幸福と迷い
その時、部屋のドアが開き、チームメイトの母親が顔をのぞかせた。
「お夕飯できたんだけど、よかったらお友達も一緒に召し上がらない?」
そういえば優子は夕飯を食べていなかった。レッスンの後だけあって、かなり空腹である。
「優子ちゃん、食べていくでしょ?」
「あ、はい、ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
優子は立ち上がると、恭しくお辞儀をした。
階下に降りると、既に夕飯の支度が出来ていた。いい匂いがする。食卓には色とりどりの夕食が並べられている。
(これはまた豪勢だな)
優子は日ごろ夕食を一人で済ませている。家に帰ってから父親の作ってくれた夕食を口にするのだが、一人で食べる上に作ってから時間が経ってしまっているため、できたての美味しさを味わう事が出来ない。食卓から湯気を立ち上らせている食事に、優子の目が輝く。
ふと見ると、居間で恰幅のいい中年の男性が座ってテレビを見ていた。父親だろう。
「あの、こんにちは。お邪魔しています」
優子は挨拶をした。
「こんにちは。ゆっくりしていってね」
それ以上、父親は何も言わず、居間の隅っこでテレビを見続けた。邪魔にならないようにと気を遣っているのかもしれない。
食事の用意が整うと、家族全員が食卓に集まってきた。父、母、チームメイト、優子の四人である。橙色の明りの下、食卓を囲む。
(一人っ子なのかな?)
優子は考えたが、それでも普段、蛍光灯の青白く冷たい明りの下で一人夕食を摂る優子にしてみれば、華やかな食卓に変わりはない。
「いただきます」
食事が始まると、優子は食べるのが速い。母親が、
「遠慮しなくていいのよ。どんどん召し上がって頂戴ね」
と言ってくれたが、言われるまでもなく優子は遠慮などしていない。おおよそ十分やそこらで、出されたものを全て平らげてしまった。
「お代わりを持ってくるわね。召し上がるでしょ?」
母親が勧めてくれる。
「あ、はい、お願いします。」
優子は答えると、茶碗を差し出した。
「わはは、いい食いっぷりだな」
父親がビールを飲みながら、愉快そうに笑った。
「いやぁ、こんなに美味しい食事は初めてなもんで」
優子は本心からそう言った。母親はなかなかの料理上手らしい。
「そうかそうか、いや、成長期なんだから、うんと食べたほうがいいんだよ」
父親は嬉しそうに言う。
「恐れ入ります」
優子は二杯目の茶碗を受け取ると、それもすぐさま平らげた。チームメイトのほうはまだ一杯目も食べ終わっていない。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」
「あら、とんでもない。そんなに喜んでもらえると嬉しいわ。またいつでも食べにいらしてね」
母親は笑顔で言ってくれた。
(これなら毎日でも食べに来たいな)
優子は一瞬本気でそんなことを考えた。むろん、そんなわけにもいかないだろうが、優子は今日という日に心から感謝していた。優子は食べ物につられるタイプであったかもしれない。そういう単純なところが、優子の愛嬌でもある。
(しかし、さっきから家族の会話がないな)
優子は食べ終えてから、ずっとそう感じていた。かといって一人で席を立つわけにもいかず、手持無沙汰に座っていた。皆テレビを見るでもなく、黙々と食事をしている。
(私がいるから皆気を遣ってるのかな)
そう思うと居ても立ってもいられない。優子は立ち上がり、父親にビールを注いだ。勢い余ってグラスから溢れそうになるのを、父親が口で受け止める。
「ははは、ありがとう」
「いいえ、とんでもないです。それで…、今日一晩御厄介になるお礼と言ってはなんですが…」
言うが早いか、優子は居間に立てかけてあるギターを引っ掴み、抱えてソファーに座った。
「一曲披露します。下手くそな歌ですが、これでも私、バンドもやっているんです」
皆きょとんとした顔をして優子を見ていたが、優子は構わずギターをかき鳴らす。アコースティックナンバーは優子の得意分野である。お気に入りの一曲を、優子は歌った。ギターを弾く指が多少覚束なく、声はかすれ声だったが、それが優子の愛嬌と相俟って、聴く者の心を掴むような魅力を帯びる。
渾身の力を込めて、歌い終えると、優子は一つ溜息をつき、笑顔でこう言った。
「ありがとうございました」
と、一家を見まわした。その時、拍手が沸いた。いつの間にか一家に笑顔が灯っている。
「優子ちゃんすごい!」
チームメイトは拍手を送りながら、優子を称える。
「いや、なかなかいい歌だったな。私も昔そういう歌をやったもんだがね。久しぶりに感動したよ」
父親が感慨深そうに腕を組んでうなずいている。もっとも半分はお世辞だろうが、優子は満足げにこう言った。
