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(2)

 翌朝、職場の農場にやってきたレイは、上司にあたる遠い親戚の男に手招きされた。農場で働く他の者たちの視線の届くサイロの前で、親戚の男はレイと目をあわせないまま、

「昨晩、ハーヴィ・ハリデイと会ったか」

 と訊いた。なるほど、とレイは思う。昨晩の事が街にどのように伝わっているか彼には予想できた。おそらく"何もしていないハーヴィ・ハリデイに突然襲い掛かり、耳を食い千切った"、或いは"殺そうとした"、そのような形になっているのだろう。馬鹿馬鹿しい気分になり彼は少し笑った。

「クックッ……ハーヴィねぇ……ああ、会ったよ。酒場でね。彼はずいぶん酔っていたようだったがな」

「お前が、」

 案の定、初老の親戚は人差し指をレイに向け、口から泡を飛ばしかねない勢いで非難した。

「また問題を起こせば、そのときはもう面倒は見ないと言ったはずだ。これまでだってその判断を下せる機会はあったのを、俺は見ないふりをしてやったんだ、だがもう駄目だ、お前には失望した、義理を、」

「ああ、つまり、」

 レイはしわだらけの親戚の顔を、ブルーグレーの双眸で覗き込む。

「クビって事? ハーヴィ・ハリデイの耳が原因で、かい? ヤツは刑事告訴を? おれの家に警察は来なかったが」

「告訴はしていない。だが暴力沙汰だ、」

「クックッ……暴力沙汰ねぇ……ハーヴィ・ハリデイが喧嘩を売っている相手はおれだけじゃない気がするけどなァ、クックックッ、」

「それだけじゃない、」

 親戚の男の眉間に深い皺が寄る。レイは彼が何を言うかもう知っていた。

「お前は、マックイーンの畑の死人と寝たと、」

「ハッ!」

 レイは今度は声をあげて笑った。どうせ無駄だろうとは判っていたが、彼は静かなトーンでこう付け加えた。

「おれは柵の中に入った事は無いぜ、本当だよ」

 親戚の男は返事をしなかった。眉間の皺は深いままだ。彼が目の前の"父親殺し"の言葉を微塵も信じていないのは明らかだった。レイはニタリと口角を持ち上げ、肩を竦めてみせた。

「まあボスはあんただからな。あんたが自分の農場で、死人とファックする男が働いてる事に我慢がならないっていうんなら、俺からは文句はないさ。ただ、死人とファックする男でもなきゃあ、普通、この賃金で納得するヤツはそうそういないと思うけどなァ、」

 喋りながらレイはシャツの下の抉れた右腕を、もう片腕で強く握ってみた。痺れるような痛みが、とうもろこし畑の風を受けて佇むゾンビの姿を彼の脳裏に想起させる。何か安堵に似た、しかし激しい感情が左肺の近くで脈打ち、レイは思わず一瞬目を閉じた。初老の親戚が僅かに後退りする。目を開けた時の相手の位置の変化を見て、レイは可笑しくなった。

「クックッ、なにも退職金代わりにあんたの耳を欲しがったりしないさ……今迄のこと、感謝はしてんだぜ、これでも。そりゃまあ、ちぎってくれって言うんなら遠慮なくやらせてもらうけどよ、クックックッ」

 親戚の男は小さく舌打ちして、レイに数枚の紙幣を差し出した。今月の昨日までの給与ちょうどの額だった。退職金などはもちろん加算されていない。男は最後まで、"親戚だから仕方なく雇ってやっていたのだ"という姿勢を変えなかった。

「どうも」

 レイはわざと男の指に触れるような受け取り方をした。そうして男の目にサッと広がった嫌悪感をしっかりと観察する。不浄が伝染する、とでも言いたげな色だ。

「そんなにビビらなくたって、彼女はおれを咬んだりはしてない。仮におれが咬まれてゾンビになっていたとしても、触れただけじゃあんたをゾンビにはできないさ。したくてもな。クックッ、」

