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(1)

 ウィローヘッドタウンの空は低く、風は一年中止むことがなかった。レイ・キャラックがとうもろこし畑のゾンビを初めて見た日も、やはり風が吹いていた。生温く、皮膚にまとわりつくような、それでいて時折、目を閉じてしまいそうになるほど心地よい冷たさも混じる、残暑の風だった。

 畑と牛と、少しの酒場ぐらいしかない小さな町だ。マックイーンのとうもろこし畑にゾンビのかかしが導入されたという噂は既に町中に知れ渡っており、家族らしい家族も、友人らしい友人も持たないレイ・キャラックの耳にすらその話は入ってきていた。親戚の経営する牧場での仕事が終わって町はずれの家に帰る道すがら、ふとそれを思い出した彼は、噂のかかしのゾンビを一目見てやろうと、足を延ばしたのだった。

 畑の柵に7、8人程の人だかりができている。レイはカウボーイハットを傾けて人々の隙間から畑を覗く。数人が彼を振り返って眉をひそめるのも視界に入ったが、レイは気にしなかった。町の住民たちの向けてくる嫌悪などよりも、夕方の薄紫色の光を浴びて揺れるとうもろこしの間に立ち尽くす死人の姿に目を奪われていたのである。農機具会社のロゴが大きく入った、グレーの簡素な合羽を着せられただけのゾンビは、それらしい装飾品の1つも身につけていなかったが、確かに女のゾンビであった。

「驚いた。女じゃないか。それも、美人だ」

 レイは思わず口に出す。かかしについて、本当に役に立つのかどうか、子供の教育に悪いのでは、などと言い合っていた周囲の会話が凍り付いた。

「こいつ…一体何を言い出すんだ…美人だって?あれがか?冗談だとしてもたちが悪い、正気で言っているのか?」

 レイの正面に居た雑貨屋のバーナードが、信じられないといった表情でそう言った。バーナードは熱心なクリスチャンでもある。しかしレイはバーナードの方を見向きもせずに

「さあな」

 と答え、押し殺した笑い声を洩らしただけだった。

「神よ、」

 バーナードは小さく呟いて十字を切ったあと、まだ何か続けようとしていたが、役場に勤めるカートという男に諫められた。

「相手にするな、バーナード。そいつは頭がおかしい」

 バーナードは舌打ちしてもう一度レイに冷たい視線を送ってから、カートと一緒にとうもろこし畑を後にした。同時に、かかしを見に来ていた他の連中もみんなどこかに散ってしまった。周囲に誰もいなくなった事に気付くと、レイはクックッと独り笑い声を上げて、

「美人じゃないか。なあ」

 柵に寄りかかってゾンビに声をかけた。

 反応は返ってこない。ゾンビは風にそよぐとうもろこしとは違う、ゆっくりとしたスピードで、左右に揺れ動いていた。首枷から杭に繋がれた鎖が小さく金属質の音を響かせている。このゾンビには商品として必要な防腐加工、訓練など一連の処置が施されていたが、コストの問題から、見た目の損傷までは修復されていない。ストレートのブロンド髪だけは不思議とほとんど抜け落ちてはいなかったが、半ば溶けて白骨の見え隠れする顔は、いかにもゾンビらしいものだった。

 強い風がとうもろこしをざあっ、と揺らす。ブロンド髪がめくられ、ゾンビの青白い顔が露になった瞬間、レイは口笛を吹いてみた。

 小さな唸り声を上げ、ゾンビは今度は振り向いた。レイ・キャラックは目を細め、今度は声を出さずに笑った。


 ブルーノ・マックイーンがゾンビのかかしを購入した理由は単純に、安かったからだ。また、1ヶ月の試用期間が設定されており、期間中に鳥追いとして役にたたない事が判れば全額返金する補償もついていた。サニーズホームセンターは実際、小さいながらも良心的な店で、マックイーンは発電機を無償で直してもらった事もある。その店主が推薦する商品であれば買って損はない、彼はそう踏んだのだった。

