第一話 絶対者の帰還
戦場に、悲鳴が響いていた。
黒煙が立ち上る大地。踏み荒らされた平原には、折れた槍と砕けた盾が散乱し、敵軍の掲げていた旗は泥にまみれている。
戦況は、敵軍に傾いていた。
少なくとも、つい先ほどまでは。
「――退け!」
誰かが叫んだ。
だが、その声に従う者はほとんどいなかった。
敵軍の兵士たちが見つめていたのは、戦場の中央。
そこに、一人の男が立っていた。
黒を基調とした軍装。乱れることのない姿勢。冷ややかな眼差しには、怒りも憎悪も浮かんでいない。
まるで、目の前で繰り広げられている戦争など、彼にとって取るに足らない出来事であるかのようだった。
男の名は、リード・クローラ。
この国を統べる者。
そして、敵対する者たちが決してその名を軽々しく口にしない理由そのものだった。
「……これで終わりか」
リードが、静かに呟いた。
その声は、怒号と金属音の渦巻く戦場にあって、不思議なほど明瞭に響いた。
敵軍の指揮官が、顔を引きつらせる。
「な、何をしている! 相手は一人だぞ! 全軍、包囲しろ!」
命令に応じ、兵士たちが一斉に動いた。
数は圧倒的に敵が上回っている。
それでも。
リードは、一歩たりとも退かなかった。
「愚かな」
冷たい声が落ちた。
次の瞬間、彼の姿が動いた。
鋭い金属音。
振り下ろされた刃を受け流し、間合いを詰め、敵兵の武器を弾き飛ばす。返す動作で別の兵士の攻撃をかわし、その勢いのまま敵の陣形を崩した。
無駄がない。
迷いがない。
感情に流されることも、必要以上に力を誇示することもない。
ただ、勝つために必要なことだけをする。
それがリードという男だった。
彼の周囲から、次々と敵兵が退いていく。
誰もが理解し始めていた。
自分たちが対峙しているのは、単なる一人の将ではない。
国を背負い、幾多の戦場を越え、数え切れないほどの決断を下してきた男。
その判断に、一切の躊躇はない。
「化け物……!」
敵軍の指揮官が、震える声で呟いた。
リードの視線が、ゆっくりとそちらへ向く。
「失礼なことを言う」
淡々とした声だった。
「俺は、貴様らと交渉するためにここへ来たのではない」
彼は剣を構え直した。
「我が国への侵攻。その判断の責任は、貴様らが取れ」
それが、最後の宣告だった。
戦場を支配していた敵軍の旗が、次々と倒れていく。
指揮系統は崩壊し、兵士たちは武器を捨て、ある者は逃げ、ある者はその場に膝をついた。
やがて、戦場を覆っていた喧騒が遠ざかっていった。
勝敗は決した。
敵軍は、一掃された。
リードは銃剣を収めると、血と土に汚れた手袋を見下ろした。
「後始末は任せる」
「はっ!」
駆け寄ってきた臣下が、深々と頭を下げる。
「陛下、お見事でございました。敵軍は完全に――」
「報告は後で聞く」
リードは、臣下の言葉を遮った。
「帰還の準備をしろ」
「……帰還、でございますか?」
「そうだ」
リードは一度だけ、空を仰いだ。
戦況を確認する必要は、もうない。
敵の残存戦力。捕虜の扱い。国境の防衛。戦後の交渉。
いずれも重要な問題だ。
だが、今この瞬間。
彼の脳裏を占めているのは、それらではなかった。
――はる。
愛する妻の名だった。
彼女は今頃、どうしているだろうか。
出立の際には、いつもどおり優しく声をかけてきた。
無事に帰ってきてね、と。
その声を思い出しただけで、リードの目元がほんのわずかに和らいだ。
「……待っていてくれ、はる」
誰にも聞こえないほど小さな声で、彼は呟いた。
そして、再び冷徹な統治者の顔を取り戻すと、帰還を命じた。
*
城へ戻ったリードを迎えたのは、整然と並ぶ臣下たちだった。
「お帰りなさいませ、陛下!」
一斉に頭が下げられる。
誰もが彼の帰還を喜び、同時に畏れていた。
戦場から戻ったばかりだというのに、リードの表情には疲労の色さえほとんど見えない。
「戦後処理の責任者を決めろ。捕虜の扱いについては規定に従え。国境付近の警備は当面、増強する」
「承知いたしました」
「各地の被害状況をまとめ、明朝までに報告しろ」