 レイはそう言い残してサイロを後にした。彼は去り際に厩舎に寄って、世話をしていた牛たちをしばらく眺めた。何か餌をもらえるのかと頭を出した雌牛の硬い頭をレイはポンポンと撫でる。

「お別れだ。おれはもうここには来ない」

 雌牛はレイに頭を擦り付けた。厩舎に居た他の従業員たちが離れた場所から彼を指して何か喋っているのが見え、レイはクックッ、と笑って屈んでいた身体を起こした。大方、死体とやるぐらいだから牛にも欲情しているんじゃないか、などと噂しているのだろう。レイ・キャラックはわざと大きな声で牛たちに別れを告げた。

「じゃあな、お嬢さん方!」


 農場を出たレイ・キャラックは虚無的な笑みを貼りつけたまま早足に、マックイーンのとうもろこし畑へと向かった。道すがらすれ違った何人かの街人は、レイの姿をまじまじと、どんな様子であったかしっかり後で誰かに話せるように容赦のない視線を送ってきた。普段のレイ・キャラックであれば彼らをわざとからかうような真似でもしたかもしれない。けれどこの時のレイは、そのような半ば自虐的な遊びに興じる気分ではなかった。暗く、静かに、燃えたぎり始めた怒りに蓋をする事に忙しかったのだ。

 レイ・キャラックの足は更に速まった。彼は駆け出していた。誰の顔も見えないようにしなければ、誰かを殺してしまいそうだった。それも、彼の眼の裏側に浮かんでいるのは、その誰かを殺してバラバラに切り刻み血に塗れている自分を、何故だか上空から見ている映像だ。レイには彼自身が、まるで遠い空よりその光景を傍観する鳥のように、自らを〈抑止できない〉事が直感的に判っていた。

 腕が痛む。

 彼は会いたかった。

 彼が唯一自分のものだと確たる自信を持って言えるのは、彼女にあいたいという強いこの衝動と、彼女への、壊れてしまいそうなほどのいとしさだけだった。

 坂道を駆け上がる。シャツの右袖を捲り上げる。とうもろこし畑が見えて来る。ゾンビは?

 だが彼が次に目にしたものはブロンド髪の、腐敗した肌の死人の女ではなく、畑の主、ブルーノ・マックイーンの太ったシルエットと、彼の元で働く若者2人の姿だった。

「レイ・キャラック」

 マックイーンはぎらついた目でレイを睨み付け、怒りを滲ませた。

「貴様、俺の畑で……何をしていたって……?」

 レイは息を整えながら帽子を被り直す。マックイーンの顔がちょうど見えないように彼はつばを調節した。

「別に。あんたがほっといた彼女を、メンテナンス、してやっていただけさ……」

 レイ・キャラックの声はひどくかすれていた。表情には相変わらず空虚な笑みが浮かんでいたが、顔色は青ざめている。

「よくもぬけぬけと……、貴様の恥知らずな行為は全部判っている! おかげで俺はいい笑い者に、」

「それより彼女は、」

 血の染みた包帯に巻かれた右腕をもう一方の片腕で握り締め、レイはマックイーンの言葉を遮った。

「……彼女は、どこだ? あんた彼女を一体どこへやった? なあ、どこへ、……待ってるんだ、あれはおれを、待ってくれている、」

 レイは右腕の包帯を解いた。真っ赤な渓谷のような傷が、口を開けて〈はやく〉とねだっている。レイはポケットからナイフを取り出した。

「何をする気だ、」

 マックイーンが身を固くするのと同時に、彼の部下の若者たちがレイを取り押さえる。

「こいつ!」

 ブルーノ・マックイーンの部下たちは、レイがナイフを手にした理由を、彼らの主人を刺し殺すためだと思った。実際のところは、レイのナイフはいつものように右腕の傷を抉る事でゾンビを呼び誘うために取り出されたのであるが、彼らにそれがわかるはずもない。

