名無しの友人
「お待たせ。じゃあ行こうか」
2~3分後、稽古場の玄関にチームメイトが現れた。外を見ると真っ暗である。通り過ぎる車のヘッドライトが暗闇を照らすたびに、大粒の雨が降り注いでいるのが見える。二人は玄関から外に出た。優子は持ってきた折りたたみ傘を開きながら言った。
「すごい雨だ。傘差してても濡れそう」
「ほんと、嫌になっちゃう」
二人は傘を差し、肩を並べて歩き出した。
(まずい)
優子は困ったことに気がついた。
(この子何ていう名前だっけ?)
優子はしばらく考えていたが、どうも思い出せない。優子はレッスンの最中、黙々とダンスの練習に取り組んでいるため、他のチームメイトとはあまり話さないし、他の人の話し声も聞こえてこない。実を言うと優子が名前を知らないチームメイトは他にも数人いるのだが、今までそれで困ったことはなかった。しかし今回はそうもいかない。何とか上手く誤魔化すしかない。優子はいつになく多弁になった。
「あのさ、今日のレッスン難しくなかった?私全然覚えらんなくって、居残りしてたんだけど、まだ自信ないわ」
「だよね。途中でほんとに訳わかんなくなっちゃう。でも優子ちゃんは偉いよ。あんなに出来てるのに居残りで自主練までして」
「出来てないって。顔だけは出来てる風な顔してすましてるけど」
「ふふ。でも優子ちゃんがやるとキレが全然違うよ。運動神経良さそうだもん」
「その分物覚えが悪いから苦労してんだけどね」
二人が談笑しているうちに、もうチームメイトの家に着いた。
(こんなに近いのか)
優子は率直に言って羨ましかった。自分もこれだけの近所に家があったら、どれだけ時間を有効に使えるだろうか。家は普通の一軒家だったが、優子の家と違い洋風な造りであった。
「どうぞ、上がって」
「お邪魔します」
優子はお辞儀をしつつ、中に入った。
「家族いるけど、気にしないで」
「うん」
玄関の扉が重々しく閉まると、よその家の臭いがした。チームメイトが明かりを付けると、玄関のシャンデリアが煌々と輝いた。居間のドアを開けると、チームメイトの母親らしき人物がいる。
「お母さん、ただいま。今日は友達と一緒なんだ。今晩泊まる予定だから、よろしくね」
チームメイトの横から顔を出して、優子は挨拶をした。
「すみません、今晩お世話になります。よろしくお願いします」
優子は頭を下げた。
「あら、いらっしゃい。何もお構いできないけど、ゆっくりしていって頂戴ね」
母親は笑顔をたたえ、上品な口調でそう言った。
「じゃあ、私の部屋に行こうか」
チームメイトはそう言うと、居間の扉を閉めて、階段を上り始めた。優子もそれに続く。家の中は香水の様ないい香りがする。
(立派な家だな)
優子はきょろきょろと辺りを見回しながら階段を上った。間接照明の柔らかな光が、何とも妖しげな雰囲気である。
それにしても、優子はまだチームメイトの名前が思い出せない。家の前に着いたとき、表札を確認すれば良かったと、優子は後悔したが、後の祭りである。
ドアを開けると、そこがチームメイトの部屋だった。入ると、そこだけ空気が変わったように少女趣味一色の部屋であった。まず基調がピンクである。カーテンやらベッドやら布という布にフリルが付いていて、何やらぬいぐるみが多数おいてある。優子にしてみれば、むせ返るほどのガーリーさである。殺風景な優子の部屋とは正反対の趣味だ。唯一少女漫画が棚に並んでいるところが共通点か。
「可愛い部屋だね…」
優子は異国に来たような心地がする。
「そうでしょ。私がコーディネートしてるの。ちょっと個性が強く出過ぎちゃってるかも知れないけど」
「いや、個性が強いのは良い事だよ。私の部屋なんて没個性だからさ」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい」
そうこうしているうちに、一匹の猫が部屋に入ってきた。しゃなりしゃなりと歩く上品な猫である。それが部屋の雰囲気にぴったりとマッチしていて、何ともお洒落だ。優子は小動物が大好きである。優子も家でウサギを飼っている。早速、優子の足下に猫が絡み付く。
「お、猫がいるんだね。可愛い。なんて名前?」
「ミミちゃん。あんまりよその人には懐かないんだけどね。優子ちゃん気に入られてるみたいよ」
「えーほんとに」
優子が人差し指で猫の頭をなでていると、今度は四、五匹の猫がわらわらといっぺんに入ってきた。優子はあっという間に猫の群れに囲まれた。
「優子ちゃんって動物に好かれるのね」
チームメイトは感心した様子で言った。
優子はその場に座り込むと、猫の一匹を頭の上に乗せ、両脇にも猫を抱え込んだ。
「あはは、大猟大猟」
二人の緊張がこうして解かれていった。どこからが「友人」と言えるのか、その境界はわからないが、二人は友人になったと言っていいだろう。もっとも、優子はまだ名前を知らないが。