朦朧の部屋
一つの気分が書かせたものである。
何処かへ辿り着くとそう信じて。
二つの身体が今しも横たわっているより以前の部屋には誰もいなかった。部屋は未だ誰へも与えるその前から独りでに、狭い内を、微弱な照明によって彷彿とさせていた。ベッド、丈の高い卓、隅に避けられたかのような二つ並びの硬い椅子。
埋め込み式の照明はまるであたたかさへと閉ざされて行く瞳だった。それらは、うたた寝の時に朦朧として見る夢うつつを、眼下へ照らし出していた。則ち、ベッドと丈の高い卓、隅に避けられたかのような二つ並びの硬い椅子。
一体が入り込んで来たとき、部屋は直ちに彼を汗ばませた。到着をするなり卓上へ放られた彼の荷物の隙間から部屋はくすぐりかけられた。一体はリモコンを見つけると、それを押した。また再び押した。だが、中々動作をしなかった。部屋は彼には何ものも判明させまいとして、思い出のそのふくよかな手の内に彼を取り包んでいる。しかし、やがては息吹きはじめた。
一体は彼の体温調節の面に於いて今はそれで快適である。彼はまたくすぐりかけて、それが賢いのではないと判ると、卓上から荷物を退けた。それから並ばせたリモコンの一つを手にし、角隅の上部に据えたテレビへと向かって、彼の指は連打した。
日本テレ……フジテ……日本放送局……朝日テレv……それから。
彼の指が止まったのであるとき、画面の中では二つの身体が転がり回っていた。彼の額を汗が伝った。しかし彼はテレビへは一瞥をするだけで、振り返ると荷物を漁った。
取り包んでいる手の内から止まれぬ煙が逃れ出している。
一体は煙を吸い、吐き、吸い、吐いた。それからテレビの中を見た。にわかに一体の手指はリモコンへ伸びると、一つだけ押した。そこにも身体は転がっていた。彼の目は今度は眺め出した。放っておかれたたなびく煙はやがては細まった。思い出したようにそれを吸おうと彼の口がすぼまったその時には煙はもう絶えていた。ガラスの灰皿は、熱い先端を堪えて煙草のことをひしゃげさせた。結果としてここにも屈折した一体は転がることとなった。彼は硬い椅子のその硬さに少し苛立ちを覚えはじめているのであろう、度々座し、それを直してはまた座し直し、にわかにLineを打った。
扉が叩かれた。扉は開かれた。またもう一体が既にヒールへ手を伸ばしながら入り込んで来た。
「こんにちは」
「こんにちは」
「休みだったの?」
「そうね」
彼女は入り込んで来るなり脱ごうとしていたヒールへの手を彼の革のスリッポンに伸ばし直した。それから二つの靴は二体に対してそっぽを向いた。
最初の一体は部屋の隅の硬い椅子に腰かけて煙草を吸っていた。後の一体も彼の隣へ腰かけると煙草を吸いはじめた。
「ねえ、このあいだ話したインドの子、覚えてる?」
「どんな子?」
「ほら、職場で一緒の」
「ああ、冬の木の立ち枯れみたいに身体のスリムな子」
「……わたし、この前、そんな言い方したかしら?」
それから後の一体は彼女の腕を見つめる彼の眼差しに気が付いて、彼の方の腕を握り拳で打った。最初の一体の笑い声は、ふふ、とポンプのように押し出されて、それと同時に煙も漏れ出した。その顔が歪んだ。
「まずいよ」
「知らない。味がするでしょ」
「タールだか、ニコチンだかの味」
「その二者択一だったらニコチンね。タールは燃焼時にだけ生成される物質」
「ふむ」
最初の一体がそう言うと熱い先端は鼻先に近付いた。それを眺めている彼の目は互いに寄りつつあった。するとそのまま行けるだけ行ききった二つの目が互いを見合おうとして目頭の縁に埋まりかかった。後の一体は微笑みながら煙草を摘んでいる彼の手を裏側から軽く叩いた。
「あぶない」
「あなたのそんなおふざけだけだったら、二人の間が退屈ね」
「そうかな」
「ねえ、それでその子、結婚するのよ」