 ウィローヘッドタウンの畑は大半がマックイーンのものだ。とうもろこし畑の面積はそう広いものではなかったが、収穫は上々、ただ数年前からカラスの被害に悩まされていた。藁クズを詰めた人形や目玉模様の風車なども導入したが、どれもすぐ効果がなくなった。マックイーンは、ゾンビかかしがそれらよりも優秀ならば他のとうもろこし畑や、或いは麦畑にも導入したいと考えていたのだが、結論から言えば、かかしは可もなく不可もなく、といったところだった。

 最初の数週間はめざましい成果をあげた。鳥たちはかかしを完全に人間だと信じて警戒していた。ところが1ヶ月も経つと鳥はゾンビにだいぶ慣れてしまった。もちろん追われれば、逃げる。しかしすぐに戻って来てとうもろこしを(ついば)み始める。ゾンビもすぐ反応して掴みかかるが、なにぶん動きが遅い。鳥たちはゾンビが半径80cmの範囲に近づいてくるまでとうもろこしを啄み続ける。逃げては啄み、逃げては啄みの繰り返し。マックイーンは、最終的な収穫はおそらく例年よりほんの僅か多いかどうか、という程度だろうと判断し、ゾンビかかしの追加購入を見送った。

 そのため、かかしの様子を見に来る事があまりなくなったマックイーンは、レイ・キャラックが彼のかかしに何をしていたのかを、かなり長い間知らないまま過ごす事になったのである。


 夏が終わる頃までには、レイ・キャラックはほぼ毎日とうもろこし畑のゾンビを見に来るようになっていた。何をする訳でもない、ただ時間の許すかぎりゾンビを眺めていただけである。町の他の住人たちはマックイーンのかかしにとっくに飽きており、わざわざ畑に足を運ぶ野次馬などレイ以外には誰もいなくなっていた。

「よう、」

 レイ・キャラックは畑に来ると先ず、そう挨拶する。そうしてピュウッと口笛を鳴らす。かかしのゾンビが振り返るのを確認すると、彼はカウボーイハットのつばを軽く上げ、柵に寄りかかるように肘をつく。

「元気にしてたか」

 ゾンビはほんの僅かの間、レイを見つめて首を傾げるが、すぐ鳥を追う仕事に戻る。レイがサニーズホームセンターで読んだゾンビかかしのカタログによれば、かかしたちは小脳に加工が施され、人間に襲い掛からないよう訓練されているという。人を喰おうとした瞬間に、かれらの小脳にはショックが与えられる。ゾンビかかしは反復される学習工程によってそれをよく学んでいる。とうもろこし畑のゾンビも、レイに掴み掛かって来るような事は一度もなかった。

「真面目だな」

 よろめくような足取りで鳥を追いかけるゾンビの後ろ姿に、レイは以前飼っていた犬を思い出し、少し可笑しくなる。

犬の名はシングル・アイ。名前の通り片目の、誠実な犬だった。もともとは野良犬で、少年の頃のレイが拾って世話をしていたのだがレイの父親が蹴りつけたために死んでしまって、今はいない。