「はっ!」
指示は簡潔で、明確だった。
誰も異議を唱えない。
彼の判断が感情に左右されないことを、臣下たちはよく知っていた。
「陛下。まずはお身体をお休めになられては……」
「必要ない」
即答だった。
リードは歩みを止めない。
向かう先は、執務室ではなかった。
豪奢な廊下を抜け、普段は人の立ち入りが厳しく制限されている区画へ進む。
その先にある、重厚な扉。
扉の前には、許可された者以外が近づくことを禁じられた地下への階段が続いていた。
リードは足を止めた。
戦場で敵軍を前にしても、わずかな動揺すら見せなかった男が。
今だけは、ほんの少しだけ呼吸を整えた。
無事だろうか。
寂しい思いをしていないだろうか。
食事はきちんと取っただろうか。
眠れているだろうか。
考え始めれば、きりがない。
戦場でどれほど多くの敵を退けようと、この扉の向こうにいる彼女のことだけは、完全に把握することなどできない。
その事実が、彼にはひどくもどかしかった。
「……はる」
今度は、はっきりと名前を呼んだ。
返事はない。
当然だ。扉は閉ざされている。
それでも、彼は表情を緩めた。
「ただいま」
誰にも聞かせたことのない、柔らかな声だった。
リードは鍵を取り出し、扉を開けた。
*
地下室には、静かな空気が満ちていた。
必要な家具は揃っている。柔らかな寝具も、温度を保つ設備も、彼女が好むものも。
不自由がないように、何一つ不足のないように。
リードがそう整えさせた場所だった。
そして、その部屋の中に。
「……はる?」
彼女の姿を見つけた瞬間、リードの足取りが変わった。
戦場で敵を追い詰めたときとは違う。
臣下に命令を下すときとも違う。
まるで、そこにいる彼女だけが、この世界のすべてであるかのように。
「はる」
もう一度、名前を呼ぶ。
彼女がこちらを向く。
その姿を目にした途端、リードの胸の奥に張り詰めていたものが、ゆっくりとほどけていった。
「……よかった」
小さな呟き。
彼は彼女のそばへ歩み寄り、膝を折って視線を合わせた。
「怪我はないか?」
頬に触れる手は、驚くほど優しかった。
「気分は悪くない? 食事は? 眠れているか?」
問いかけが続く。
ひとつひとつ、彼女の様子を確かめるように。
返事を聞き、表情を見て、少しでも気になることがあれば見逃さない。
戦場では、敵のわずかな動きさえ見逃さなかった男だ。
愛する妻の変化を見落とすはずがなかった。
「……そうか」
彼女の様子を確かめ終えると、リードは安堵したように息を吐いた。
そして、そっと彼女を抱き寄せる。
「会いたかった、はる」
低く、穏やかな声。
「お前が無事で、本当によかった」
その腕には、確かな力がこもっていた。
逃がさないためなのか。
もう二度と離れたくないからなのか。
その両方なのか。
彼自身にしか、分からない。
リードは彼女の髪に頬を寄せ、目を閉じた。
戦場でどれほどの命運を左右しようと。
国の未来を決める立場にあろうと。
この瞬間だけは、ただ一人の男でいたかった。
愛する妻を抱きしめ、その存在を確かめていたかった。
「……もう少しだけ、このままでいさせてくれ」
囁くように告げる。
その声には、命令の響きはなかった。
けれど、彼女を抱く腕は、容易には緩まなかった。
リードは知っている。
国は広い。
世界は広い。
彼女が望めば、彼の知らないものを見たいと思う日も来るだろう。
それでも。
彼女を危険に晒すくらいなら。
彼女を失う可能性を受け入れるくらいなら。
自分が悪者になることなど、彼にとっては些細な問題だった。
誰に何と思われようと構わない。
畏怖されてもいい。
冷酷だと罵られてもいい。
ただ、彼女だけは。
「はる」
名を呼び、額にそっと口づける。
「お前は、私の大切な妻だ」
それは、紛れもない愛情だった。
そして同時に。
彼が決して手放すつもりのない、何よりも強い執着の始まりでもあった。
王冠の下に隠されたもの。
誰も知らない、彼の本心。
その名を、狂愛という。




