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月見草  作者: 北川瑞山
哲平の場合
11/13

乃木との再会

 乃木の自宅兼ピアノ教室は、哲平の家から自転車で十分程度の、ごく近所にあった。そこへ向かうとき、哲平は少なからず緊張をしていた。乃木とは面識はあるものの、会うのは久しぶりであったし、それ以上に雇われる立場で顔を合わせるのは、単なる知人として会うのとは違う。

 春の心地よい風を受けながら自転車で、哲平は乃木の自宅へ向かった。流れ行く春の匂いに身を任せていると、何故だか緊張が少し和らいだ。

 乃木邸に着くと、昔と変わらない鼠色の洋風家屋があった。ガレージには白いセダンが止まっており、表には「乃木ピアノ教室」と書いたピアノの形を象った小さな看板が立っていた。

(久しぶりだな)

昔、哲平が小学生の頃に遊びに来て、それ以来である。哲平は今二十六歳であるから、十四、五年ぶりであろう。哲平は玄関のチャイムを恐る恐る鳴らした。暫しの沈黙の後、外付けのスピーカーから初老の男性の声が聞こえた。

「はい」

聞いた瞬間、それは乃木の声だと、哲平にははっきりと分かった。とても懐かしい、暖かい、忘れる事の出来ない声である。

「あ、こんにちは。中島ですけれども。ピアノ教室の見学をさせて頂きたいと思いまして」

「ああ、じゃあ裏口の方から入って」

家の裏手を見ると、砂利道に点々と飛び石が敷いてあって、質素な白いドアに繋がっている。哲平はそのドアから中に入った。

「失礼します」

中に入ると、そこには誰もいなかった。そこはピアノ教室として使っている部屋だろう。天井の高い防音室には二台のグランドピアノが置かれ、窓際には背の高い譜面台と、その上には白く尖った指揮棒が置かれていた。哲平は玄関で靴を脱ぐと、中に入って辺りを見回した。床が硬い。防音のため、床にコンクリートを詰めているのだろう。カーテンから漏れる日の光がピアノにあたり、黒く光っている。黒革の椅子に座ると、哲平は昔ここに来た時の事を思い出した。この部屋の匂いから、ありありと昔の記憶が蘇ったのである。思えば哲平が小学生の時のことである。当時既にピアノを習っていた哲平は、この部屋で乃木に自分の演奏を聴かせた。その時の事を、哲平は今はっきりと思い出せる。そこで哲平はブルグミュラーのアラベスクを弾いた。覚束ない演奏ではあったが、乃木はそれを誉めてくれた。弾き終わると、乃木が拍手をしながらこう言った。

「哲平君、とても上手だったよ。君は将来、立派なピアニストになれるよ」

勿論、今となってはその言葉がお世辞であろう事は哲平にも分かるのだが、当時の哲平はその言葉を信用した。何においても誉められた事のなかった哲平である。よほど嬉しかったに違いない。それからというもの、その言葉を常に念頭に置き、哲平はピアノの練習に明け暮れた。結果、ピアニストにはなれなかったが、今の自分があるのはその乃木の一言のお陰だったかも知れない。と、哲平は考えた。もっとも今の自分が果たして進むべき道を正しく進んで来た結果であるのか、哲平には自信がなかったが、少なくとも自分の才能に気が付き、それに全神経を集中させる様な充実した半生を送る事が出来たのは確かである。それ故に、誉められる事ほど人の一生を左右するものはない。と、哲平は痛感していた。そして同時に自分の来し方と現在の姿を比較して、今の自分を哀れにも思った。

 と、部屋の奥の茶色のドアから、初老の男性が現れた。それは大分老け込んではいるものの、紛れもなく乃木であった。白髪をオールバックにし、銀縁の眼鏡をかけ、口髭を蓄えている。ワイシャツの上に紺のベストという何とも品のいい出で立ちであった。

「やあ、久しぶりだね、哲平君」

乃木は開口一番、左手を上げてこう言った。慌てて哲平は立ち上がり、深々と頭を下げた。

「お久しぶりです。この度は母が勝手なお願いを致しまして…」

「いや、良いんだよ。大分悩んでいるそうじゃないか。何でも自分の生きる道を模索してるとか」

(そんな事まで聞いているのか)