 レイはもう一度口笛を吹いた。ゾンビは律儀にまた振り向く。首を傾げる。レイはその仕草を真似て自分も首を傾げて、クックッと笑い声を洩らした。

「なあ、もっと近くに来いよ」

 そう言ったレイを、ゾンビはしばらく立ち尽くして見つめていた。真後ろで鳥がとうもろこしをむしっている。

「心配するなって。おれはそこらのガキみたく石を投げたりしないぜ。ほら、何も持ってないだろ」

 レイは両手を開いて振って見せた。しかしゾンビは結局、彼に近付いてくることは無く、またそのまま踵を返して作業に戻ってしまった。

「クールだな」

 クックッ、と笑ってからレイはふと、あることを思いつく。彼は足元に置いていた布袋を開くと、昼間マーケットで買った干し肉を一切れつまみ上げ、

「食う?」

 ゾンビのほうへとそれを差し出した。

「毒なんか入ってないぜ。もっとも、入っていたとしてもお前は平気だろうけどな」

 レイは柵から身を乗り出して肉を振ってみたが、ゾンビは無反応だった。目の前を狙って肉を投げてやっても、匂いを嗅ぎにすら来なかった。

「やっぱり干したやつは気に入らねえか…」

 呟いて、レイは袋を閉じ、肩にかける。

「またな」

 彼はゾンビに手を振って立ち去った。道の向こうから来た女とすれ違ったが、女はレイを避けるようにして歩いた。レイはわざと気が狂ったように一回だけ大声で笑ってみせた。女は走って逃げていった。



 翌日は雨だった。

 親戚の農場での牛の世話が終わるとレイ・キャラックはまたとうもろこし畑へと向かった。ずいぶんひどい雨で雷も鳴っていたが、彼は傘も差していなかった。もともと傘が嫌いなせいでもあったが、この日、レイ・キャラックは傘を邪魔に思うほど急いでいたのだ。

 風に流される雨粒を正面から浴びて、彼は坂道を大股に駆け降りる。

「よう!」

 レイは薄い唇を、にいっと持ち上げ、とうもろこし畑に向かって叫んだ。

「今日な!いいことを!思いついたんだ!試してもいいかい!」

 雷鳴が轟き、畑の真ん中で濡れそぼっているゾンビの姿が一瞬白く照らされる。鳥は一羽も見えない。他に反応すべきものがなかったからなのか、ゾンビはレイの声に顔を上げた。しっとりと貼りついたブロンドを払いのけもせず、ゾンビはまっすぐにレイを見た。

「おいおい初めてじゃないかおれの声に反応したの…オーケーとみなすぜ」

 レイ・キャラックは濡れて腕に貼りついたワークシャツの右袖を捲り上げる。そしてチャップスのポケットから小さなナイフを1本取り出し、

 自らの右腕に突き立てた。

「…これだろ?」

 額を伝った脂汗が雨と風に洗い流される。レイは口角を上げたまま歯を食い締め、ナイフで掻き混ぜるように腕の肉を抉り取った。ちょうど一口サイズの大きさだった。

「……お前、これが好きなんだろ?」

 稲妻に視界がパシッと光った。かかしのゾンビはレイ・キャラックの差し出す肉片をじっと見ている。髪の先から水滴がしたたり落ちる。ゾンビはゆっくりと口を閉じたり開いたりした。

「遠慮するなよ…おれのおごりだぜ。それとも、手から直接食うのが怖いか?」

 レイは左の利き手で思いきり、肉片を投げてやった。肉片はゾンビの足元に落ちる。雨にかき消され、音はしなかった。けえ、とも、くう、ともつかない呻き声を上げ、ゾンビはじっと肉片を見つめ、それからもう一度レイの顔を見た。

「食っていい。それはお前にやったんだ」

 まるでレイの言葉を理解したかのように、ゾンビはとうもろこしの間に屈み込んだ。ぎこちない手つきで肉片を持ち上げ、

「おっ」

 ぱくりと口に入れたのだった。レイ・キャラックはほとんど目を閉じるようにして、クックッ、と笑った。どこかに雷が落ちる。右腕からしたたる血液を雨に洗われるままにして、レイはゾンビが彼自身の肉を食らう姿を眺めた。ゾンビの首輪の下の、青白く細い首がゆっくりと波打ったのを見届け、

「……またな、」

 レイは足早に歩きだした。カウボーイハットを深く被り直す。レイはシングル・アイの事を考えた。投げてやった干し肉を嬉しそうにくわえる小さな雑種犬で頭をいっぱいにしておかなければ、まっすぐ歩けないような気がしていた。腕の出血のせいだ、と、レイは結論付ける。これは、腕の、出血の、せいだ。

