とはいくつも同じ講義を受けていることに気が付いた。
そして彼の隣に、時々一人の女の子の姿があることも……。
2年生になるとほぼすべての授業をその女の子と一緒に受けるようになっていたから、間違いなく守君の彼女なんだろう。
二人はとても仲がいい。いつも遠くから見ているだけなので話の内容までは分からないけれど、守君が彼女に両手を合わせて何かをお願いしていたり、じゃれあうように小突きあっていたり……。
授業中の守君はバスの中と同様にほとんどの時間を寝て過ごしていて、時々いびきをかいては隣にいる彼女が焦ったように鼻をつまみ、体をゆすっていた。
守君と出会って約一年半の間に、私にも時々会話をかわす友達がわずかながらできた。でもやっぱり親しくなるのを恐れる気持ちは消せなくて、些細なことで悩み、そんな自分が嫌になることもしばしば。
そんな時、いつでも明るく、どこまでも自然体で過ごしている守君の姿を見るとなんだかすごく元気が出てきて、いつしか守君は私の心の栄養剤のようなものになっていた。
彼女さんとのあまりの仲の良さに、少しだけ落ち込んでしまうこともあったけれど――。
* * * * *
出会った頃を懐かしく思い出しつつ、あの頃よりも少し引き締まった寝顔へとまた目を向ける。
嬉しい時間が過ぎるのはとても早くて、もう大学までの道のりはあと少ししか残っていない。
「次はS大前、S大前です。お降りの方は――」
車内アナウンスが流れ、バスが急なカーブに差し掛かる。
いつもならここで思いっきり頭を打って、目を覚ますところ。だけど今日はよほど眠たかったのか、いつも通り頭はぶつけたものの、守君が起きる気配は全くない。
――どうしよう。起こしてあげないと、このまま終点まで行っちゃうよね?
バスが停車し、学生たちが次々と降車口に向かう。
バスのドアと守君を交互に見ておろおろしていたけれど、降りる人の列があと数人となった時、勇気を出して守君の肩に手をかけた。
「あの、起きてください! もう学校着いちゃいましたよ!」
軽くゆすってみたけれど、うーんと唸るばかりで目を開けてくれない。
こちらを振り返った運転手さんの目が少し怒っているように見えて、ますます焦ってしまう。
「もうついちゃったから起きて! 守君!」
いつも守君の彼女がしていたことを思い出し、守君の脇腹をむぎゅっとつまんでみる。
「きゃあっ」と女の子みたいな悲鳴をあげ、守君が目を覚ました。
「なっ、なんだ!?」
「あのっ、バスが」
「S大前ですよ。ここで降りるのなら急いでもらえますか」
もたつく私に呆れてか、運転手さんがマイクを通してそう尋ねてくる。
「あぁ、すみません。今降ります」
焦る様子もなく立ち上がった守君の後に続き、私もバスを降りた。
「ごめん、起してくれたんだよな、助かったよ」
「うっ、ううん。私こそごめんなさい、驚かせちゃったみたいで」
バスターミナルの屋根に大きな雨音が響く。それとシンクロするように、自分の胸の鼓動も騒がしくなっていく。
嘘みたい。一年以上も遠くから眺めているだけだった守君と、またこうして話しているなんて……。
恥ずかしさから顔が火照ってきた時、守君が私をじっと見下ろしていることに気が付いた。
「なぁ、なんかさ、前にどこかで会ったことなかったっけ?」
「えっ?」
「そのメガネ、どっかで見た気がするんだよなぁ」
ごくりと息をのんだ私の前で、守君がうーんと唸る。そして「あっ」と声を上げた。
「もしかして、おにぎりくれた子?」
「はっ、はい!」
「やっぱり。同じバスだったんだ?」
「はい」
「へぇ、すごい偶然だな。――あっと、ごめん。のんびりしていると授業が始まるか」
講義棟へと足を進めようとした守君が、ふと立ち止まる。