「殺人鬼め!」

「お前は狂ってる、」

 マックイーンらはレイを幾度も蹴りつけた。レイは目の前に転がったナイフを見て、なぜ自分が取り押さえられ暴行を受けているのかを漸く理解する。

「あァ……、」

 制御できないどこかで、他人の手によって、街によって自分が形作られていくさまが目に見えるような気がして、彼は急に可笑しくてたまらなくなった。頭を蹴られた瞬間に血と一緒に笑い声が漏れる。

「クッ、ハハ、だよな、殺人犯が、ナイフを出したら、そりゃ、クックッ! そうだよ、なァ、ハハハハ! ハハハハハ! ……あ、」

 レイはそこで、こめかみの上からしたたる赤いものに遮られた片目を唐突に見開き、耳をすました。

 風が吹いていた。冷たい空気に運ばれて微かに、とても微かにとうもろこし畑のゾンビのうめき声が彼の耳に届いた。

「ああ、なんだ……あんたそこにいたのか……」

 うわごとのようなレイの言葉に、マックイーンの部下達は眉をひそめる。

「こいつ、何をぶつぶつ言ってやがるんだ?」

「気味の悪い、」

 レイ・キャラックは頭を起こした。その視線がとうもろこし畑の向こうの小さな物置小屋に注がれている事に、ブルーノ・マックイーンだけが戦慄した。

 なぜわかる?

 マックイーンはかかしのゾンビを確かに物置小屋にしまい込んだ。だが、畑の向こうの、扉の閉まった小屋から死体の声など聞こえなかった。よほど大きなうめき声でも出さない限り、あの場所にかかしがいる事がレイに知れるはずが―――

と、マックイーンがそこまで考えたその時、

 ギャアアアアァアギィイイイイイ

 凄まじい叫び声が風に乗って流れてきた。聞いている者の脊椎を冷たい死人の手で撫でてゆくような、恐ろしい声だった。

「今の……、」

「あっ」

 マックイーンと若者らが凍り付いた隙に、レイは彼らの手を振りほどき、走り出した。

「待て!」

「あの野郎」

 背後からの、ブルーノ・マックイーンとその部下たちの声はレイには聞こえていなかった。前方から吹く風は彼の耳に、地獄の底から噴き出すような死人の叫び声だけを届けていた。柵を飛び越え、彼はとうもろこし畑を突っ切る。足元の渇いた灰色のとうもろこしの枯葉を踏みつけ、レイは真っすぐに物置小屋へと向かう。

「………」

 扉を開けた途端、ゾンビは叫ぶのを止めた。まるで最初からうめき声など出していなかったかのような、静止した死の瞳がレイを見つめる。

「よう……」

 息を切らしながら、レイは何故だか涙が出そうになった。しかし、ゾンビの首輪の鎖が小屋の柱に括り付けられているのに気付き、状況を思い出した彼は奥歯を噛み締めてそれを堪えた。鎖の留め具を片手で外すと、レイは奥に立て掛けてあったフォークを取る。藁を集めるのに使用する、大きなフォークだ。レイはそれを持って、小屋の外へ走り出た。

「あ、」

 扉の前まで来ていたマックイーンの部下の頭を、フォークが横殴りに直撃する。若者は枯れたとうもろこしの上に昏倒した。それを見たもう一人は姿勢を低くしてレイに組み付こうとしたが、若干、判断が遅かった。レイは無言のまま躊躇なくフォークを振り抜いた。

「よせ、こんな事をしたらお前、今度こそ、」

 部下を失ったマックイーンは途中まで言いかけた台詞を切って、背中を向けて駆け出した。レイはフォークを両手で握り締め、大股に彼を追う。

「ひ、」

 乾いた灰色のとうもろこしの残骸に足を取られたマックイーンが転倒した。畑の主はそこで思い出したように上着の内側をまさぐり始める。だがマックイーンが拳銃を取り出すよりも早く、レイは後ろからフォークで殴りつけた。