 稲妻が瞬く。今度はさっきよりもずっと近い所に落雷したようだった。


 レイ・キャラックはウィローヘッドタウンで生まれ、ウィローヘッドタウンで25年生きてきた。しかし一度たりともこの町をいとしく思った事はない。町の人々は彼を決して仲間とは見なさなかったし、レイの方もそうだった。同じ町に住んではいても、彼は言わば異邦人のようなものなのだ。

 つまはじき者であったのは彼の父親、デイビー・キャラックの代からである。デイビー・キャラックは小さな牧場の婿養子としてこの町にやってきた。妻があっさりと病で死んでしまってから、彼は牧場を売り払い、町の様々な女性と関係を持った。中にはレイプまがいの事件もあったようだ。

 結局、真実は不明なままだったが、レイはそのうちの1人の女性に産み落とされた。デイビー・キャラックは、サンドバッグと専属メイドの代わりに彼を引き取った。14歳の夏まで、レイは暴力を振るう飲んだくれの父親の世話をし続ける事になった。

かわいいシングル・アイを蹴り殺したこの父親のことも、レイはもちろん愛していなかった。だからデイビー・キャラックが死んだその日も、葬式の日も、一滴の涙すら流さなかった。

 デイビー・キャラックの死には幾つかの謎が残っている。他殺であるのは明らかであるにもかかわらず犯人に繋がる手がかりは一切出なかったのだ。

 一番の容疑者は息子のレイ・キャラックをおいて他にいない。町ではそう噂され、事実、レイは幾度も警察の事情聴取を受けた。動機は充分、犯行当日のアリバイも無かったが、決定的な証拠は挙がらなかった。限りなくクロに近いシロ。そう判断を下されたレイは逮捕こそされなかったものの町の住人たちからは完全に父親殺しの犯人と見なされ、死んだデイビー・キャラック同様、つまはじき者として扱われる事となる。

 これがごく普通の殺人事件であれば、或いはレイに同情する者もあったかもしれない。だがデイビー・キャラックの遺体は執拗に切り刻まれ、バラバラにされていた。その事が明るみになった時点で、レイは街の誰からも距離を置かれる存在になった。父親を殺してバラバラにする"異常な人格の人間"として。


 十二月。

 レイ・キャラックはジャケットの襟を立ててとうもろこし畑にやってきた。収穫が終わり、畑にはもう何も生えてはいなかったが、ゾンビはそのまま放置されていた。鳥を追う必要はなかったが、電化製品と違いスイッチなど付いていないゾンビは、乾いた冷たい風の中、律儀にカラスを払っている。

「よぉ。寒いな今日は」

 レイの言葉にゾンビはすぐに振り返った。ゆっくりと首を傾げた後、おぼつかない足取りで近寄ってくる。

「あんたは寒さを感じねぇか。クックッ、羨ましいぜまったく」

 レイは笑いながら右袖を捲り上げる。シャツの下の、まだらに血染みのついた包帯をくるくると解くと、石切り場のように抉れた凄惨な右腕があらわになった。

「欲しかったか?俺が来るの待ってたんだろ、なァ、そう言ってみろ、よっ」

 一瞬だけ息を止め、彼はナイフで腕の肉を削り取る。

「クックッ…冗談だよ、あんたにはそんな感情あるわけない。ないからいいんだ……そら、食いな」

 レイの差し出した掌の上から、ゾンビは直接肉を食うようになっていた。夏の終わりのあの日以来、彼は幾度となくこの行為を続けていたのだ。

 掌に口を付けて恐る恐る肉を食らう女ゾンビのブロンドの髪を、レイはそっと掻き上げてみる。崩れて半面の歯茎が剥き出しになった顔を見つめて、彼は目を細めた。

「あんたは本当にきれいだな…」

 ゾンビの、がらんどうになった片方の眼窩で何かがきらきらと動いていた。虫だろうか。レイは顔を近付ける。

「虫もあんたのことがきっと、好きなんだ、」

 ゾンビは彼の肉を咀嚼しながら小さく、ゴボッと喉を鳴らした。生きてはいない灰色の首の皮膚が波打つ。レイ・キャラックの喉も微かに動いた。彼はそして鼻先5センチの距離まで近づいたゾンビの剥き出しの歯茎に口づけを、した。