「ありがとうございます。それではご好評に与りまして、次はお父さんの世代の歌をやりたいと思います」
おだてられるとすぐ調子に乗る性格なのである。優子は自分の父親のよく聴いている古い歌をコピーしたことがある。それをやってみようと思った。チームメイトの父親は音楽をやっていたそうだから、古い歌ならきっと知っているに違いないと踏んだのである。優子はギターをつま弾きながら、ゆっくりと渋い声で歌い出す。
(何て芸達者な子なのだろう)
その場にいた誰もがそう思った。事実、父親などは何故こんなに古い曲を知っているのかと、驚いた様子で優子の歌に聞き入っている。演奏はというと、先ほどよりも指先は覚束なく、演奏が途切れ途切れである。そればかりか歌詞をところどころ覚えていないため、そういう箇所はハミングで誤魔化している。自信がないならやらなければいいのに、とは誰一人思わない。自信もないのにやってしまう、優子の度胸と可愛らしさ、あるいはチャレンジ精神と言ってもいいかもしれないが、そういうものに皆惹きつけられていく。
優子が歌い終わった時、ビールをなめていた父親が立ち上がり、優子にこんなことを言った。
「優子ちゃん、一緒に飲まんかね?」
チームメイトが慌てて遮る。
「お父さん、私たち未成年なんだよ。変な冗談はやめて」
「そうか。それは残念だ。じゃあ私も一曲やるぞ」
それからというもの、優子は父親の懐かしのヒットメドレーに付き合った。チームメイトも一緒にいて、よほど楽しそうに、始終笑いあかした。父親のこんな姿を、目にしたことがなかったのかも知れない。それが終った頃には、既に時刻は十二時を過ぎていた。チームメイトと優子は部屋に戻り、すぐにそれぞれの床に就いた。お互いに風呂に入る体力を失っていたのである。部屋の明かりを消してそれぞれが布団の中に入った後、暗闇の向こうからチームメイトが話しかけてきた。
「ねえ、優子ちゃん」
「何?」
「優子ちゃんはなんでアイドルのグループに入ってるの?優子ちゃんみたいに何でも出来たら、一人でもやっていけそうなのに」
「一人でやっていくには、私には何もかも足りないよ。チームメイトから刺激を受けたり、厳しいレッスンを受けたり、そうやって成長していかなきゃいけないと思うんだ」
「私にもそんな向上心があったらなぁ。私だって歌もダンスも上手くなりたいとは思うよ。だけどきついレッスンを受けてる最中とか、もう辞めたいなって思うこともあるんだ。何のために私はこんなに辛い思いをしてるんだろうって、時々分からなくなる。最初は華やかさに憧れて入ったけど、思ってたのと違ってたっていうか…。こんな中途半端な気持ちで続けるくらいなら、もっと学校の勉強とかしっかりやった方がいいのかなって、迷うこともある。駄目だね…、単に憧れだけで入っちゃうと、モチベーションが持たないのかも知れないね…」
「最初は憧れだけでいいじゃんか。私だって迷うことはあるよ。昔は単に女優になりたいって思ってた。憧れてたんだ。けど今は少し違うんだ。よくわからないんだけど、女優っていうより、もっと自分にしかできない何かなんだ。それが何て言うのかわからないから、とりあえず女優って言ってるけど…。だから今やってることが役に立つかどうかも分からないし、辞めたいって思うこともある。でもそれを続けてるうちに、自分の目指すものが見えてくる気がするんだ。今の私にできることはこれしかないって思うんだ。続けてるうちに見えてくるものもあると思う。そりゃ学校の勉強はした方がいいと思うよ。私はしてないけどさ…。ま、とにかくさ、お互い続けていけば何か見えてくるよ。一緒にやっていこうよ。ね。」
優子の目指すものとは、つまるところ自身の多彩な能力を余すところなく発揮できる場所である。マルチタレント、という言葉が近いだろうか。当時の優子にそういう語彙はなかったが、もし知っていたとしても、それで優子が納得したかどうかは分からない。
「うん…、優子ちゃん、私もう少し頑張ってみるよ。今度一緒に自主練しよう」
「うん、いつでも付き合うよ。何かあったら何でも言ってよ。愚痴でも何でも聞くよ。あとさ、ごめん」
「ん?」
「ずっと聞けなかったんだけどさ、名前、教えてもらってもいい?」
優子はこのチームメイトに対して、ほんの少しの隠し事もしたくないと思ったのである。
「優子ちゃん」
「はい」
「このタイミングでそれ聞く?」
「ごめん、ずっと誤魔化してたんだけど、やっぱ名前ぐらい聞いておきたくてさ」
暗闇の奥で、くすくすと笑い声がする。
「由里子」
「ああ、私と一文字違いか」
「そうね、じゃあ私そろそろ寝るね。おやすみ」
「ああ、おやすみ由里子」
それから間もなく、二人の寝息が聞こえてきた。外は静かである。雨はすっかり止んだらしい。