 音は風に流されてどこかに消えた。曇った冷たい空をカラスが横切る。

 気絶したブルーノ・マックイーンとその部下たちをレイは一人一人引き摺って物置小屋に押し込んだ。運び終えると彼は、小屋から懐中電灯と大振りのナイフを物色し、チャップスのポケットに突っ込み、それからゾンビの腕をそっと掴んで、ようやく口を開いた。

「……行こう、」

 死人はもちろん応えない。何処へ、とも尋ねない。ただ真っ黒な穴となった片目から小さな白い蛆が這い出てきただけだった。けれどレイが軽く手を引くと、ゾンビはあらがう事無くそのまま彼についてきた。倒れたマックイーン達の姿に僅かにぐるると喉を鳴らす。レイはやさしくゾンビの手を握る。

「悪いけどこいつらを食わせてやるわけにはいかないんだ。殺したわけじゃないからな……。耳ぐらいなら切って行ってもいいかもしれないが……、」

 レイの脳裏を、一瞬、自分がマックイーン達をバラバラに切り分けている光景がよぎる。

「殺してない……、じき起きちまう、早くここから離れよう」

 浮かんだ場面を振り払うようにしてレイは歩きだした。ゾンビはよろめきつつもレイの後ろを離れなかった。


 かかしのゾンビを連れて街中を歩き回ればどうなるか、レイ・キャラックは理解している。だが最終的に自分が何をしようとしているのか、レイは敢えて考えるのを避けていた。彼の頭を占めていたのはただ、街の誰にも"彼女"を奪われないためにはどうすればいいか、それだけだ。

 レイは人目を避けて、街の裏手に聳える小さな山へ向かった。名もないこの山も街の住人の所有物であったが、レイの知る限り林業を行っている様子は無い。冷たい常緑の森には冬でも身を隠せる場所があった。

「入り口は狭いが、中は少し広そうだ。ちょっと我慢してくれよ」

 運良く茂みに覆われた岩の隙間を見つけたレイは、かかしのゾンビを抱くようにしてそこに潜り込んだ。

 白かった空は黄色味がかってきている。

「……長く歩かせて悪かったな……あんたの身体、そんなに頑丈じゃないだろ……」

 レイは外から漏れてくる細長い光に目を細めながら死人のかかしの、穴のような目を見つめた。かかしは小さく、けえ、と鳴いた。

「返事のつもりかい? クックッ……」

 笑いながらレイは彼女から一度目を逸らし、暗い岩の地面に視線を注ぐ。

「暗くなったら、俺は車を盗んでくる、そうしたら、」

 かかしの冷たい手がレイの手に一瞬触れ、レイは小さく息を飲む。ぼろぼろの爪の形を彼は皮膚で感じた。

「……そうしたら、あんたと、この、街を、出て、」

 細い光の帯にブロンド髪の一部が照らされる。軽い、金色の髪糸がレイの帽子にふりかかる。彼女はとても近い距離に居た。

「………………、」

 レイ・キャラックは突き動かされたように死人を抱き寄せた。彼は彼女の、根元の見えかけた歯列に煌めく体液とも蜘蛛の巣とも知れない糸を舐め取り、そのまま丸い片目の穴をなぞるように舌を滑らせる。死人は動かない。レイに抱きすくめられながら、冷たい体で、じっとしている。灰色の舌を僅かに上下させてレイの吐き出す二酸化炭素を感知している。灰色いビニールの合羽の中に差し入れた手で、不自然に飛び出た背骨をそっと撫で上げながら、レイはゾンビの肩に顔を埋めた。

「……あいつらが言うような事とは違う、別にあんたとファックしたいわけじゃない……けど俺はあんたを求めてる、それは確かなんだ、だけど……ああ、こんなことあんたには無意味だって事もわかってる、なあ、これは一体何だ? ……あんたに触れれば触れるほど、俺は、」

