(3)
レイ・キャラックは息を殺す。藪の中を静かに移動する。左手には小さなナイフを握る。とうもろこし畑のゾンビに食わせた右腕の包帯と、カートの猟銃の掠めたチャップスの左腿に血が滲んできた。どうせなら右腿を撃ってくれればいっそ右半身全部を捨てられるのに、と、考えてからレイは笑いたくなった。今から場合によっては人を殺すかもしれないというのに、自分があまりにどうでもいい事を考えていることが可笑しかったのだ。それこそまさに、貼られた殺人鬼のイメージそのままのキャラクターだ、と。
車の傍に明かりが見えて、レイは静かに足を止める。
「だから、俺は最初から言ってた、あいつは悪魔に取り憑かれてもう手遅れなんだって、証拠なんかなくたってぶち込んどくべきだったんだ、そうすりゃカートだって……、ああ……くそっ……神よ、」
「カートが死んだかどうかはまだわからないだろう、もしかしたら生きてるかもしれん」
「だけど血が、車に、こんなに、」
「……希望を捨てるなバーナード、カートはタフな奴だよ……それにしてもレイ・キャラックの野郎、いつかおっ始めるとは思ってたが……きっかけが、あったんだ、きっと…俺たちにはわかんねぇ何かがよ、」
声の主は雑貨屋のバーナードと、国道沿いのガソリンスタンドのオーナー、ハリー・ボーナムであった。レイは会話に耳を傾ける。
「ニコの話じゃ、カートは心臓を刺されてたんだろ、きっともうバラバラにされてる、あいつは俺たちみんなをバラバラにするつもりだ、そうしたくてたまらないんだ、」
「落ち着け、例えそうだとしても皆が居る、そうさせないために、こうやって山狩りをしてるんじゃないか。銃もある。気の狂った奴ひとり、どうってことない、大丈夫だ」
「ああ、ああ、そうだな……」
バーナードは落ち着かなげに歩き回り、砂利を踏む音をたてた。
「そうさ」
「……あいつは、車に戻って来るかな?」
「さあ……わからない。だが戻ってくる可能性は高いと思う」
喋りながらハリーはジッポを取り出し、煙草に火を点ける。石の擦れる音、
「考えたくもないが……奴がもしカートをバラしていたとして…死体を捨てるとか何とかしたら、戻ってきて車で逃げるつもりかもしれない」
「……マット達はまだかな」
「もう少しかかるだろう」
聞きながらレイは茂みの中で足の位置をそっとずらした。準備はできていた。
「それまでに、奴が戻ってきたら?」
「俺たちでやるしか、」
ハリーの言葉が終わる前にレイは茂みから飛び出した。
「嘘だろ、くそっ……」
隠れていた茂みにより近かったバーナードを後ろから羽交い締めにして素早くナイフを突き付ける。
「クックッ……カートをバラしたって? 俺がかい? フフ、当たってるぜ、半分くらい、おっと動くなハリー、銃を置けよ」
地面に落ちたバーナードの懐中電灯の黄色い光を受けたハリーが銃を置き、両手を上げる。
「ハリー助けてくれ!」
バーナードが泣き叫んだ。
「助けてくれ! こいつは俺を殺す気だ! バラバラに、」
「そう騒ぐなって……、」
レイはナイフの切っ先をバーナードの首筋に触れさせる。バーナードは呼吸を荒くしながらも口をつぐんだ。
「別に怖がる事なんかない、あんた達が、思ってた通りに、なったんだ、俺は殺人鬼で頭がおかしい。その通りだよ。やってたんだろうさ、それがどうかしたかい? 判ってたことだろ」
レイは空虚な笑みを浮かべたままブルーグレーの瞳でハリーを見つめた。
「馬鹿な真似はよせ」
ハリーが呻くようにそう言った。
「もちろんさ、ミスター・ボーナム。あんたがおれの言うことを聞いてくれれば、な…。マット達がここに来るって言ってただろ、今すぐ、彼らを止めてくれ。ここに誰か来るのは困る。行っていい、ほら、早く。ただしあんたが行った後で誰か来る気配があったらバーナードは、おしまいだ。理解してくれたかい?」