どうやら母親はそこまで話しているらしい。哲平はとたんに恥ずかしくなった。ご近所馴染みだから、気を許して話をしたのであろう。哲平は仕方なく首を縦に振った。

「そこまでご存知でしたか。何とも表現しづらい悩みなんですが、ふっと湧いて来て、音楽教師を辞めてしまいました」

乃木は椅子に腰掛け、哲平にも座るように勧めた。座りながら足を組むと、乃木は言った。

「いや、分かるよ。痛いほどね。私も若い頃はそういう悩みがあったもんだ」

これが哲平には意外であった。乃木はピアノ教室を開く前、オーケストラの指揮者として名を馳せていた人物だ。夢に向かって一直線に進んで来たのではないのか。その乃木に、夢と現実の狭間を彷徨う悩みがあったのだろうか。と、哲平には全く解せなかった。

「これからレッスンがあるから、見ていくと良い。それでやれるかどうか、君が判断してくれ」

「はい、ありがとうございます」

哲平は部屋の隅にある椅子に腰掛け、レッスンが始まるのを待った。部屋の本棚には、シューベルトやベートーベンの伝記、それにドラえもんなどの漫画本が並んでいた。恐らくレッスンを受ける子供が、空いた時間に読むのであろう。

(割と小さい子が来るのかな)

哲平はそう察した。

 それから五分ほど経った頃である。部屋に一人の女の子が入って来た。小学校高学年くらいであろうか。哲平が想像した通り、年少であった。

「こんにちは、乃木先生」

女の子は礼儀正しく挨拶をした。

「こんにちは、ゆかりちゃん。暑い中大変だったね」

「ほんと、今日は暑かったよ。あれ、今日はお客さんがいるの?」

「ああ、今日はあのお兄さんが見学に来てるんだ。まあ、気にせずにいつも通りやろう」

女の子は哲平の方を向くと、軽く会釈をした。

「こんにちは」

哲平は女の子に笑顔で挨拶をした。元来、哲平は子供が好きである。中学の教師になったのもそういう自身の性格を知っての選択であったが、中学生とは哲平が想像していたよりも複雑な年頃であったらしい。何かと自己主張が強いくせに、それでいて特に何も考えていないから、その真意を量りかねる。大人にしてみれば、これほど扱いに困る存在もない。そういう青春の闇を背負った様なところが、この女の子にはなかった。つまりまだ子供だったという事だ。

 その後、レッスンが始まった。女の子はカノンから始まり、ツェルニーやソナタといった練習曲を弾いており、乃木のアドバイスを受けながら、繰り返し同じ曲を練習している。その姿を見ているうち、哲平は何か微笑ましい気持ちで心が満たされるのを感じていた。まだ幼かった頃の自分を思い出し、目の前の女の子と重ねてみていたのである。哲平は自分の幼少期を思い出すたび、ある感慨に浸される。実は哲平は幼少期、ピアノが何よりも嫌いだったのである。元々哲平はピアノの練習が嫌で、一日でも早く辞めてしまいたいと思いながらも、それを言い出せずにずるずると続けていた。それが乃木に誉められた事により、唯一の自分の長所として認識する様になり、いつしかピアニストを目指すまでになっていた。そういう運命のいたずらとでも言うべき偶然の積み重ねで人生が方向付けられている事に、哲平はある種の寂寥感を感じざるを得ない。

(人の夢なんていうものは必然ではなく偶然に作られていくものなんだな)

もっとも、そんな人生の浮薄さを、哲平は微笑ましくも感じている。夢などと言うおおよそ偶然の積み重ねで出来た何の因果もないものを、人は命を懸けて追いかけ続けているのである。これほどに滑稽な話もない。

(人の一生と言うのは大いなる笑い話に過ぎないのかも知れない)

そう思うと、哲平の「自分は如何に生きるべきか」という悩みは幾分か薄れていくのである。

 レッスンが終わったようである。女の子は礼儀正しく乃木にお辞儀をする。

「ありがとうございました」

それに乃木は笑顔で答える。

「ああ、お疲れ様。今日もよく頑張ったね」

女の子は手早く楽譜をバッグに放り込むと、玄関で靴を履く。

「先生、さようなら」

「さようなら、また来週」

女の子が部屋から出て行き、バタンと扉が閉まる。

「さて、どうだったね?見た感想は」

乃木が哲平の方を振り返り訊ねた。哲平は先ほどの感慨に打たれた直後だからか、この機会を運命と感じた。恐らく、どうせ人生など偶然に決まってしまうのだし、ここで躊躇していたって自分にはする事もないと考えたのであろう。