 レイは目を閉じ、大きく息を吐き出した。自らの熱い身体を、かかしの死人の体温が侵食してくる感覚が心地よかった。

「……やさしいな、あんたは……クックッ…」

 レイは自嘲の笑みを浮かべて彼女から身体を離した。そうして袖を捲り上げ、ナイフを取り出すと、彼は訊ねた。

「夜までまだ少し時間がある。腹が減ってるだろ?」


 やがて日が暮れた。レイは後をついてこようとするゾンビを岩穴に戻す作業を2回繰り返した。3回目でゾンビは岩穴で待つ事を覚えた。レイは何度も振り返って彼女が後をついてきていないか確かめながら山を降りた。麓に近くなったところでライトを消す。彼が欲しいのは車だ。レイは車を持っていない。免許も持っていなかったが、デイビー・キャラックの車が借金返済の名目で持っていかれてしまう前に、数回、運転したことがあった。車が手に入れば街を出られる。だが街を出て、そしてどうする?

 土手に身を潜めながらレイは、敢えて考えないようにしていたその先に、ほんの少しだけ思いを巡らせてみようと試みる。だが、何も想像することができなかった。

 本当に何一つ、思い浮かばなかったのだ。

 それでも或いは、奇跡的に、見えないその先に車を走らせることが何か、素晴らしい何かに繋がっていく可能性があるのか?

 まさか。

 自分は一体、この街から抜け出す事などできるのだろうか、レイは大声で笑い出しそうになった。しかし、かかしに食わせた右腕の痛みによって理性を取り戻し、黙って歩を進める。彼にとってはその理性も、もはや信用の置けないものになってしまっていたが、目先の行動をやり遂げる原動力にはなるはずだった。

 レイは深呼吸して、壁に張りつき、路地に入る。赤銅色のキャデラックが一台、バーの脇に停めてあるのが見えた。役場の、カートの車だ。レイは姿勢を低くして車に近づく。大通りから離れてはいるが、まったく人が通らない訳ではない。息を殺して慎重に窓を覗き込む。

 鍵は付いていなかった。

 レイは、これから鍵を外し忘れた間抜けな標的を探して街をうろつくのと、このままカートが戻って来るのを待ち、彼を脅して車を奪うのとどちらが良いか、少しの間逡巡した末、あと2、3台見て回る事に決め、キャデラックから一歩離れた。すると、

「動くな、レイ・キャラック」

 声がした。街灯を背にしてカートが立っていた。逆光で真っ黒になってはいたが、石敷きの地面から乱反射する光によって、どうやら彼が猟銃を構えているらしい事がレイにも知れた。

「そこで何をしている」

 カートは抑揚の無い声でそう訊ねた。

「何もしてないさ」

 レイは両手を広げて立ち上がる。そら見ろ、うまくいくはずがない、と頭の中で自嘲する声が聞こえた。

「俺の車に何をしようとしていたのか、答えろ」

「クックッ、ただ見てただけだよ。いくら俺でも車にぶち込むほど無節操じゃないぜ」

「誰を殺した?」

 カートの言葉にレイは片目を細めた。

「何だって?」

「ブルーノ・マックイーンを襲って、次は誰を殺した? 死体を埋めに行く車を物色していたか?」

 カートの口調は静かだったが早口だった。恐怖と怒りによる興奮が滲み出ていた。

「……マックイーンたちは死んでないだろ」

「知らん。だがお前が襲ったのは確かだ。みんな知っている」

「殺してない」

「だとしてもたまたま死ななかっただけだろう。ハーヴィ・ハリデイを半殺しにして、ブルーノ・マックイーンを襲い、次は誰だ、俺か?」

 カートは猟銃の引き金に指をかける。銃身が細かく震えている。

「父親をバラバラにして殺した殺人鬼だ、いずれこうなる事は俺にはずっと前から判っていた。だがここでお終いだ、俺にも俺の家族にも、誰にも手は出させない、絶対だ、」

 破裂音が響き、弾丸がレイの太ももを抉ってキャデラックに突き刺さった。

「証拠は…出なかっただろ…俺は誰も殺しちゃいないって、」

 言ってからレイは、自分が本当に〈父親を殺してバラバラにしていなかったのか〉急に自信がなくなった。事実は違っても、街の人間たちから〈やった〉と見なされれば結果的に"やった"と変わらない。レイはそう思ってきた。だが〈本当に〉そうなのか? 事実であったからこその、結果だったのではないのか?