 風が吹く。

 枯れて倒れたとうもろこしの葉が立てた音を聞いて、レイ・キャラックは弾かれたように死人から身を離した。

「……ああ、」

 彼は呻いた。口づけの瞬間、彼はシングル・アイの事を思い出そうとした。しかし、犬は彼の意識の外に閉め出されてしまった。死人は犬ではない。"おれは飼い犬を愛するようにこの死体を愛しているわけではない。"

 レイ・キャラックは青ざめたまま数秒の間茫然と立ち尽くしていたが、

「すまない……、」

 と呟いて踵を返すと、包帯を巻き直す事もなくその場を去った。

 ゾンビは未だ彼の肉を噛みながら微かに押し殺すような呻き声を漏らした。彼女は肉を全て飲み込んだ後も動かなかった。レイ・キャラックが早足に消えた坂道を眺めているようにも見えた。


 およそ二週間、レイはとうもろこし畑には行かなかった。と言うよりも、かかしに逢おうとする衝動を必死に堪えていた。その理由について彼自身、明確な答えは持っていない。ただ、彼は恐ろしかった。とうもろこし畑のゾンビの、半分崩れ落ちた唇の湿った感触、乾いたブロンド、呼吸をしていない止まった空気、眼のなかの光る虫、すべてが頭の中に繰り返し反復され、そしてその度に皮膚の下を切り裂きながら這い回る狂おしい"何か"。内在するエネルギーの大きさだけは感じられた。

(おれは一体何に惹かれているのか?これは果たして愛なのか?)

 引き抜こうとした雑草が、思いがけず長い長い根を張っている事がある。彼にも幼い頃そのような経験があった。引き抜けばずるりと、自分の足元の地面が揺れるような気がして小さなレイ・キャラックは恐ろしくなり、手を止めた。繋がる根のすべてを見るのが彼は怖かったのだ。

 根は、或いは自らの足に繋がっていないとも限らない。彼の中に燻る、正体のわからない巨大な"何か"が、とうもろこし畑のゾンビを焼き尽くしてしまわないという保証はどこにもない。レイ・キャラックはそのような形のない不安を抱いたまま、しかしいつものようにとりたてて何にも関心はないふうを装って、とうもろこし畑に向かいたい衝動に耐えていた。


 夕刻、農場での仕事を終えたレイは目抜通りから外れた小さな酒場へと足を伸ばした。アルコールで気を紛らす事が応急措置にはなるかもしれない、と彼は考えたのだった。

 オーク材の古い扉を開けると、小さな鈴の音の余韻と共にレイは中にいた客らの視線を浴びた。眉をひそめて会話を中断する者もいた。

「なあ、招かれざる、とは言えここは酒場だぜ。金を払えば俺がここにいる事に誰も文句は言えないはずだ。そうだろ?」

 レイはカウボーイハットを直しながらクックッ、と押し殺した笑い声を上げた。誰も返事をしなかったが、これはいつもの光景だった。この町の酒場ではどこへ行っても同じ反応だ。レイは気にせずカウンターの角の丸椅子に腰を降ろすと、店主にスコッチを注文した。

「………」

 店主は微かに舌打ちし、黙ってグラスを寄越す。これも普段と変わらない。だが、この日は少し空気が違った。いつもならばここで他の客たちが再び自分たちの会話に戻る頃だったが、店内はレイが入って来た時と変わらず静まり返っている。数人言葉を交わしている者たちがいたものの、彼らもささやき声であった。レイもそれに気付いていなかった訳ではない。しかし、ただでさえ頭の中に面倒事を抱えている彼は敢えてそれを無視し、黙々と酒を飲み続けた。

