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月見草  作者: 北川瑞山
哲平の場合
12/13

街角の憂鬱

 哲平は主に平日のレッスンを任された。レッスンの時間帯は曜日によって違ったが、大抵は午後二時頃から七時頃までの時間帯であった。レッスンに通う生徒は主に小中学生であり、大方大人しい子ばかりであった。勿論、皆が皆意欲的にピアノを習いに来ているという訳ではなかったが、哲平はかつてやる気のない生徒であったため、そういう生徒を見ていると幼少の頃の自分を見るようで微笑ましかった。そういうときは生徒の側に合わせたペースで、彼らに無理のない様にレッスンをするのである。金を払ってレッスンを受けに来ている訳だから、何もこちらの要求を押し付ける必要もなく、それで他の誰かに迷惑がかかる訳でもない。何よりそれで本人のモチベーションが持続するのであれば、それが一番良いではないか。というのが哲平の持論であった。義務教育という不特定多数を相手にした教育ではおおよそ実現できなかった教育方針である。そういった意味では、中学の音楽教師よりもこちらの方が哲平にとって納得のいく仕事ではあった。といって毎日が充実しているかと言えばそうでもない。哲平の毎日は空虚そのもので、心はどこにあるのか知れず、時には仕事にすら身が入らないときもあった。

(自分の道とは一体何なのか)

この問いが哲平の中で這い回り、平穏な日常を剥ぎ取って哲平を孤独に陥れるのである。

 父親が死んだ時、哲平は改めて「人はいつか死ぬ」という事実に気付かされた。それからというもの、哲平は時間の流れが恨めしかった。刻々と迫る死に向かって背中を押される恐怖。それがいつしか自分の道を思い詰める結果となったに違いない。人生は一度しかないという事実が、この上ない重みとなって哲平にのしかかったのである。

 休日、哲平は何をするでもなく街を歩き回った。迷いや不安から逃れる事は出来ないものの、家にいると何となく居たたまれない気分になり、街を徘徊してしまうのである。そういう時、大抵は宇都宮の街を歩くのだが、この街を歩いていると、改めて自分の夢の軟弱さに気付かされるのである。

(宇都宮とは寂しい街だな)

と、歩くたびに哲平は思う。それなりに街は栄えている。しかし街独自の魅力は全く見当たらないのである。駅前に現れては消えていく大型商業施設、飲食店などは大方東京から進出してくるものであろうし、駅舎やペデストリアンデッキは仙台駅か大宮駅の模倣であろう。要するに、どこを見ても華やかな他の都市の受け売りに過ぎないのである。

(俺の夢とはこのようなものかも知れない)

他者の華やかさに目を奪われ、その成功モデルを真似して、自身も輝こうとする。自分の夢とはそういうこの街の寂しさにどこか共通していないかと思うのである。

 思えば、「町おこし」という言葉ほど憂鬱な言葉はない。町民が我が町の魅力のなさを自覚し、嘆き、他の地域の成功事例や都市の美点を懸命に真似てみるも、大概は努力の甲斐なく失敗に終わるのである。例え成功したかに見えても、殆どごく一時のものに終わる事が多い。町民達が一致団結してかけ声をあげるも、それに対して周囲は冷ややかな視線を送り、時折失笑すら漏れる始末である。結果として町民達は改めてわが町のポテンシャルのなさを思い知り、恨み、深く落胆するのである。正に夢というものの儚さを象徴しているかのようである。そんな中、哲平は思う。

(誰かの模倣では駄目なのだろうか)