「へえ、おめでたい」
「ううん」
後の一体の目はふいにぱちくりとした。
「あなた、本当にそう思ってる」
彼女は言った。すると最初の一体の頭が細かく左右に振れた。彼は彼女を眺めると、催促がましく首を動かした。後の一体の上目遣いは顎を引いたその俯きの加減に因ってもたらされている。しかし同時に彼女のつるりとした額の奥に据わる知性は、最初の一体のことを真正面から見透しているかのようだった。
「今のは質問だった?」
「最初は質問のつもりだった。でも今はそう確信してる。つまりあなたは本当に、おめでたい、とそう思った。あなたは、結婚はしないの?」
「判らないヒンディー語で話しかけられてもぼくには何も判らないよ」
「なるほど。じゃあ、わたしの煙草の火はあなたの耳の穴で消したって良いわけね」
最初の一体の顔付きに、じゃれあいの笑みが薄らと浮上した。しかし笑みを支えるその頬の筋肉は忽ちに弛んだ。卓に肘をついていた彼の腕がにわかに動き出した。彼の手は本当に近付いて来る彼女のその手を寸前になって抑えた。それは頑なそうだった。押し退けようとすればするほど反って迫って来ようとするという双方の力の競り合いが、最初の一体の鼻先で微動した。
「やめなさいよ。ぼくは、あなた……」
「わたし、あなたじゃないよ」
「もちろんね、ちょっと」
「ねえ、ちょっと、消させて」
「無理だ」
それから後の一体の手の力はふいに抜けた。彼女のうっすらとした唇は最初の一体へと迫らせたそれをまた咥えて吸い付いた。彼女は少しずつ吹き出しながら灰皿へゆっくりと煙草を擦り付けた。
「そんなの冗談に決まってるのに必死になって抵抗されたら、その期待に応えたくなっちゃうじゃない?」
「期待なんてしてない」
「あらそう。でも、あなたの冗談をひとりぼっちにさせたくないというわたしの冗談は、半分以上が優しさよ」
「半分?でも、あなたはちょっと、本気っぽいところがあるから、半分なんてとても信じられないな」
「そう?」
「あるいは、優しさ半分の冗談で本当に刺してしまって、それでも確かにあなたにとってはそれが冗談だったんだ、みたいなあなたは人か。あるいは、してみたいことという快感の可能性が目の前にあったのなら、どんな道義上の約束でもそのために破ってしまわれる、みたいなあなたは人か」
「本当?」
後の一体は言った。それから彼女の手は最初の一体の厚い太股にそっと添えられた。彼の方はそれで止まった。目は上向いたが知性の方は彼の生え際のほどに後退して行った。
「いや、あなたはぼくの好きにさせてくれるよね。だからかな。あるいはそのことへの負い目があるのだからこそあなたに責任を擦り付けたい、みたいなぼくは人か」
「わたしがあなたの好きにさせるのは、乱暴にはしないって判っているからよ」
彼女の手は更に潜り込んで来た。
二体の頭が今しも互いに傾いで接しているより以前の部屋でも二体の頭は互いに傾いで接していた。
「どうしてそんななの」
「何が」
「あなたがよ」
「ぼくがですか?」
後の一体は唇に付いたものを舐め取ると再び最初の一体へと頭を近付けた。最初の一体は近付いて来る彼女の頭に応えようとして、彼のものを再び傾がせた。互いは身動ぎもせず、互いのものを吸着させていた。だがやがて腰に手は回り、浮いた尻が接近のそのためにベッドを擦り、腰にまた迎え受ける手は回り、二体の身体はそれら自体で吸着した。するとそれまで静かだった二つの頭が、壊れた時計の針のように互いの角度を行き来しはじめた。
一時……三時……九時……十一時。
二ヶ月前……六ヶ月……三ヶ……それからたった今。
「あなたが少しでも取り乱したようになるのはこの時だけね」
「ぼくが?取り乱してるように感じる?」
「ええ」
「何のためにぼくは取り乱している?」