「やらせてください」

哲平は即答した。自分の人生が少しずつ拓けていくのを、この時哲平は感じていた。

「そうか。それはかまわんがね」

乃木は踵を返し、背中でこう言った。

「うちの給料は安いぞ」

哲平は即座に答えた。

「いえ、いいんです。何もしないでいるより、少しでも前に進みたいんです」

哲平がそう言うと、乃木はテーブルの上からタバコを掴んで、哲平に言った。

「表で一服せんかね」

 庭のテラスで乃木と哲平の二人はタバコを吸った。初夏の草花が鮮やかに揺れて美しい庭である。

「哲平君、君は悩んでいると言ったね」

乃木がタバコに火を付けながら、唐突に切り出した。

「ええ、悩んでいます」

とだけ哲平は答えた。

「君の悩みが私にはよく分かる」

「はあ、そうですか」

哲平は吐き出す煙を止めた。

「ああ、人の人たる所以は、自分の道をゆく事にあるのだ」

哲平は密かに感激した。まさかこの言葉にならない自分の思いを、分かってくれる人間がいるなどと、予想だにしていなかったのだ。

「だが」

乃木は続ける。

「それが夢となると話は別だ」

乃木はタバコの煙を吐き出してこう言った。

「人の一生はしばしば、旅に例えられる。それになぞらえて言えば、夢など車窓から見る景色に過ぎない。その華やかさに惹かれて見る幻想に過ぎん。思えばこれほどに自分の道を踏み外す要因となるものはない。それは決して目的地ではあり得ないからだ」

何と厳しい言葉であろう。乃木は自分の道をゆけと言う。しかしそれでいて夢の存在を全否定したのである。では自分はどうすれば良いのか、哲平は途方に暮れた。

「しかし、そういう悩みを一向に持たず、何不自由なく、それでいて死んだ様に暮らしている人間が多い中で、君はたいしたものだ」

乃木はそう言うと、タバコを灰皿にねじ伏せた。

「まあ、よく考え、悩む事が大事だ。その間は、ずっとここにいると良い」

「しかし」

哲平は反論した。

「乃木さんは、指揮者として大成されたではないですか。それは夢を叶えられたという事ではないですか?」

乃木はそれを聞いてふと、自嘲気味に笑った。

「よしんば夢に辿り着く事が出来ても、それは遠くから見るのとは全く違う。ごつごつした岩肌や、蚊やブヨのたかる草木が生い茂っているだけだ。そこは自分の夢見た場所ではなかったと、辿り着いて初めて気が付くのだ。そのような一生が幸福とは思えない」

「しかし、それは夢を叶えた者だけがたどり着ける境地です。それを見る事すら出来なかった者よりは幸福なのではないですか?」

負けじと哲平は反駁した。そこには幾ばくか、夢に向かって進んで来た自分の半生を否定できない意地があったのである。そんな哲平に乃木は悠然と答えた。

「やはり、君はたいしたものだよ。夢を叶えられそうもない時、大抵の人間は夢の価値を否定しようとする。また他人にそういう言葉を期待する。自分の価値観を覆そうとするのだ。だが君はそれをしなかった。だがね、君の様な人間こそ夢の残酷さに気付くべきだ」

乃木はタバコとライターをポケットにしまうとこう言った。

「夢にたどり着き、その真の姿を知った後、果たしてどう生きる?価値観を簡単には覆せない強固な精神を持った者ほど、それが見出せんのだよ」

哲平は絶望した。夢にたどり着く事は出来ないにせよ、それに向かって邁進する事が自分の道を行く事であるという考え方に変わりはなかったのである。しかし哲平はそれすらも否定された。では自分の道を行くとは一体何を意味しているのか、哲平は考えなければならなかった。それは今までの哲平の価値観を一切否定し、一からそれを再構築しなければならない事を意味していた。しかし、それは哲平にとって希望でもあった。目の前に垂れ下がっていた帳が落ちた様に、前途が洋々と広がったのである。ただその空漠とした広さと静かさに、哲平は言い知れぬ恐怖を味わった。どうやら絶望と希望は表裏一体のものであるらしい。


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