「今さら命乞いか、殺人鬼め、……くそっ、どうなってる」

 膝をついたレイの心臓を狙ってカートは二発目を撃とうとしたが、どうした不具合か弾が出なかった。震える手で何度か弾を込め直すが、うまくいかない。その間にレイはキャデラックに掴まってなんとか立ち上がり、逃れようと試みる。

「待て!」

 カートは銃を捨て、後ろから踊りかかると、倒れ込んだレイに馬乗りになり、首に両手をかけた。暗闇の中で加速した恐怖がカートの指に体重のかかった強い力を込めさせる。

「…………」

 レイは反射的にポケットに手を伸ばす。首の血流が圧迫され、視界が端から青く染まってゆく。ポケットのナイフに指が当たった。

「あ、」

 頭の中で一瞬、誰かが「待て」と叫んだ気がしてレイはハッとなる。だがもう、遅かった。レイの首を締めていたカートの指が急速に、力を失った。

「かっ……ゲホッ、ゲホッ! ゴホッ……ハア……ハア、ハッ……」

 咳き込みながら身体を離すと、うずくまって動かないカートの黒い塊のようなシルエットが目に入り、レイは生唾を飲み込んだ。

「……ハァ、ハァ」

 レイは街灯の明かりに手を翳してみる。べっとりと、黒く見える血が付着していたが、レイ自身の脚からの血なのか、そうでないのかは判別できない。

「おい……」

 レイは足を引き摺って、動かないカートの傍へにじり寄ると、その身体を軽く揺すった。カートはそのまま崩れるように横に倒れた。胸にはナイフが突き刺さっていた。

「…………」

 背後でガラスの割れる音がして、レイは振り返る。空き瓶を捨てに来たバーのウエイトレスが目に涙を湛えて震えていた。

「よう……、」

 レイは暗い声で挨拶した。ウエイトレスは声が出せないほど怯えている。

「……少しの間だけ、黙っていてくれ……頼むよ…おれの姿が見えなくなったら叫ぶなり何なり、好きにすればいい、」

 答える代わりにウエイトレスは腰を抜かし、地面に座り込んだ。レイは足を引き摺りながらもカートの死体をキャデラックの後部座席に押し込み、ジャケットから車のキーを奪ってエンジンをかけた。エンジン音に混じってウエイトレスの悲鳴が聞こえた。レイはアクセルを踏み、無表情のままその横を走り抜けた。


「……ハァ、ハア、ハッ……」

 レイは肩で息をしながら車を走らせた。ひどく空虚な気持ちだった。そしてもう、どこにも戻れない道を走り始めてしまったような圧迫感が彼の胸の底に重く沈んで、根を伸ばし出していた。後部座席で死んでいるカートの言葉が、幻聴となる。

(父親を殺してバラバラにした殺人鬼)

(いずれこうなる事は俺には判っていた)

 レイはハーヴィー・ハリデイの耳を食い千切った時の、ブルーノ・マックイーンの頭をフォークで殴り付けた時の、そしてカートを刺した時の自分自身を思い返す。

 躊躇はあったか? いいや、なかった。なぜか? それは俺に、前にもっと残虐な行為をした経験があったからじゃないのか?