後の一体が頭を離すと、彼女は最初の一体を見つめたまま考えはじめたようだった。最初の一体は、彼女がそうして始めたことをいつか終えてしまうのをただ待っていた。
そうして彼女は終えた。
「奪われてしまった何かを、あなたは取り返そうとしている……」
「誰に何を奪われてしまったんだ、ぼくは」
「……あなた自身をよ。あなた自身が」
「なに?」
「あなた自身があなた自身を、よ」
最初の一体は浅く頷いたようにも見えなくはないというくらいにその反応を薄くした。やがて短い唸り声と共に彼の首は傾げ、その両の目は上向いた。後の一体は彼女の鼻先を少し逸らした。
「不安にさせたい?」
「不安になんかならないだろ」
「そうでもないわよ」
後の一体はそう言うと頭を彼へ近付けた。すると、
「待って、不安に思うのだったらちゃんと答えたいな。ぼくは自分探しのために取り乱している?でも、このときだけなのか、それは?」
最初の一体がそう言うと、近付いて来た後の一体の両方の肩へと彼の手はかかった。彼と彼女とに架橋をされた腕のその分だけ、二体の距離は定かとなって、それ以上は縮まらなくなった。
「あなたが理由を訊ねたから言っただけよ。正しいかどうかなんて判らない」
「でもぼくは取り乱したみたいなんだろ?」
「そうね。この時は」
「別の時は?」
「別の時、あなたは……」
「なるほど、少し考えてみたい」
彼がそう言った途端、彼女の肩へとかかった腕はアーチを描いて落ちた。それと同時にキャミソール型のワンピースの肩紐が彼女の二の腕までずり落ちた。最初の一体は考えているような素振りをして長く唸った。後の一体の手はそうしている彼の手指に引っかかった肩紐を取り返そうとするように、自身の胸部をゆっくりと渡った。すると最初の一体の両手は瞬く間に逃がれた。二つの肩紐は彼女の腰元にまでしなだれ落ちた。
「わたしにはあなたが考えること……」
「判る?」
「判らない。でも、あなたは本当は何も考えてなんかいない。それに、考えることなんてそもそもすべきじゃない、だから」
「どうして?ぼくは自分探し中の住所不定無職で……」
「あはは」
後の一体が今までに発した音の中で最も大きかったそれは透き通ったソプラノだった。
「……無職で、あなたの舌がもしかしたらぼくのハローワークかもしれないんだろ?仕事はそこで探せば良いけれど、家は……」
「あなた、いつもそれを言う」
「何を?」
「住所の話」
「そう、きらい?」
最初の一体は訊いた。後の一体は彼の腕を下支えして取りつつ言った。
「好き。でもあなたがそれを言うのがとても好きだっていう事実が一番好き」
「ふむ。それならぼくの住所はいつものここです」
そう言うと最初の一体は身を屈めて、後の一体の胸部へと彼の頭を潜り込ませようとした。しかし彼の屈んだ身体に平行をして屈んで来た彼女の顔は、最初の一体の通行をそれで禁じた。
「だめ」
「何故」
「家賃が必要」
「そんな。さっきから言っている通り、ぼくは……」
「無職の人には家賃は無理よ。まずはお金を作ること。つまりあなたは、仕事を探さなければならない」
「仕事を」
「そうよ」
そうして最初の一体の弛んだ口元は職安所をさ迷いはじめた。しばらくのあいだクリームのように、後の一体へと真向かう彼の最先端は宙空での低徊を繰り返した。やがて対向の唇から舌が突き出て来た。白い歯に軽く噛まれているそれは、柔らかそうな先端を初々しく濡らしていた。
二体の頭は再び重なった。時計の針は直ぐにまた狂いだした。
照明のあたたかな色をした眼へ面状に引き伸びたいくつもの影の動きが映った。一体の影が上るともう一体の影は沈み、沈んでいた影が上ると今度は上っていた影が沈んだ。薄く引き伸ばされた二体の影の動きは部屋中を撫で擦っていた。ベッド、丈の高い卓、隅に避けられたかのような二つ並びの硬い椅子。それらへと二体の影の夜はアトランダムに、頻繁に訪れた。
