夢と現実の往来
「じゃ、行ってきます」
父親に告げて、優子は家を出た。優子には兄がいるが、兄の姿は見当たらない。まだ寝ているのだろうか。
ちなみに、優子の両親は優子が小学生のときに離婚している。以来、優子は父子家庭で育っている。男親と男兄弟の中で育ったせいか、優子は趣味や性格、口調までがどこか男っぽい。例えば、優子の私服は殆どがジャンパーやパンツなど、カジュアルでラフなものが中心で、靴はいつもスニーカーである。フェミニンな印象のスカートやハイヒールなどは冠婚葬祭の時ぐらいしか身につけない。元々派手に着飾ったりする方ではないのだろう。「外見よりも実力で勝負する」という優子らしい選択である。
「優子、おはよう」
黒川に架かる橋の手前で、優子は級友に声をかけられた。
「ああ、おはよ」
優子には友達が多い。通学の途中で、優子はいつも誰かしらに声をかけられる。級友との会話はいつも他愛もない話だが、優子の周りには一人また一人と人が集まってくる。そうして学校に着くころには、いつの間にか結構な大所帯になっていることも多い。優子には友達と遊ぶ暇もなければ、テレビを見る暇もない。級友達との共通の話題には当然乏しいはずである。だが優子には天性の明るさと、竹を割ったようなさっぱりとした性格があった。それだけで皆、引き付けられるように優子の周りに集まってくるのである。
また、こんなエピソードがある。優子の級友で、バンドを組んでいる女子生徒がいた。彼女が優子に近寄ってくるなり、こう嘆願した。
「優子、お願いがあるんだけど、うちのバンドで今ベースが必要なのよ。優子はリズム感良いし、舞台慣れもしてそうだし、ベースをやってくれないかな?」
優子はベースなど触った事もない。それどころか楽譜が読めるかどうかも心配なくらいである。しかし、優子は即答する。
「いいけど、私、楽器なんてやったことないぞ」
優子は、頼られると断る事のできないタイプである。一見サバサバしているようで、実は情に厚い姉御肌だったようだ。優子のそんなところが、多くの人望を集める所以となっているのである。
ちなみに優子はこの後、忙しい合間を縫うようにしてベースを必死で練習する。ベースの大きなフレッドが優子の小さな手には辛かったし、太い弦が指にめり込んで痛い。が、そんな事は表情にも出さず、優子はベースを練習した。それは偏に「他人にものを見せるからには、それが何であっても最大の成果を上げなければならない」という優子独自のプロ意識からくるものであった。もっとも、優子は単なる人助けとしてこうした役を引き受けた訳ではない。優子はあらゆる事象を「女優になる」という夢の実現のためのワンステップとして位置づけている。優子の言う「女優」とは、単なる役者の事ではない。どこからどんな仕事が降ってこようともそれを受け止められる、人間としての幅の広さを、優子は「女優」の二文字に込めている。万事がその調子だから、優子のチャレンジ精神は欲張りと言っていいほどに旺盛であった。結局優子はベースを弾きこなし、バンドのライブも成功を収めた。それどころか、これよりずっと後の話になるが、アイドル数人でバンドを組む企画がなされた時、ベーシストにはいち早く優子が抜擢され、歌って踊れて楽器もできる「マルチタレント」の称号を与えられるのである。
優子の学校生活は、そんな訳で一際賑やかなものであった。お転婆娘という言い方は古くさいだろうか。優子の周りには常に人がいて、笑い声が絶えない。必ず周囲から笑いを取らないと気が済まない性格なのである。この辺りは優子のタレント性と直結しているだろう。唯一悩みがあるとすれば、優子は勉強があまり得意ではないという事である。特に理数系の科目となると、手も足も出ない。勉強をする時間がないというのも一因だろうが、そもそも学問自体に興味がわかないのである。定期試験を受けるたびに、優子は思う。
(こればっかりはどうも駄目みたいだな)
この時ばかりはさすがに、優子も弱気になる。とはいえ、判断の速い優子の事である。可能性がないと分かったらすっぱりと見切りをつける。後は気にもしない。