「ああ……」
「待ってくれハリー、行かないでくれ! 殺されちまう、こいつは頭が、」
バーナードが再び叫んだがハリーは
「すまん」
と呟くと、早足に闇の中に消えた。
「ハリーお願いだ! ああ……そんな、殺される! 助けてく、」
「ちょっと黙りなよ」
レイはバーナードの口を塞いだ。彼は人が集まってしまうのを、というよりも、その集まった人々によってとうもろこし畑のゾンビを奪われてしまう事を恐れた。
「なあ、おれはさ、あんたを殺す事を躊躇しないと思う。だが別に、積極的に殺したい訳じゃあない、正直、どうでもいいんだ。おれはあんたにもハリーにも誰にも興味なんかないんだよ……車が欲しいんだ、それだけだ、彼女と一緒にこの街から出たいんだよ……」
レイは囁くようにそう語って岩穴の方角を見た。明かりは見えない。まだゾンビは誰にも見つかってはいないらしい。レイの片手は窒息するほど押し付けられてはいなかったが、バーナードの呼吸は荒くなった。
「クックッ……だけど本当に出られるのかな……自信がないぜ」
言いながらレイはバーナードの口から手を離し、ナイフを引っ込めた。突然の解放にバーナードは転倒し、驚いた顔でレイを見る。
「行きなよ……、言ったろ? 別にあんたに興味は無い。おれは彼女と居たいだけだ」
「あ……あ……」
バーナードはしかし、震えて動く事ができなかった。
「クックッ……おいおい、腰でも抜けたのか? しっかりしろよ、」
レイは一歩、バーナードに近づいた。砂利を踏む音。同時に、
銃声。
一発の。
鳥が数羽、羽ばたいて逃げて行く。
「………」
レイは腹を押さえて膝をつくと、背後の狙撃手を振り返った。拳銃を構えた片耳のハーヴィー・ハリデイが立っていた。
「ナイフを捨てて両手を上げろ、変態野郎!」
ハーヴィーは怒りと正義の執行に酔って興奮した声をあげた。
「……よう……あんたか」
レイは目を細める。撃たれたというのに鼓動が随分ゆっくりとしているのが不思議だった。ひょっとしたらおれは死ぬのか、と、レイは思った。瞬間、彼の頭の中に風の通り過ぎる一面のとうもろこし畑が広がる。マックイーンのとうもろこし畑よりもずっと大きな、どこまでも続く金色のとうもろこし畑だ。
「ああ、それだ……、クックッ……それはいい、すごく、」
ふらつきながら立ち上がったレイ・キャラックの心臓に、ハーヴィは銃口を向ける。
「ナイフを捨てろと言ってるんだレイ・キャラック!」
「……ハーヴィ、そこを退いてくれ、彼女を迎えに行きたい。……行き先が決まった、かかしと、あそこへ、」
「何をブツブツ喋ってやがる! 来るな! ナイフを捨、……ちきしょう!」
再び鳴り響く銃声、だが今度は弾丸は誰にも当たらなかった。レイの投げたナイフがハーヴィの腕に突き刺さっている。引き金を引くと同時にハーヴィは銃を取り落とした。レイはその拳銃を拾い上げる。屈んだ拍子に血がバタバタと枯葉に滴った。
「やめろ、やめてく、」
レイは引き金を引いた。ハーヴィ・ハリデイの言葉は途中で途切れた。彼の口から続きが吐き出される事は永遠になくなった。
「あああ、あ、あ、うわあああああ!」
一部始終を目にしたバーナードが四つんばいで転げるように逃げ出した。レイはそれには目もくれずに、岩穴へ向かう。バーナードが走りながら叫んだ、人殺し、という単語が耳に入り、彼は僅かに自嘲の笑みを浮かべる。けれどもそれももうどうでもよかった。
点々と血の跡を残しながら、レイ・キャラックはゾンビととうもろこし畑のことだけを思い描いて歩く。身を隠すことももう諦めた。ただ、枯葉を踏んで、歩く。