「このまま」
するとその一言で許可を得た最初の一体が後の一体へと滑り降りて行った。高いソプラノ音がたった一回だけ鳴った。
二体の影が沈んでしまうと部屋の内に活動をするものが何もなくなってしまったかのように静まり返った。ベッドと丈の高い卓、隅に避けられたかのような二つ並びの硬い椅子、そうして棒状に重なり合った二体。照明の暖色だけがひたむいているはずのその眼差しの内に捉えたものを震わせていた。暗闇を見ようとする目が、同時に、そこへと浮かび上がって来るはずのものを見ようとする目であったその時、目は、どちらかだけを見ることの叶わないという不自由な目だった。
最初の一体は自重のために支点としている肘や手の平より上で、彼の頭を後の一体の頭と並ばせていた。彼はベッドの上部に膨れ上がった枕を見ていた。そこに川のように流れている黒い髪を見ていた。香しいそこに最初の一体の頭は沈没した。しかしその香しさの内には既に、汗の臭いが混じっていた。
「それから?」
後の一体が囁いた。
「すみません」
「どうしてあやまるの?」
「ぼくは」
ふと頭を上げた彼はしかし、その目線は枕の墨画に奪われたままだった。
「大丈夫よ」
後の一体の手はそれまで頭の傍らにあったものを追った。手は到着をすると最初の一体の後ろ髪を掴むようにしてそこを乱した。
「あなたが思う通りにすれば良いの。あなたはあなたの事情に従うべきよ」
「それではあなたの事情は?」
「わたしはあなたのために明け渡しているという事情よ、今。よく見て」
最初の一体は後の一体へと彼の視線を向けた。彼女の率直な視線が彼のものを待ち受けていた。その視線が最初の一体にとってたった一つの導線だった。
「ぼくは、こうしていたい」
彼は言った。するとその瞬間、照明のあたたかな眼差しには映りようのない一つの、ふんだんな気配が訪れた。その気配の下に後の一体の全身は非常に伸びやかに反り出した。最初の一体の全身は針金が通ったかのように硬直しつつ、細かく震えた。互いは申し合わせたように視線を外し合っていた。するとやがては生きているもののする呼吸の音と呻きの音が部屋中を頻発しはじめた。ベッドの上にあるというだけのはずの二体の、もっと互いの底の方からそれらの音は沸き立った。
空調は完璧だった。しかし重なった互いの接地面のみならず湿っている二体の全身を彼らは手に腹に確認し合った。
やがて最初の一体の臀部が形相を変えた。後の一体の目がそれで見開いた。最初の一体はゆっくりと動きはじめた。
それは世界標準時の厳密な時の刻みとは似ても似つかなかった。最初の一体は緩慢な上下をただ度重ねる反復的な運動体ではなかった。動き、動き、動くのを止め、うねり、沈没し、動き、動くのを止め、彼の住所に後の一体の心音を訪ねた。彼女はする度に伸び、反り、苦悶の喜びの中で孤独だった。最初の一体が止まってしまう時、彼女の身体の屈折は最も大きくなった。後の一体はフォークのように頭から突き立ちそうだった。それを抱き抱えて最初の一体が彼女を目指すと、彼女の上部はそのまま鯨のように浮上をして来そうになった。すると今度は最初の一体が崩れ落ちて来て、後の一体もろとも枕を拡がる墨画の大海へと着水した。左右に伸ばし切って逃げるようにしている後の一体の両腕をなぞりつ辿り追いかけて行く最初の一体の手指はシーツの色を搾り取ろうとしていた彼女の拳へとやがて到達した。拳が開かれた。それから手と手とは恰かも白浜に打ち捨てられた二枚貝となって、互いの汗を握り締め合った。