 レイ・キャラックは自分が街の住人達からどう思われているかをよく知っている。いちいち相手をしても何も変わらないことも理解している。彼はこの運命にあらがうことを、少なくとも表面上はまったく諦めていた。先ほどのように、彼らの望む、"実の親をバラバラにしたくせにのうのうと生きている異常人格者"らしい態度で居たほうが、下手な関わりを持たずに済む、という知恵も持っていた。

 ここ数年の間、レイはそうすることで孤独ではあっても比較的穏やかな生活を送っている。だから、こうして独りで酒を飲んでいる最中に頭の上で水の入ったグラスを逆さにされるのは実に久方ぶりの経験であった。

「これだけ飲めば充分だろう、レイ・キャラック。失せな」

「こういう直接的なのはまた、随分と久しぶりだ」

 レイは濡れた帽子を脱ごうともせず、水滴を床に垂らしたままクックッ、と笑って彼に水を注いだ男を振り返った。

 黒のジャケットを着こんだ背の高い男。その後ろであまり行儀が良いとは言えない酔い方をした数人の男たちが、机に座ってニヤニヤとレイに視線を向けていた。ジャケットの男はハーヴィという。暴力沙汰で服役経験があり、ギャングと繋がりがあるという噂もささやかれる男だったが、一方で、サニーズ・ホームセンターでパートをしている母親を車で送り迎えするような面も持っており、街では彼を嫌う者と慕う者の人数はほぼ同数。無論、彼の支持者にガラの良くない連中が多く含まれているのは否めない。しかしハーヴィが、レイのように孤独な男ではなく、常に周りに人が集まる類の人間であるのは確かである。それは彼が多くの仲間たちから耳にする小さな噂話の膨大な数と、それらのニュースの素早さにも、よく顕れていた。

「おれがこの店で飲むことであんたの気分を害するのは、別に今日が初めてじゃないだろ」

 と、尋ねたレイをハーヴィは冷ややかに見下ろし、こう言った。

「死人とファックするような奴が、好きな店で酒を飲めると?」

 レイは今度は笑わなかった。代わりにハーヴィの仲間たちが薄笑いを浮かべた。

「帰ってゾンビにぶち込んでろよ」

 背中越しに聞こえた言葉にレイは声をたてずに口角だけを上げた。ハーヴィは続ける。

「マックイーンの案山子だ、見たってヤツがいるんだよ。お前があのとうもろこし畑のゾンビに"口づけしてた"ってな」

「気色悪ィ」

「仕方ないさ、この街の女は誰もお前を相手にしやしないからな」

 レイは彼らの笑い声が少しおさまるまで黙ってそれを聞いていた。そうして一通り聞き終えると、グラスに残っていたスコッチを一気に傾け、席を立った。

「おれがゾンビとファックしてるって?」

 レイはカウンターに寄りかかりながら水の滴る帽子のつばを持ち上げ、長い睫毛の下の灰色がかった眼球でハーヴィを見つめた。店内が静まり返る。

「クックッ……なんなら今すぐあんたをぶっ殺して死人にしてぶち込んでやってもいい。頭さえ吹っ飛ばしちまえば、まあ、できない事もない気がするぜ」

「死ねクソ野郎!」

 ハーヴィは怒り狂ってレイに掴み掛かった。カウンターの椅子が音を立てて倒れる。レイは無抵抗のまま笑っていた。ハーヴィに数発殴られ店の外に引きずり出されても彼はまだ可笑しそうにくつくつと笑い続けていた。

「こいつイカレてやがる」

 酒場の裏手の路地に積みあがったビール箱の上に蹴り倒されたレイ・キャラックは、

「例えばおれがさ、」

 切れた口の端の血液を指でゆっくり拭い、

「実際にゾンビとファックしたとして、それで何か問題あるかい?親父をぶっ殺してバラバラにするようなヤツだぜ、死体とファックぐらい、したっておかしくないだろう。クックッ、まあ、あんたが、」