(高校卒業まで漕ぎ着ければいい。落第点さえ取らなければ良いだけの話だ)
そう結論付けて、後はすっかり忘れているのである。
登校時と打って変わって、下校時の優子は一人である。級友は皆部活動に勤しんでいるが、優子は一人学校を後にし、東京へ向かう。無論、芸能活動のためである。この時、恐らく優子は言い知れぬ孤独を味わったであろう。もちろん、優子はそんな素振りも見せない。だが、沈みかけた夕日に輝く黒川のせせらぎの照り返しを受けると、彼女の孤独は柄にも無い哀愁を帯びて彼女の瞳に蘇る。優子の心は、常に「夢」という時間も空間も超越したところにある。級友とはしゃいでいる時でさえ、優子の心はそこにないのである。一人になった時、自分の心がここにない事に改めて気づかされる。心はいつも「夢」という非現実の周りを孤独に彷徨っているのである。
東京には、東武宇都宮線の壬生駅から各駅停車の電車を乗り継いで向かう。この路線で東京に行くには、片道二時間程度を要するため、この往復の時間が優子に与えられた数少ない休息の時間である。もっとも、行きの電車の中で、優子が休息を取っている事は少ない。殆どの場合、その日のレッスンや公演のイメージトレーニングをしている。周囲の目線を気にしながらではあるが、その日のダンスの動きなどをチェックしているのである。東京に着く頃には、優子は大方の予習、復習を終えている。こういった小さな努力を積み重ねる事に、優子は余念がない。
レッスン中、優子は実に寡黙である。いつもは仲間とはしゃいだりふざけ合ったりしている優子だが、レッスンの最中だけは人が変わったようである。レッスン中に初めて優子を見た人の話などを聞くと、「最初は大人しい子かと思った」という意見が大半である。優子のその真剣な眼差しに、尊敬の念を抱く同輩、後輩も多い。 優子にとって、「夢」とは言うまでもなく、叶えるためのものである。しかし同時に、叶う叶わないは優子にとって大した問題ではない。その一点に向かって命を燃やし続ける事が自分にとっての宿命であると、優子は考えている。殆どの場合、本番とはステージに立ってパフォーマンスをする時の事を指しているが、優子にはそこに至るまでのプロセスこそが本番だと思われるのである。
もっとも、こうした考え方がいつでもプラスの方向に働く訳ではない。考え方が頑固なために、他のメンバーとぶつかる事も多い。優子にはどうしても、他のメンバーがやる気、集中力に欠けているように見えてしまう。他のメンバーにしてみれば、人それぞれのペースでやっている訳で、決してやる気がない訳ではない。むしろ懸命に取り組んでいるつもりなのである。しかし人一倍意識の高い優子にはそれが分からない。優子は時々本心を口に出し、その度にメンバーと喧嘩になる。優子はチームワークという美名の下に、足を引っ張られているような気さえする。そういうとき、優子は内心、
(辞めてしまおうか)
と思うのである。優子は元々、一人で芸能活動をやってきた経歴がある。女優として活動する事を目標にするのであれば、そのまま一人で活動していても良さそうであるが、優子は敢えてグループで活動する道を選んだ。その理由としては、大体のアイドルがそうであるように、やはり足がかりとしての意味合いが強かった。世間一般、あるいは業界内での知名度を上げ、より有利なポジションから夢を追う事が出来る事を期待しての選択である。であるから、優子にしてみればそこで足を引っ張られていては本末転倒なのである。
(一人でやっていた方が良かったのかも知れない)
こうした葛藤を胸中に抱きながら、優子は帰宅の一途を辿る。とはいえ、帰りの電車の中で寝ているうちにそんな事はさっぱりと忘れて、壬生に着く頃にはもう、次の日の事を考えているのである。優子の精神力の強さは、案外こういう忘れっぽさに起因しているのかもしれない。「振り向くな。後ろには希望がない」と誰かが言っていたが、優子は、常に遥か前方にある一点の光を見据えている。その心の光が、真っ暗闇の中でも四六時中、消える事がない。それだけで優子は何も恐れずに生きていけるのである。ざっと、これが優子の日常である。