最初の一体は後の一体へと被さりながら、ふいに大きく動いた。それは前震のない唐突なプレート層の差し込みだった。後の一体の海溝では大きく波打つほどの震えが起きた。それに伴って彼女のソプラノ音は警報のように鳴り響いた。しかし最初の一体の全身体はまるで何事にも関せぬようにゆっくりと、しかし確かな力を込めて前方へと直進をし続けた。彼は彼女を、恰かも通り過ぎようとしているかのようだった。だが、いつも見えない壁に彼の頭はぶつかって、それが一向に出来ないようだった。後の一体は彼女の頭上の更なる向こうへと去りかねない最初の一体の希薄さを勘づいた。そうして彼女の二つの腕は彼が、本当に逃れてしまわぬようにしたくて抱き寄せた。彼はすると次第に速まった。開かれていた彼女の脚部の一つが彼の脚部へと波飛沫のように浴びせた。低い唸りと呼吸音とはマッチを擦るような拍子付いた音に取って代わった。汗にじとりと濡れた二体の身体に今度は火が付いた。彼らは沸騰した。沸き立つ泡のような二つの頭が吸い付いた。茹で上がった底と底とは、彼らの平らな腹のように双方の全面を密接にし出した。そうして互いに働きかけつつ隠し合う火元へと、彼ら自体を焚べて行く二体のその表層は、あたたかな眼差しに火照り付くような皮下の赤らみを帯びて来た。その二体の赤らみがもう恰かも照明の眼差しそのものの色となって来て部屋は、ありとあらゆる時間の内に溶け出して行く彼ら二体の行方をこれ以上は追えなくなった。
「あなたが動くとき、あなたはいつも何処か遠くへ行こうとするのね」
「うん」
「そう?」
「そうかもしれない。しかし、それならぼくは何処へ?」
「ねえ、それはわたしの質問よ」
後の一体は最初の一体の胸部へ平手を打ち送った。
「でもあなたの質問をぼくが先んじていたのだとしてもその答えはまるで判らんよ。先んじた分の猶予があったのに」
「でもあなたが先んじて自分に問いかけることが出来るのだったら、その質問はあなたの中に予めあったんでしょう?それならあなたは何処かに行こうとは必ずしていることになる。だから、かもしれない、のではない」
打ち送られた後の一体の手は彼の胸部を撫で回している。それはやがて労りを伝えようとするかのような微かな接触から違えてただ興味だけの旋回を強く当て擦る形になった。
「やめなよ。胸毛が編まれるじゃん」
「編み物好ぅき」
「好ぅ、きとかじゃ、ないよ」
最初の一体は思わず吹き出しながらそう言うと、各位毛関係の複雑化という困難を与えようとする彼女の手を、彼の方の手の内へしまった。
「ぼくが何処か遠くへ行こうとしているのなら、まずぼくは何処か遠くへ行くためにあなたと今こうしている?」
「質問を質問で返さないで。そしてわたしの質問は、何処へ?よ、お兄さん」
「でも今のは自問だよ。それに今のはあなたの質問への答えのための自問だったかもしれない、お姉さん」
「では許可します」
最初の一体の手に引き連れられて、後の一体の手は再び胸部を訪れた。
「確かにぼくは何処かへ行こうとしている。ぼくが動くときに、そうだ。ぼくは動くときに、あなたへと動いている。つまり、あなたを目指している。指向している。だから答えはただ一つだ」
「答えは?」
胸部の黒く浅い茂みに手と手とは一握をし合う硬い石として据わっていた。
「あなたが未だ遠くにいて、そこに辿り着こうとぼくはしている」
言葉の方はこうして据わった。それから空調設備のにわかな息吹きが塵をも浚いそうに強まった。
一頻り吹いた。最初の一体はふと後の一体を見た。後の一体は乱れた長い黒髪に隠されながら、最初の一体のことを透き通った目で見ていた。曇りなく見ている白い玉が隠されているということに尚、見ているそれが見させようともするというその吸引の力の働きは強さを増していた。
「つまらない?」
「いいえ」
「ぼくは自分が判らない。が、判らないのだからこそ考えることは出来る。考えた結果がこれ、だ。それほどおかしくはない結論だと思うのだけど」