岩穴で、ゾンビはレイを見送った時とまったく同じ姿勢で待っていた。空虚に、空から透明なヒモで吊るされた死体のように立っている。今にもそのまま空につり上げられてしまいそうだ。彼女の姿が見えた瞬間、レイ・キャラックの、切り裂かれるような淋しさが暖かく埋まった。まるで女神だ。彼にはそう見えた。相対的に力が抜けそうになるが、それに耐え、レイはゾンビの腕をとる。
「時間が、ない、行こうぜ、山狩りが、もう、」
途中で喉の奥から血液が込み上げた。コップ一杯ほどの血を吐いて、レイは自嘲する。ゾンビは、こぼれ落ちたレイの血液と、足元のカートの死体を交互に見つめて首をかしげた。
「なんだ、あんたそれ、食わなかったのかよ、」
けえ、と、例の小さいうめき声をあげて、ゾンビはゆらゆらとレイの後をついて歩く。虫の声と風が藪を揺らす音に紛れ、何処かで誰かが叫ぶ声がしたような気がして、レイは急いだ。
「街を出たらさ、とうもろこし、畑を、探そう、」
懐中電灯の明かりを真っ白な蛾が横切る。その向こうにキャデラックの赤銅色の車体が照らし出された。
「くすんだ金色の……俺、あの色が好きなんだ、あんたは、どうだい? ……ああ、クソッ……」
血ですべるキーを一度取り落としたレイは、屈んで、しがみつくように赤銅色のキャデラックのドアを開けた。助手席にゾンビを収め、這って運転席に転がり込む。
「あんたの髪、とうもろこし畑に、似てる、よな、いや、それよりずっと……」
キーを回すがエンジンがかからない。
「どうした、おい……かかれよ、」
レイはフロントガラスの向こうに目を凝らした。遠くに小さな明かりが見える。追っ手かどうかはわからない。彼は車を蹴り付けた。エンジンはやはりかからない。なぜかカーラジオだけが息を吹き返し、ニュース番組と思しき硬いアナウンサーの声が小さく流れ出して、レイは思わず助手席のゾンビの顔を見遣る。
「クックッ、カートの野郎、こんな、ポンコツ、売っちまえば、いいのに、」
言ってからレイは、カートは自分が殺したのだと思い出し、ため息をつく。ノイズ混じりのアナウンサーの声が妙にはっきりと、車内に響いた。
『――が、出頭いたしました。いくつかの事件に関しては殺害現場に残された指紋の照合結果も一致しており………時効の成立した事件に関して………N市連続殺人、C州ウィローヘッドタウンのバラバラ殺人なども自供しており、』
もう一度キーを回そうとしていたレイの手が止まる。
「何だって?」
ボリュームを上げる。アナウンサーが早口に読み上げていたのは、15年もの間、様々な地域でバラバラ殺人を繰り返していた二人組の殺人犯のうち、一人が出頭した、というニュースだった。迷宮入りしていた複数の事件に関して犯行を認める発言をしており、そのうち数件に関しては既に裏付けも取れているらしい。出頭した殺人犯が関係をほのめかした事件の中には、11年前のウィローヘッドタウンのバラバラ殺人事件、デイビー・キャラックの事件も含まれていた。
「………」
レイはしばらく、硬直していた。無言のままずるずると、シートにもたれかかる。何もかもが、どうでもよくなってしまった。ハーヴィ・ハリデイに撃たれた傷から滴った鮮血が、シートの窪みに溜り始めている。ゾンビがウウ、とくぐもった声をあげた。
「……何だかなァ……クックッ……どうしようもねえな……なあ?」
レイはシートにもたれかかりながら腕を伸ばし、ゾンビの頬を撫でた。
「なあ、俺は、何だったんだろうな?」
何もかも、取り返しはつかなかった。レイは目を閉じる。
殺人犯は俺じゃなかった? じゃあ、俺は、何だ? 俺は、どこにいる?
