母親
ある夜、ついに哲平は、乃木に思いを打ち明けた。レッスンが終わった後、いつもの様に乃木の自宅のテラスでタバコを吸いながら、話をしたのである。夜風が様々な虫の鳴き声を連れてきて、辺りは無音よりも静寂であった。
「自分の道とは何でしょうかね?」
もはやこんな哲学的な問いを恥ずかしげも無く繰り出せる程に、哲平は乃木に慣れ親しんでいた。だがその思い詰めた表情には、もはや生きる事に悩み疲れた、青く沈んだ面影があった。
「そうやって悩む事だ。悩みながら生きる事だよ」
あっさりと乃木は言う。
「しかし、僕は悩む事に疲れました。僕は実のところ無になりたいのです。何も考えず、悩まずに生きていく事が出来れば、どれだけ強い事でしょうか」
哲平がそういうと、乃木はゆっくりと諭した。
「無になる事はとても難しい事だ。禅を組む事で無の境地を目指す人もいるがね、そんなものは虚構に過ぎない。人間が生きていく上で無になどなれるはずがない。そもそも無になりたいと考えている時点で無ではないのだから」
静かに、ただ確実に、哲平は無になる事すら否定された。言葉は何にも増して残酷なものである。絶望感に満たされ、哲平は答えた。
「では何を求めれば良いのでしょうか?何に向かって生きれば良いのでしょうか?」
「何も求めなくていい。ただ自分の道を行けとしか言いようがない。ただ」
絶句する哲平に乃木はこう続けた。
「今の自分を否定する必要はない。むしろ今の自分を肯定して、内なる声に耳を傾けることだ。そうすれば成すべき事も分かってくるさ」
恐らく、乃木の言わんとする事は、「夢」を筆頭とした外部の対象物に向かって進むより、自己の内部にある純粋な欲求に従って生きよ、と言う事であろう。確かに、夢に向かって邁進し、それをやっとの思いで掴んだはいいが、気が付いてみると本来の幸福からほど遠いところにいた、という例は枚挙に暇がない。それは哲平もよく理解していた。だが内なる声、と言われても、哲平には今ひとつそれに当たるものが見出せなかった。
(食欲、性欲、睡眠欲というような原始的な欲求以外に、何か純粋な欲求が俺の中にあるだろうか)
哲平は元来、自分の欲求には正直な方であるから、そうした欲求を我慢した覚えが殆どない。振り返ってみれば、教師を辞めた時にしても、何か得体の知れない欲求に突き動かされていたのを覚えている。つまりそれだけ哲平は自分の欲求に従って生きてきたのであるが、その自分でも未だ叶えていない秘めた欲求があるのだろうか、と哲平は思うのである。
二人が話しているうちに、乃木の奥さんが家の窓を開けて声をかけた。室内の明かりが薄暗いテラスに差し込む。
「二人とも、お話中悪いんだけど、お夕飯出来たわよ。哲平君も良かったら食べていく?」
哲平が乃木の奥さんから夕飯を誘われる事は、これまでも間々あった。そういう時、哲平は遠慮なく誘いに乗る。自宅でも母親が食事を作っているのだが、哲平は自分の母親よりも、この乃木夫妻の方が話しやすかったのである。自分の悩みを分かってくれている、そんな安心感があったからであろう。
「すみません、ではお言葉に甘えて」
哲平は易々と誘いに応じると、室内に入っていった。
オレンジ色の照明の下、乃木夫妻と哲平は円卓を囲む。他人が見たら家族の団欒にしか見えないであろう。食事中、乃木の奥さんが哲平に言った。
「哲平君、レッスンの方はどう?」
「ええ、順調ですよ。中学の教師よりも向いているみたいです」
「そう、それは良かったわ。うちの人の病気も早くよくなると良いんだけど。暫くは哲平君に負担をかけそうだわ」