確かに、夢とは誰かの模倣でしかないかも知れない。模倣で身につけた価値など、殆ど存在価値はない。他人の方法だけを真似ても、大元を超える事は出来ないであろう。しかしそれでは「自分の道を行く」とは一体何であるのか。前代未聞かつ唯一無二の事に挑戦する事は簡単である。アメリカの馬鹿げたコンテストにある様に、頭突きでスイカをいくつも割ったり、顔に洗濯バサミを大量にくっつけたりといった事に挑戦する事は何かしら出来るであろう。しかしそのような無意味な事に人生を費やしたくはない。出来る事なら人の役に立ち、尊敬されたいものである。だがその手段は一つとして見当たらないのである。自分の能力の範囲内で世の中に貢献し、かつ自分にしか出来ないことなど、何もないに決まっている。第一自分の唯一の取り柄であるピアノにしたって、自分より上手い者など世の中には五万といるのだ。つまり自分がいなくても世の中は問題なく回るのではないか。自分は不必要な存在ではないか。と、哲平は喫茶店で、街頭で、自宅で、仕事場でこのような事を延々と繰り返し思索していたのである。そうして街のあちこちで吐き出すタバコの煙の味ほど憂鬱なものはなかった。そしてその内に、ある結論に辿り着く。

(世の中の殆どの人間は、必要のない存在なのではないか)

勿論、自分も含めてである。世の中に果たしてこれほどの数の人間が必要であろうか、と思うのである。世の中の殆どの人間はしたくもない仕事をして、毎日糊口を凌いでいる。そうしなければ生きられないからである。そうして税金を納め、子供を作ることで何とか自らの存在意義を保とうとしている。考えてみれば、何と残酷な話であろうか。自分に存在意義のない事を自覚しながら、それでも「社会に貢献しているから」「妻子がいるから」と言って懸命にそれを否定しつつ、長い人生を歩まねばならないのである。しかもそれが俗に「普通に生きる」とされている生き方なのである。哲平には、そういう所謂「普通の人」の心理が全く理解できなかった。自分の存在意義がないと分かった時点で、死んでしまえば良いではないか。と思うのである。恐らく哲平の論理性がそう考えさせるのであろう。あまりにも偏った考えである事は哲平も自覚している。しかしこの考えを論理的に否定出来る者があろうか。と哲平はこの命題の真実性を感じて止まなかった。

 要するに、夢を追う者、それを叶えた者、そうはせずに普通に生きている者。誰一人として存在意義はない。存在意義のある者とは、すなわち自分の道を行く者とは一体何であるのか。哲平は頭を悩ませた。また、夢が模倣に過ぎないと知った以上、哲平はもはや才能、運という言葉にも価値を見出せなかった。

(俺に足りないのは才能でも運でもない)

才能を持った人間など掃いて捨てるほどいる。その中で己の才能に気が付くことができ、努力を継続できる環境に恵まれ、世の評価を得られる運こそがむしろ重要なのである。しかし才能はあっても運に恵まれない人間が多数派であるから、夢を追う事は大抵失敗に終わる。ところが、一方で運に恵まれ才能を夢にまで昇華させる事が出来たとしても、それはあくまで運の功であるから、不運によって容易く没落する。いずれにしても悲劇である。それを思えば、才能や一時の運ほど有害なものはない。夢とはかくも脆く、無意味なものであった。

(では何を目指せば良いのだ?何を手に入れれば良いのだ?)

哲平には自分の道を行くために求めるべきものすら分からない。どうすれば心の隙間を埋められるのか、虚無感から逃れられるのか、そんな思いを巡らせ、思考回路が摩擦を起こし、ついに発狂寸前にまで追い込まれた。

 そんな時に、哲平は橋の欄干から、宇都宮駅前に流れる田川を眺めた。夕日に紅く染まる水面を見ていると、ふと不変の価値というものに気付いた。それはただそこにある事である。何も考えず、何の欲も持たず、「無」としてあり続ける事である。そこに何の迷いもない、何の希望も絶望もない。その果てしない自然の強さに、哲平は惹かれた。これほど今の自分を肯定してくれるものがあろうか。夢も希望も、自然の強さの前では無力である。

(自分は「無」になりたい)

哲平はそんな事を考えていた。


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