不器用さ
優子は栃木に帰った。豪勢な朝食を御馳走になり、一家に手厚く見送られて、由里子の家を出たのである。壬生に着くと、激しい雷雨であった。栃木は雨が多い。しかも降ると必ず雷を伴う。
(東京では降ってなかったのにな)
優子は折りたたみ傘を由里子の家に忘れてきた事に気がついた。タクシーやバスも駅前からは出ていない。
(仕方ない。走るか)
そう思うが早いか、優子はスニーカーの踏みならして駆け出した。雨の街を、優子は一気に駆け抜ける。あっという間に優子はずぶ濡れになり、お気に入りのスニーカーも泥だらけになった。スニーカーの方は若干気にしているものの、自分が濡れている事は殆ど気にしていない。途中、水たまりの上を飛んだり跳ねたりする。雨の中、走ることを楽しんでいるようである。家に着いた頃には、優子はすっかり濡れ鼠であった。実家の寿司屋は、夕方からの開店なので、今は準備中である。優子は勢いよく表口の引き戸を開けた。
「ただいま」
父親が食いつかんばかりの表情で迎える。
「優子!昨日はどこに泊まってたんだい?それにそんなに濡れて、傘持ってかなかったのかい?」
「質問は一つにしてよ。昨日は友達の家。メールしたでしょ?傘持ってなかったから、走ってきた」
「友達の家って、東京に友達がいるのかい?」
「うん、知り合ったばっかりの子だけど」
「そうか。そりゃあ良かった。向こうにも友達が出来れば、仕事にも精が出るってもんだ」
「女に精が出るなんて言い方しないでよ」
「ん?」
「もういいや、着替えてくる」
優子は二階に上がった。雨に濡れた白いブラウスが透けて、下着の線がはっきりと見えている。そんな優子の背中を見て、父親は思う。
(優子も大人になったものだ)
この土日は何もする事がない。優子は学校、仕事がない日は家でゴロゴロしている。オンとオフの切り替えがはっきりしているのである。棚に並んでいる少女漫画を読みあさり、少しベースを弾いて、寝転がったままウサギと戯れたりしている。だが向上心の強い優子の事である。時折思い出したように部屋の隅でステップを踏んでみたりする。以前は廊下でステップを練習していたのだが、突然現れた兄にその姿を見られてしまい、恥ずかしくなった事がある。それ以来、そういう練習は部屋の中でするようになったのである。
外の雨はすっかり止んだようだ。にわか雨が上がると、空は打って変わって日が差し、蝉の鳴き声で辺りは一斉に賑わった。季節は夏である。
(外に出てみるか)
退屈をしていた優子は、Tシャツとハーフパンツ姿にサンダルを履き、外に出た。
(蒸し暑いな)
雨上がりのアスファルトの臭いが立ちこめている。辺りの草花に露が輝き、それが色鮮やかに揺れている。大きく伸びをして、優子は一人、見慣れた街を歩いた。優子は何もないこの街が好きである。母親と離れて暮らすようになって以来、優子はこの土地に育てられてきたと言っていい。故郷とは一見何もなくとも、本人に取ってみれば不思議な包容力を持つものらしい。そのためか、優子はこの土地にいる時には母親がいない孤独を感じずにいられた。もちろん、夢から離れた寂しさ、心許なさはある。けれども優子の夢とは、無数の光を飲み込んだ渦のようなもので、それに引き寄せられるにつれて、その危険さから身を翻して逃げたくなるようなものでもある。優子は夢を追う孤独の一方で、その危険さから守られている安心感をもこの土地で感じているのである。
(昼飯でも食べにいくか)
優子は水たまりを飛び越えつつ、国道沿いの中華料理屋に向かった。国道沿いというのは寂しい風景である。日本中どこへ行っても代わり映えしない風景に、同じようなファミリーレストランが並んでいる。地方に大資本が進出して、こうした判で押したような風景を各所に作り出している。おまけにそれらは入れ替わりが激しく、見慣れたと思ったらすぐになくなり、また新しい店ができるのである。幼少の頃から変わらない故郷にあって、ここだけは時代の移り変わりを感じる。ここを通るたびに、優子は不変の価値とは何かを考えさせられるのである。
(私の夢も同じようなものかも知れない)
時代のあだ花。流行り廃りの世の中で、一瞬の華となり散ってゆく。それが夢であれば、夢とは何と儚いものか。実際にそのような運命を辿った人間は数知れない。自分だけは特別と、誰もが思っていたに違いないが、それでも時代は次の獲物を探しまわる。自分の夢とは幻影のようなものなのか。その霞を追いかけているような心細さと恐ろしさで、優子は立ち止まってしまった。国道を車がハイスピードで通り過ぎるたびに、優子の髪がなびく。遠くから蝉の声が聞こえる。
(それでも私には…。今の私に出来る事はこれしかないんだ)
昨夜、由里子に言った言葉を、優子は自分に言い聞かせていた。どれだけ未来が捕らえようのないものだとしても、今を生きる事でしかその尻尾は掴めないことは確かだ。
排気ガスを受けて煤だらけになった暖簾を潜ると、優子は中華料理屋に入った。店は昼時にも関わらず、客は一人もいない。それくらい寂れた店である。そこで昼食をとって満腹になると、優子の気持ちはすっかり前向きになっていた。我ながら単純な性格だと、優子は思う。ふと見ると、店の隅に置かれたテレビに、女性タレントの微笑む姿が映し出されている。雰囲気を壊さない、さりげないコメントをしつつ、たまにとぼけた事を言って笑いを取る。その間、常に笑顔を絶やさない。
(見事なもんだ)
そういう器用さを、優子は羨ましいと思う。優子は明るく活発な性格ではあったものの、集団の中での駆け引きにおいては決して器用な方ではない。普段は仲間とふざけ合っているが、仕事となると打って変わって無口な方であり、本当に話したい事以外は話さないような性格である。そうした潔さが普段は人から愛されるのだが、見せ物となるとそうもいかない。特にステージ上のフリートークなどでは、テレビの様に後で編集する訳にも行かないので、その場その場で瞬時に適切なコメントが求められる。実を言うとこれが優子にとっては苦手分野である。が、それでは優子の信念が許さない。できない仕事などあってはならないのである。優子はこれまでも得手不得手に関わらず仕事を受け、その後で人一倍努力をする事で自分の守備範囲を拡張してきた。優子の多彩な能力は天性のものではなく、こうした努力の賜物といっていい。であるから、やれば何とかなるさ、というのが新しい仕事に挑戦する時の優子の基本的なスタンスである。
(いつかステージでMCをやりたいな)
そんな事を考えているうちに、優子はふと思い出す。
(そう言えば、もうすぐ公演だ)
優子の所属するアイドルグループでは、定期的に公演が行われる。ステージ上では、日頃の努力の成果が如実に現れるのである。由里子も今頃それに向けて、練習をしているに違いない。
(こうしちゃいられない)
優子は立ち上がると、すぐに勘定を済ませ、外に出た。
(今年の夏は忙しくなりそうだ)
去年の夏、優子は浴衣を着て級友と夏祭りに出かけたりしていたが、今年はそんな暇もなさそうである。きっと浴衣は衣装で着る事になるだろう。優子の背中に日差しが照りつけ、うなじに熱を感じる。
(そういえば明日、合コンだとか言ってたな)
ふと優子は級友との会話を思い出し、青春を謳歌する級友達の姿を想像してみる。
(こっちの方が楽しいぜ)
道端の石を蹴飛ばし、優子は国道沿いを走り出した。