 彼が父親を殺した証拠は確かに出なかった。それは事実だ。だがもともと曖昧だった記憶は年月と共に更に薄れゆく。レイは想像した。あの飲んだくれのデイビー・キャラックの身体をバラバラに切り刻む自分の姿を。その光景には見覚えがある、ような気が、した。その幻想を振り払うために彼は嗤った。

「ハッ……そんなわけないだろ、おれは知ってる、事実は、」

 バックミラーに後部座席のカートの死体が映り込む。

「……事実は、」

 レイは理解した。どのみちもう、彼は完全に、街に名付けられた〈殺人鬼〉になってしまっていた。過去の事実がどうであったにしろ、もうおれは〈やった〉のだ、と、そう思った途端、心臓の奥に空いてしまった深い深い穴の底から粘ついた気泡が込み上げ、レイの口から笑いが漏れた。

「クッ……ハハハ! 傑作じゃないかレイ・キャラック、クックックックッ! 本当に殺人鬼になっちまうとはなァ、カート、あんたも笑っていいんだぜ、ハハハ!」

 レイは包帯の巻かれた腕でたった一粒だけ流れた涙を拭った。

「……なぁカート、おまえらの言う通り、……きっとおれはやったんだ…親父をバラバラに、したんだろうぜ…きっとそうだよ、」

 レイはヘッドライトの照らす砂利道だけに視線を注ぎながら、車を走らせた。彼にはもう、岩穴で待っているとうもろこし畑のゾンビのこと以外の何もかもがどうでも良かった。自分というものが散り散りになってどこかに消えていってしまった気分だった。ただ1つ、とうもろこし畑のゾンビと彼女への激しい感情だけが彼の最後の拠り所だった。


 車は山の中腹までしか入る事ができなかった。脚の出血がずいぶん酷くなってきていたが、不思議とレイはあまり苦痛を感じなかった。呼吸は荒かったものの、身体は彼自身が思っていたよりずっとよく動いた。レイはカートの死体を背負うように引き摺り、血痕を残さないように小川の中を歩いた。

 やがてとうもろこし畑のゾンビの待つ岩穴に辿り着くと、レイは懐中電灯の光を茂みに向けた。誰かが潜んで待ち伏せていないかどうか、確認するつもりだった。だが、闇の中に佇んでいたのは、農機具会社のロゴの入った合羽を纏ったブロンド髪の死人だった。

「クッ……何で外に出ちまってんだよ、あんたは……。中に隠れてろって、……言っ……」

 笑おうとしたが、胸が詰まった。彼はたまらなくなって、カートの死体を地面に捨て置き、とうもろこし畑のゾンビの、半分皮膚の削げた顎を指で持ち上げて口付ける。ゾンビの喉からぎい、と音が鳴った。およそ40秒、レイはゾンビに唇を触れさせたままその細い身体をきつく抱き締めていたが、やがて死人がカートの死体に目を遣って低く呻くと、彼はそっと体を離した。

「あれかい……あれは、あんたへの土産だ。好きなだけ食っていい」

 レイは足元に転がったカートの死体を指差し、ジェスチャーでゾンビを促した。しかしゾンビは動かない。

「遠慮するな、食っていい……。もう、いいんだ。おれは殺人鬼だからな……クックッ、死体をゾンビに食わせるぐらい、普通だよ、クックックックッ」

 レイはかかしを抱いている間にいつの間にか流れ落ちていた涙を包帯で拭うと、今度は本当に笑った。ふと、ゾンビが頭を起こす。あ、とも、う、ともつかない声を発し、風の匂いを調べるかのように、かかしは舌を上下させる。レイは片目を細めて耳をすました。

 風が木々を揺らす音に混じって、人の会話が聞こえたような気がして、彼は舌打ちする。

「様子を見てくる。あんたはさっきの穴に隠れてろ。静かにな。ああ、」

 レイは体を屈めてカートの死体の片腕を掴むと、引き摺って岩穴に押し込んだ。

「こいつを食って待ってたらいい。俺は車の様子を見てくる」

 かかしの死人は勿論何も応えなかったが、彼女がカートの死体と共にじっとしているのを振り返って確認したレイは、理解したと見なして岩穴を離れた。

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