退職後
そのような過程を経て、哲平は栃木の実家に戻った。久しぶりの実家である。哲平は今や無職であり、日がな一日何をする訳でもなく寛いだ。だがそんな哲平の姿を心配そうに見つめる者がいた。哲平の母親である。哲平が辞職した事で、この家の収入はついに途絶えた。哲平とその母親は、哲平の父親が遺した遺産を切り崩して生活をしていたのである。母親の心配も当然であろう。
ある日事である。母親はついにその不安を口にした。
「哲平、お前いつまでそうやってゴロゴロしてる気?そんなに暇なら仕事探しでもしたらどう?」
「ああ、そのうちな」
「そのうちって、お前いっつもそんな事言って、教師辞めてから一ヶ月にもなるじゃないの。大体、辞める時だって親にも相談せずに辞めちまってさ」
哲平は教師を辞める際、母親には一切相談しなかった。辞める理由を説明する自信がなかったし、第一反対される事が目に見えていたからである。
「俺はね、母さん。別に毎日ただゴロゴロしている訳じゃないんだよ。自分の生きる道を考えているんだ。そりゃ人間金がなきゃ生きていけないから、それが経済活動に根ざした道である事は必須だよ。だけどそれ以前に自分の生きる道を決めて、その上でどうそれを経済活動に乗せるかを考えるのが順序ってもんだろ。人間は生きるために働くんだ。働くために生きるんじゃない。だから生きる意味をまず考えてるんだ」
「そりゃ結構だけどね。その生きる道とやらを働きながら考えたって遅くはないだろう?別に就職しろとは言わない。アルバイトだって良いんだ。とにかく働く姿勢を見せてくれよ。お母さんはね、お前が一日ブラブラしているのを見ているのが辛いんだよ。ご近所さんにもみっともないし」
哲平は腹が立った。何故無条件に働く事を美徳と考えるのだろう。近所に合わせる顔がないから働くのか?そんな理由で人の一生を決める気か?と、哲平は思うのである。
「みっともないとは何だ。そんなに働いて欲しいなら、それは母さんの都合だ。母さんが職を探して、俺を無理矢理働かせると良い。俺はここを一歩も動かんからな」
そう言うと哲平は、その場にごろんと横になり、目をつむった。
「この馬鹿息子が!」
そう言うと、母親は足を踏み鳴らしてどこかへ行ってしまった。
(とは言うものの)
哲平は母親の背中を横目で見ながら思った。
(いつまでもこうしている訳には行かないだろうな)
哲平は起き上がって、庭に生い茂る草木をぼんやりと見つめた。
(第一生きる道を考えようにも、手がかりがない。世間を知らない事には、自分の生きる道どころか、自分自身すらも分からない)
今更ピアニストの夢を想っても仕方がない。だが自分はピアノしかやってこなかった。他には何も出来ない。つまり自分がやってきた事の延長線上で、何か自分に出来る事はないか。それを哲平は考えていた。この「自分に何が出来るか」という問いこそ、哲平の思う「自分自身」を探る糸口であろう。出来る事が見つかれば、道も自ずと決まってくるのである。ただし言わずもがな、自分に何が出来るか、と言う事はやってみなければわからない。つまりこうしてじっと考え込んでいても、何一つ答えが出てこないであろう事を、哲平は気付いていたのである。そして気付いていながらも、最初の一歩を踏み出す勇気が、哲平にはなかった。一度の失敗で懲りてしまい、臆病になっていたのであろう。
そんな矢先に、思ってもいなかった話が飛び込んでくる。哲平がいつもの様に気ままに過ごしていると、母親がやって来てこう言った。
「哲平、感謝しなさい。お母さんあんたの働き口見つけてやったから」
「え」
哲平は狐につままれた様な顔で母親を見上げた。確かに哲平は母親に、職を探してくれば良い、と言ったが、まさか本当に探してくるとは思わなかった。哲平の母親は病弱なくせに行動的な性格で、哲平が思索に耽っているうちに、いつも先回りして行動してしまう。例えば学生時代、哲平が音楽教師になるつもりだと母親に伝えたところ、翌朝の食卓に記入済みの履歴書が置かれていたことがある。また東京で一人暮らしを始めた時には、「布団がないから買いにいこうと思っている」と何気なく母親に電話で話すと、その二日後に母親から布団が届き、結局自分が買って来た分と合わせて二枚重ねで寝る羽目になった事もある。哲平はそういう母親をありがたくも思ったが、その反面おせっかいで過保護な親だとうんざりしていた事も事実である。そのためこの時も、哲平は嫌な予感がしていた。
(どんな仕事を見つけて来たのやら。つまらん仕事なら断ってやる)
だが存外、母親が見つけて来た仕事は、哲平のどんな論理を以てしても否定し難い、パズルのピースがぴったりとはまる様な仕事であった。
「乃木さんのところで、ピアノの教師を探してたのよ」
乃木さんとは、哲平のご近所さんである。昔から哲平の一家とは懇意にしている。昔はオーケストラの指揮者だったが、還暦を過ぎ、退職してからは自宅でピアノ教室を開いていたのであった。
「あんたピアノは弾けるんだし、丁度いいじゃない」
確かに、哲平の持つ唯一の専門性はピアノだけである。それを活かして仕事をする事に異論はない。異論がないどころか、中学の教師と違って、学ぶ気のある生徒だけを教える事が出来、煩わしい進路相談などに悩まされる事もない。考えてみれば、これほど理想的な職場はない様に哲平には思えた。といっても、人生の岐路に立たされている哲平である。そう易々と了解するはずもない。
「まあ、考えておくよ。少し時間をくれ」
「考えてたって答えなんか出ないよ。一度挨拶がてら見学に言ってみたら良いじゃないか」
母親はあくまで理屈より行動に拘る。
「それはそうだけどな、一度挨拶に言った手前、やっぱり辞めます、とは言いづらいじゃないか」
「あんたね、乃木さんとは昔からの古い付き合いじゃないか。ちゃんと事情を話して、とりあえず見学だけさせてもらえば何も誤解なんて生まないよ」
事情を話すとは何を話せば良いのか。自分の生きる道を考えているから、まだ自分が何をすべきか分かりません、等と言うのだろうか。哲平の疑問をよそに、母親は続ける。
「お母さんも一緒に行ってやるから、安心しな」
どこまでお節介をやくのだろうか。と、哲平は
「いいよ。一人で行く」
と、つい勢いで行くと言ってしまった。こうして哲平は乃木のピアノ教室に行く事になったのである。