「いい?あなたは宣誓しているのよ」
「なに?」
後の一体は石となった手をほどくと、なんでもないわ、と言った。一つ取り残された最初の一体の手は涼しげに胸部へ横たわっていた。が、やがてはそれもそこを去り、後に残ったものは黒々とした茂みの柔らかな錯綜だけだった。
「煙草、吸わない?」
後の一体は言った。彼女は卓へ行き、煙草を取って戻ったが、灰皿を置き去りにした。そうしてまた振り向こうとするその腹に手を巻き付けて、最初の一体は立ち上がると卓へ行った。灰皿を手に取った。それから彼はリモコンをテレビへ向けた。指が押した。
指が押すと、やはり二体はベッドに転がっていた。うつ伏せている最初の一体の背を後の一体の指が押した。探りながら指はふんだんに押した。連打した。
うつ伏せからめくれて来た最初の一体は涙を流していた。
「痛かったの?」
後の一体は驚いたように言った。
「まさか。気持ちよかったですよ」
「そう」
彼の額へ、後の一体は頭を近付けた。吸い付いた音が一度鳴ると、彼の額は涙のように濡れていた。
「あなたが泣いている、それは何故?」
「不思議な質問の仕方ですね」
最初の一体は言った。それから彼は息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
「泣いている。確かにぼくは泣いています。それはきっと」
「それはきっと?」
「ぼくが、ぼくのしたい通りに出来たから?いや、それはつまり、あなたが受け入れてくれた、から。多分そうで、それが安心をくれた。だから嬉しくて泣いている、んです。多分ね」
後の一体は溜め息を吐いた。そうして彼女はまた彼の額へ頭を落とすと、今度は二度音を立てた。
「あなたのは」
「どう?」
最初の一体はふいに彼女の方へ身体を向けると訊ねた。後の一体の足は横向いて来た対面の身体を大きく渡った。それから彼女の胸部は彼のことを深く閉じ込めた。
「あなたのは不思議だった。冷めてるの、あなたのは。でもきっとゆっくりと何かを感じているんだと思う。で、急に熱くなるの。すごく熱くなって、でも沸点にはなかなか到達しない。迷いがあるのかも。それで急にまた冷める。それがずっと繰り返されてる」
「それって全然良くないんじゃない?」
埋もれた声が言った。
「良いなんてわたし、一回も言ってない。不思議だと言ったの。でも聞いて、今から良いところを言うわ」
「それはそれで、ちょっと恥ずかしいですけどね」
後の一体は殆ど羽交い締めにしている最初の一体の額へと彼女の頭を沈ませた。そうしてそこに再三となる高い音を立てた。それから更に潜り込んで後の一体は最初の一体の耳元にまで頭を近付けた。緊密なそこでは言葉の一つ一つが囁かれる傍から吐息に消えた。
「わたしは、繋がっているあなたを始点とする。そこからわたしはあなたとは逆に、あなたのことを溯行する。わたしにはあなたの心の中身はぜんぜん判らないわ。でもそうやって上って行った先にあるあなたの心の形だけは判るの。それがとても、良いわ」
「変わってる。思っていたのと違いますね」
最初の一体の声の震えが胸部から後の一体の唇を震わしている。
それから少しの間、互いは互いのあたたかさに誘われていた。彼のあたたかさと彼女のあたたかさとは誘い合って、二体の密着を促し続けた。
「ぼくはここに、住みたいですね」
「急に、どうしたの?」
後の一体は笑いながら言った。
「ここは居心地が良いので」
「ふふ、ばかだ」
すると胸の中で彼女のように吹かせている湿った息を後の一体は感じた。
「でも、本当ですよ」
「ふふ、ばかよ。ぼうや」
「ぼうやは嫌だな」
ふと最初の一体の頭が彼女の胸元から生えて来た。彼女の目は見下した。最初の一体の硬くなったその表情は生真面目そうな反感を湛えていた。
