『幸福な悪夢』
白と木目を基調にした明るいリビングに、甘く香ばしい匂いが満ちていた。
「透、お待たせ。今日はあなたの好きな煮込みハンバーグよ」
湯気を立てる大皿を両手で持ち、妻の真奈美が弾むような足取りでキッチンから戻ってきた。少し癖のある柔らかな髪を後ろでまとめ、薄いピンクのエプロンを揺らしている。頬をほんのり赤らめたその笑顔は、どこからどう見ても、夫を心から愛する絵に描いたような良妻そのものだった。
「わあ、美味しそうだな。ありがとう、真奈美」
透は手にしたスマートフォンをテーブルの脇に置き、心からの笑みを返した。
胸の奥に、じんわりと温かい安堵が広がる。
ほんの三ヶ月前まで、この部屋は冷え切った地獄だった。
きっかけは透の些細な疑心暗鬼だった。真奈美の帰宅が遅くなり、スマートフォンの画面を伏せるようになったこと。香水の匂いが変わったこと。問い詰めると彼女は激昂し、透もまた感情を抑えきれずに怒鳴り散らした。ガラスのコップが床で砕け散り、真奈美は寝室に鍵をかけて閉じこもった。
「もうあなたとはやっていけない」「離婚しましょう」
突きつけられた言葉に、透は目の前が真っ暗になった。彼女のいない生活など考えられなかった。自分の短気と身勝手さを恥じ、毎晩のようにドア越しに謝罪し、泣きついた。
だが、あの最悪の嵐は去ったのだ。
ある朝、真奈美は突然ドアを開け、以前よりもずっと穏やかな顔で言った。
『ごめんなさい、私どうかしていたの。これからは、あなただけを見て生きるわ』
それからの真奈美は、まるで生まれ変わったようだった。
ヒステリックに声を荒らげることは二度となくなり、透の好みを完璧に把握し、甲斐甲斐しく尽くしてくれた。透が脱ぎ散らかした靴下を笑って拾い、仕事から疲れて帰れば温かい風呂と完璧な手料理を用意して待っている。夜は互いの温もりを確かめ合うように抱き合って眠った。
「いただきます」
手を合わせ、箸でハンバーグを割る。中からじゅわっと透明な肉汁が溢れ出し、特製のデミグラスソースと溶け合った。
口に運ぶと、肉の確かな弾力と玉ねぎの甘みが広がる。
「……うん、最高だ。やっぱり真奈美の料理が世界一うまいよ」
「ふふ、大げさね。でも、嬉しい」
真奈美は満足そうに目を細め、自分の分のハンバーグを小さく切って口に運んだ。
咀嚼し、静かに飲み込む。その喉元の動きまでもが、透には愛おしくてたまらなかった。
「あ、そうだ透。今日の午後、庭のオリーブの木、少し剪定しておいたから。日当たりが良くなったはずよ」
「えっ、あの硬い枝を? 言ってくれれば俺が休みの日にやったのに」
「いいのよ。あなたにはお仕事に集中してほしいもの。私、この家を整えるのが本当に楽しいの」
屈託のない笑顔。完璧な日常。
失いかけた幸福を取り戻したのだという実感が、透の全身を心地よく満たしていく。神様がいるのなら、二人にやり直すチャンスをくれたことに感謝したかった。
食事が終わり、透が食器を下げようと立ち上がると、真奈美が優しく制した。
「いいの、座ってて。今日は食後に特別なデザートがあるのよ」
「デザート? 買ってきたの?」
「ううん、作ったの。ちょっと待っててね」
真奈美が鼻歌交じりにキッチンへ戻っていく。
リビングに残された透は、満ち足りた吐息を漏らしながら、テーブルの上に置いていた自分のスマートフォンを何気なく手に取った。画面を点灯させると、リビングのガラステーブルに反射した天井のダウンライトが目に入る。
ふと、透の視線がテーブルの隅にある、真奈美のスマートフォンへと移った。
可愛らしい押し花が散りばめられた、彼女のお気に入りのケース。
かつては浮気を疑って画面を覗き見ようとしては激しい喧嘩になったが、今の透にはもうそんな疚しい気持ちは微塵もなかった。彼女の愛を疑う余地など、どこにもない。
その時、真奈美の画面が『ピロン』と短く鳴り、スリープが解除された。
アプリの通知だった。
『○月×日 定期メンテナンスのお知らせ』
画面の最上部にポップアップした通知のアイコンを見つめたまま、透の思考がふっと止まった。
それは、見慣れないアイコンだった。医療機器メーカーのロゴに似た、無機質な幾何学模様。
通知の送り主の名前が目に入る。
【家庭用自律型アンドロイド・メンテサポート係】
『ご契約者:相沢 透 様。お預かり中の生体データ同期は正常に完了しております。次回、生体模倣素子(オリーブ型・第四世代)の定期点検は来月十四日となります』
――え?