身体が透明になってしまったような気持ちだった。
「あんたに……おれは、見えてるかい?」
勿論ゾンビは答えない。だが、彼女はレイを見ていた。眼孔の虫がきらりと光る。彼は咳き込み、緩慢な動作でゾンビの身体を引き寄せた。ゾンビはレイを、じっと見つめ、されるがままにもたれかかる。ぽとり、と足元のゴムマットに何かが落ちた。
「……これ、食ってなかった、のか、」
乾燥して皺の寄った、ハーヴィー・ハリデイの、耳。レイは片目を眇めながら身を乗り出す。
「そういや、カートの死体も、食って、なかった、な……あげたって、言ったろ……遠慮なんか、」
言い終わる前にゾンビは、彼を見上げながら、ぐる、と喉を鳴らした。その口がゆっくりと、大きく、開く。取り落とした懐中電灯の光に照らされ、ゾンビの濡れたいびつな歯が、その行程を大切に、慈しむかのように静かに、静かに腕に触れたその瞬間、レイ・キャラックは理解した。
ああ、かかしは、おれを、選んだんだ、ほかの誰でもない、おれを、
そうして彼は微笑んだ。25年の人生で、彼が一度も、誰にも見せた事の無い笑みだった。
「………選んで、くれるの、かよ、」
包帯の上からゾンビの歯がじわりと食い込んだ。
「あんたに、食われたかった、ずっと、初めて会ったときからだ、いや……生まれたときから、きっと、おれは、あんたを……」
レイはもう片方の腕でゾンビを抱き寄せる。
「あいしてる」
肉が糸を引いて裂きちぎられる感触が、彼の全身の神経に行き渡る。乾ききった大地に痛覚の雨が撒かれ、レイ・キャラックのすべての細胞は喜びにうち震えた。レイは指の腹でやさしく彼女のブロンドを掻きなぜる。ゾンビは呼応するように、かじりついた腕からひととき顔を離し、再び抱き締め返す。レイの胸にすり寄った死人の歯は、温かな血液を滴らせながら皮膚を突き抜け、腹を破く。ごぼり、とレイの喉から血が溢れ出す。彼は両の腕で彼女の頭をやさしく傾け、血と泡にまみれた濃厚なくちづけを与えた。ゾンビの灰色の喉が動く。レイは彼女が噛みちぎりやすいように、死人の冷たい咥内に舌を滑らせた。
ゆっくりと、まろやかな死の味に、レイは目を閉じる。懐中電灯の明かりがたまたま瞼に当たっているのか、視界は黒ではなく、とうもろこし畑に似た金色の闇だ。
レイは自分がずっと、何を望んでいたのか、何を愛していたのか知った。
彼女は、レイ・キャラックの死そのものだった。誰のものでもなく、誰にも決定のくだせない、彼だけの死だった。
おまえは おれのものだ
飛沫をあげる己の赤い体液の中で、レイは笑った。血だか涙だかわからないものが、ぽろりと零れる。ぎい、と鳴いた彼の女神を最後にぎゅっと抱きしめて、レイ・キャラックは絶命した。
夜が明けた頃、捜索隊の手でカートのキャデラックは発見された。車は血まみれだったが、不思議な事に、中に死体はなかった。ブルーノ・マックイーンの畑のかかしの姿も無い。おびただしい量の血液のほとんどはレイ・キャラックのもので、血溜りの中にはわずかに骨のかけらも見つかった。警察はレイを、余すところなくゾンビに食われて死んだと断定した。
実際には何が起きていたのか? それに関してウィローヘッドタウンの住人たちが様々な憶測を交わし合えるのは、再び夜が訪れるまでのほんのわずかな時間だけである。彼らはまだ、気がついていない。今、まさに、カートの死体がゆっくりと起き上がり、そして、無線で本部に連絡を入れている警察官に背後から忍び寄ろうとしていることに。
カートの死体は〈感染〉していた。ウィローヘッドタウンは、この世界にとって二度目となるゾンビ・インフェクションの、最初の汚染地となる。カートの感染経路が、あの夜浴びたレイ・キャラックの血液からであったことも、レイがいつから〈感染〉していたのかも、とうもろこし畑のかかしが何処へ行ったのかも、すべて誰にもわからないまま、世界は再び混沌に飲み込まれていった。
(了)