「あれっ、俺の傘……しまった、バスに忘れた!」
守君が慌てて振り返るけれど、もうとっくの昔にバスの姿は消えている。
「あーあ、この雨の中ダッシュかよ……」
「あの……よかったらこれ、使ってください!」
「へ?」
きょとんと首を傾げる守君に、自分の傘をずいっと差し出す。
「お、恩返しです。あの時助けてもらったから……だから使ってください!」
傘をぐっと守君に押し付ける。あまりの緊張に耐え切れず走り去ろうとした時、足がもつれ大きく前につんのめった。
「きゃっ」
「あぶねっ」
咄嗟に支えてくれた守君のおかげで、何とか体勢を立て直す。
「大丈夫? あのさ、どちらかといえば恩を返さなきゃならないのは俺の方だと思うんだけど」
「そんなことないです! あの時本当に嬉しくて……」
「じゃあ、この酷い雨の中、俺に傘渡して自分はどうすんの?」
「えっと、講義棟まで走ろうかと」
「あんまり足速そうには見えないけど。授業どころじゃないほどに濡れるだけじゃねぇの?」
「う……」
きっぱり言い切られ、事実なだけにちょっと落ち込む。
すると守君はくすっと笑い、私の傘を開いた。
「それなら悪いけど、途中まで一緒に入れてもらってもいい? あーっと、名前なんだっけ」
「な、七海です。向井七海」
「オッケー、七海ちゃんね。七海ちゃんの授業はどこであるの?」
「……7号棟」
「え、マジで!? 俺もなんだけど。もしかして七海ちゃんも法学部?」
「うん」
「そうなんだ」
お気に入りの傘の下、守君と並んで歩き出す。
講義棟までのたった150メートルほどの距離がとても遠い。
ただ真っ直ぐ歩くだけなのに、肩が触れたらどうしようなんて余計なことを考えてしまい、足元がおぼつかなくなってくる。
そういえば、私と一緒にいて守君は大丈夫なのかな。こんなところを彼女さんに見られたら、誤解されて守君に迷惑をかけてしまうんじゃない?
「あの……私と一緒に歩いていても、大丈夫ですか?」
「ん、何が?」
どう言ったらいいんだろう。彼女さんに怒られませんかって?
でもこんなことを言ったら、守君の彼女が簡単に怒る心の狭い人だと言っているみたいで、守君が嫌な気分になっちゃうかな? でも迷惑はかけたくないし……。
いつもの癖でぐるぐる考えこんでしまい、どうしたらいいのか全く結論が出てこない。
「……すみません、何でもないです」
「そう?」
守君はちょっといぶかしげだったけれど、そのまま話を流してくれた。
7号棟の入り口につき、守君が傘についた水を払う。
――首、太いな。さっき助けてくれた腕もすごくがっしりしていたし、私とは全然体格が違う。
左肩がすごく濡れてる。何も気づかなかったけれど、もしかして私が濡れないようにって気を使ってくれてたの?
「あの、ありがとうございます。もう大丈夫ですから」
とりあえず彼女さんが来る前に急いで離れなきゃ。そう思って傘に手を伸ばした時、タイミング悪く、守君の彼女が講義棟へと入ってきてしまった。
「あれっ、守」
「おう」
「めずしいね、友達?」
私を見て目を丸くしていた守君の彼女が、何の陰りもない笑顔で笑いかけてくる。
「それが、バスで降り損ねそうになったところを助けてもらってさ」
「守ってば、また熟睡しちゃってたの?」
「そーそー。――あれ? 七海ちゃん教室行かねぇの?」
二人の邪魔にならないようにと立ち止まっていた私を、守君が振り返る。
「もうすぐ授業始まっちゃうよ? 行こう?」
「う、うん……」
彼女さんにまで気遣われ、仕方なく二人の後ろを歩き出した。
「――あの、それじゃあ、私はここで」
教室に入ったところでそう声を掛ける。
「あぁ、ありがとな、七海ちゃん」
「またね」
笑顔でそう言ってくれる二人に何とか笑い返し、部屋の奥へと一人で進んだ。