実のところ、乃木が哲平を雇ったのは、自身の病気が原因である。精神疾患、所謂「鬱病」である。何が原因でそうなったのか、哲平には分からなかったが、哲平の悩みを見透かした様に言い当てるところを見ると、大方哲平と同じ様な悩みを過去に持っていたのかも知れない。ともかく、そういった病気のせいで、乃木はレッスンを続ける事が出来なくなり、哲平を雇ってピアノ教室を存続させたのである。
「負担だなんてとんでもない。とても楽しくやっています。第一私はこの仕事がなければ生きていけませんよ」
事実、経済的にも精神的にも、この仕事をしていなければ、哲平は今頃どうなっていたか分からない。乃木は殆ど会話を交わす事がないのだが、その口を重々しく開く度、こんな事を言った。
「哲平君、今日と言う日はもう残り少ない。人生もこのように有限だから、周りに流されて妥協してはいかんよ」
また、乃木がそんなことを言う度、乃木の奥さんは
「また、最近すっかり説教臭くなって、もう歳だわね。哲平君、聞き流してちょうだいね」
などと乃木をたしなめる。
「いいえ、乃木さんの言葉に、私はいつも励まされています」
と、哲平は言うのだが、同時に悩まされている事も事実であろう。真理に近づくという事はおおよそ諸刃の剣であるのかも知れない。現に真理を知ったかに見える乃木はこうして鬱病を患っているのだ。哲平は乃木の黙々とした姿に、未来の自分を見た気がした。
「そういえば、お母さんは元気?」
乃木の奥さんは哲平の母親とは昔馴染みである。
「ええ、元気にしていますよ。最近は私も一応働いているので、小うるさい事も言わなくなりました。これも乃木さんに雇って頂いたお陰です」
「哲平君の事をいつも心配しているものね。たった一人の家族だもの。気に懸けないはずがないわよね」
「まあ、母は少し心配性というのもありますけどね。何より私がふらふらとしているのを心配していたみたいです」
と、自嘲気味に哲平は言ったが、さすがにこの時は「たった一人の家族」という言葉が身にしみた。考えてみれば、今の仕事も母親が世話してくれた仕事なのだ。母親がいなければ、自分は今どこで何をしていただろうか。「自分の道」に悩む事もなく、気楽に暮らしていたかも知れないし、逆に生きる意味を一人悶々と考えて暮らしていたかも知れない。それを考えると、悩みながらも良き相談相手に恵まれ、仕事にも就けている今の状態は最良の選択だったのではないかと、哲平には思えてくる。そういう道を期せずして母親が切り開いてくれたのだと思うと、「たった一人の家族」という言葉が重みを増してくるのである。と、その時、重い口を開き、乃木が言った。
「今日はもう帰りなさい。お母さんが心配しているかも知れない」
まさかこの歳になって母親に心配される事もないだろう、と哲平は思ったが、乃木の重々しい言葉から何か不吉な予感を感じて、すぐに帰宅した。自転車を飛ばして帰る道すがら、静かな夜道の途中で、哲平は何か雑然とした胸騒ぎを感じていた。親子の絆とは不思議なものである。
哲平が自宅に帰ると、母親が倒れていた。キッチンの鍋には哲平に食べさせる為のカレーが作ってあった。哲平はすぐに救急車を呼び、母親は病院に搬送されたが、既に手遅れであった。母親は元々、膠原病の持病があり病弱であったが、それが直接の死因ではないらしい。転倒したときのショックで気絶し、そのまま帰らぬ人となったのである。
哲平は今までの自分の行いを悔いた。しつこいくらいに自分を気に懸けていた母親。うるさがる自分をものともせず、世話を焼いた母親。そういう母親を、自分は疎み、避けてすらいた。母親には自分しか家族がいなかったのに、それを分かってやろうともしなかった。哲平はまた一つ、生きる意味を失ったのである。
これが、哲平が優子に出会う三年と半年前の話、2005年の9月の事であった。