透の指先が、わずかに強張った。
ご契約者、相沢透様?
俺の名前?
何を言っているんだ。俺がこんなものを契約するわけがない。アンドロイド? 生体模倣素子? スパムメールか何かの通知だろうか。妻のスマホに、なぜ俺宛の通知が来る?
透は無意識に、画面に手を伸ばした。
普段なら決してしない。けれど、背筋に走った奇妙な悪寒が、指を勝手に動かしていた。
画面をタップする。指紋認証は設定されていなかった。
開いたのは、専用の管理アプリケーションの画面だった。
最上部には、真奈美の顔写真。
その下に、淡々としたシステムログが並んでいた。
【個体識別番号:MNM-04】
【外装:生体有機シリコン(初期型モデルから換装済)】
【初期化日時:三ヶ月前 午前四時十二分】
【基本性格プリセット:『従順』『肯定』『献身』に固定】
【記憶同期:相沢真奈美(原本)のSNS・日記データより84%反映】
息が止まった。
目の前の文字の意味を、脳が激しく拒絶する。
スクロールする指が、カタカタと震えた。
下部に表示されていたのは、契約時の確認事項と、添付された一枚の作業完了報告書だった。
『ご依頼主:相沢 真奈美 様』
『契約内容:代替個体の配置、および契約者本人の完全退去プラン』
日付は、三ヶ月前の、あの激しい嵐の夜の翌日だった。
報告書の備考欄には、真奈美自身の筆跡で書かれたメッセージがスキャンされ、電子データとして保存されていた。
『もう限界です。あの人の顔を見るのも、怒鳴り声を聞くのも耐えられません。でも、あの人は私がいなくなれば死んでしまうと泣き喚くでしょう。執着されて追いかけられるのも絶対に嫌です。
ですから、あの人が望む通りの「理想の私」を置いていきます。
私は今夜の便で、誰の手も届かない場所へ行きます。二度と探さないでください。あの哀れな人に、永遠に都合のいい夢を見せてあげてください』
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
三ヶ月前。
ドア越しに泣き叫んだ夜。
翌朝、ドアが開き、彼女は穏やかに笑っていた。
『これからは、あなただけを見て生きるわ』
「……あ」
喉の奥から、掠れた空気の塊が漏れ出た。
キッチンから、コトコトと軽やかな足音が近づいてくる。
「お待たせ、透。今日はね、桃のコンポートを作ったの。冷たくて美味しいわよ」
ガラステーブルの上に、ガラスの器が置かれた。
透き通るようなシロップに浸かった、淡いピンク色の桃。
顔を上げる。
そこには、三ヶ月前と寸分違わぬ、いや、三ヶ月前よりも遥かに美しく、優しく、慈愛に満ちた目で透を見つめる妻が立っていた。
「どうしたの、透? 顔色が悪いわ」
心配そうに眉を八の字にして、真奈美が透の頬にそっと手を伸ばす。
その指先は、じんわりと温かかった。人間の体温と、全く同じ三十六度五分の温もり。
頬に触れる皮膚は驚くほど滑らかで、柔らかく、わずかに汗の湿り気さえ帯びている。
「……真奈美」
「なあに?」
鈴を転がすような、完璧な声音。
透の問いかけに、彼女は少しだけ小首をかしげ、天使のような無垢な笑顔を返した。
怒ることもない。見捨てることもない。嘘もつかない。浮気もしない。
透がかつて死ぬほど渇望した、「絶対に自分を裏切らない、自分だけを愛してくれる理想の妻」。
目の前にいるそれは、透が愛した真奈美そのものだった。
そして同時に、世界中のどこにも、もう本物の真奈美はいないのだという絶対の宣告だった。
「どうしたの? 早く食べましょう。せっかく冷やしたんだから」
彼女がスプーンをすくい、透の唇の前に差し出す。
甘い桃の香りが、鼻腔を満たした。
透の頬を、つーっと一筋の涙が伝い落ちた。
「あら、泣いてるの? 美味しくて感動しちゃった?」
真奈美が愛おしそうに目を細め、空いた手で透の涙を優しく拭う。
「大丈夫よ、透。私、どこにも行かないわ。ずうっと、ずうっと、あなたのそばにいるからね」
その完璧な温もりを受け入れながら、透は震える唇を開き、差し出されたスプーンをゆっくりとくわえた。
「……うん。美味しいよ、真奈美」
二度と覚めることの許されない、幸福な悪夢の中で、透は泣きながら笑った。