 気だるそうに喋りながらハーヴィの足を掴み引き倒した。突然の動作に対応出来なかったハーヴィはビール箱の山に強かに体を打ち付ける。

「あんたが死体とファックしたっていうんなら、そりゃ確かに大問題だけどな、ハーヴィ・ハリデイ。ところでおれは今とてもいい事を思い付いたぜ」

 レイは立ち上がろうとするハーヴィを押さえ付けながら彼の耳を咥えると、一瞬で噛みちぎった。

「あ、あ、あああああ!」

 ハーヴィ・ハリデイの悲鳴が、路地の排水溝に反響して奇妙なエコーを奏でる。顔の横を必死に押さえるハーヴィの手指の隙間から黒い血液が溢れ出す様を目にして、唖然とした仲間たちはすぐに動く事ができなかった。レイは素早く立ち上がるとハーヴィの片耳を持ったまま、街灯のないあぜ道の方へと駆け出していた。


 とうもろこし畑のゾンビは今夜は鳥を追ってはいなかった。枯れたとうもろこしの葉の山にぼんやりとただ佇んでいた。ほぼ円に近い形の月はかかしのブロンド髪を随分と明るく照らしていたが、ゾンビにはそれを喜ぶ心などもちろん無い。柵の向こうの薄暗い道を、見えているのかいないのかも判然としない死んだ眼球に映していた。

 と、その坂道に、駆けてくる人影が現れた。

「……よう、」

 息を切らし、レイ・キャラックは柵に肩肘をついて寄りかかった。

「久しぶりだな……こんな時間に悪ィ、……まあ、あんたは時間なんか気にしないか……」

 かさかさと葉を踏みながらゾンビは彼に近付いた。自分の呼吸がやけにうるさいのは、走ったきたせいだけなのか、彼には自信が持てない。レイはごくりと唾を飲み込む。

「今夜のあんたの髪、白金色じゃないか…前からそんな綺麗な色してたか?…いや、おれがどうかしてるのかな……」

 彼はゾンビの髪に触れようとして、手を止めた。

「なあ……おれがあんたとファックしたとか言っている連中に会ったよ…。けどそういんじゃないんだ、近いけど、違う、そうじゃなくておれは、ああ、その話をしにきた訳じゃなかった、これを、あんたに、」

 レイは掌を開いて、血塗れの薄い肉の塊をゾンビに差し出す。ハーヴィ・ハリデイの耳だ。

「……プレゼントだよ、好きだろ……?」

 レイはゾンビの爪の剥がれた手を取り、その手にハーヴィの耳を握らせ、一度だけゆっくり瞬きした。

「……また来るよ」

 そう告げて彼は再び振り返らずに坂道を昇って行った。


 ほとんど物置小屋のような粗末な自宅に辿り着くと、レイ・キャラックは明かりも点けずにベッドに倒れ込んだ。目は閉じていない。暗闇に目を凝らす。眼球の後ろで散る自らの黒い火花のような激情が見えるような気がして、彼は寝返りをうった。

 実際、ハーヴィの言う"ファックする"という言葉はレイがとうもろこし畑のゾンビに抱く感情に近い。近いが、何かが決定的に違う、とレイ自身は感じていた。また、仮にハーヴィの言葉が限りなく正解に近かったとしても、それを他の誰かに言われる事に彼はひどい嫌悪をおぼえた。

 レイ・キャラックはあまりに長い間、この街から、"父親をバラバラにした男"として扱われてきた。事件当時の記憶が曖昧である事も手伝って、彼は自らが本当に殺人犯であるのか、それとも違うのか、もう判らなくなりかけていた。どのみち街に"やった"と見なされているのならば、事実がどうだったかなど最早、関係ないのではないか。そう考える事すらあった。

その事に関してはレイはもう諦めている。街から与えられた殺人犯の烙印を彼は既に受け入れている。だが、彼がとうもろこし畑のゾンビに抱く感情には、街の誰にも名を付ける権利はない、と、レイは強く思った。

 これはおれのものだ。おれだけのものだ。

 レイは喉の奥でそう繰り返した。目の裏側の火花は相変わらず実体が見えない。その日は夜が明けるまで彼が目を閉じる事は無かった。


 

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