「でも、わたしの胸の中があなたの住所ならやっぱり、あなたはまるで赤ちゃんよ」
後の一体は言った。すると彼は硬い表情をさせたまま頭を元の位置にまで引っ込めた。頭は柔らかな二つを歪ませて谷あいへフィットした。後の一体の頬が吊り上がって微笑になった。やがて彼女は再び、ぼうや、と呼んだ。すると直ちに彼の頭はリフトアップして来た。ぼうや、と再びされた呟きは、微笑みと共にそれを出迎えた。最初の一体は彼女を睨み付けるとしかし、何も言わずにゆっくりとまた潜り込んだ。後の一体は今度は二度と彼がそこから浮上をすることがないように手で蓋をした。すると彼女の背中へ最初の一体の腕は強く巻き付いた。そうして二体は互いを檻として閉じ込め合った。あたたかさに誘われているその間、二体は転がり出すことをしなかった。
「日本語が判らないから、書類の書き物なんかはわたしに全部やらせるの。それで見てみたら向こうはスマホを弄ってる。だって待っている時間が無駄だからって。さすがに頭に来たわ」
「嫌いなの?」
「いいえ」
「へえ、嫌いなのかと思った」
「まさか。よく、手を繋ぐわ」
最初の一体は煙草を摘むとふんだんな煙を吐き出した。それから彼は靴下を履くために暗い床へと屈み込んだ。あたたかな眼差しの死角で彼は、手を、と呟いた。
「そう。向こうから」
「それは、どんな手?」
最初の一体は訊ねた。
「細くって、でも柔らかくて。若い手よ」
そうか、と彼は言った。起き上がって来て彼は煙草を摘むと、再びふんだんな煙を吐き出した。
最初の一体は立ち上がると摘まんでいたものを灰皿の中でひしゃげさせた。ひしゃげているものが彼の吸い終えた数本、形の整ったまま吸い終えられた数本が彼女のもの。灰皿の中でそれらは思い思いの痕跡だった。そうしてそれらは尚も軽そうに横たわっていた。
「女の子よ」
最初の一体の背後で後の一体が言った。最初の一体は振り向くと微笑みを寄せた。その微笑みの効果は、ひた向いている彼女の眼差しに打ち負けた。最初の一体はすかさず灰皿へ目線を落とすと、そこからふいに頭をも落とした。指を汚しながら彼は灰皿から一本を摘み上げた。
「グロスを変えた?」
「判る?」
「付いてるよ」
「あら」
「ぼくにも?」
後の一体は微笑みを寄せた。最初の一体はその微笑みの効果に打ち負けた。彼は洗面台に向かうと扉を開いた。
「わお」
「付いてる?」
「もちろん、べったり。子どもの遊びみたいにね」
「わたしたちがしてきたのは、子どもの遊びなんかじゃない」
「そりゃ、そうだけど。でも、言ってくれたって良かった」
「言わなくても気付くと思ったわ。結局、気付いたけど。あなたのそれが遅かった」
「だって、そこの部屋は暗すぎるから」
最初の一体が蛇口を捻るその音を後の一体はベッドの上で聞いていた。彼は何周も捻っていた。金属やプラの接触案配が、回転の摩擦に小動物の悲鳴のような音を何度も立てていた。
「出ないな」
「出るまで好きなだけ回しなさい」
彼はそうした。きりきりと回る切りのない音が鳴り続ける間、後の一体は小首を傾げながら彼の跡地のシーツの乱れを見ていた。
際限のなく緩まって行く音。行き過ぎたところから戻ろうとして再び絞り出した音。彼方へ行き過ぎ、此方へ還ろうとする彼の音。
始まってしまったものが果てしのなく続くものなのではないという摂理がいつかはそれの終焉をもたらすだろう。
後の一体は腰を上げると、リモコンを手にした。それから彼女のクリーム色のマニキュアの指はボタンを一つ押した。
二体が転がっている。
彼女の指は再び押した。
二体が転がっている。
彼女の指は再び押した。
繰り返されている。この繰り返しの中に後の一体は、彼女が辿り着こうとしていた彼の心の形のその中身を覗き込もうとしたかもしれない。だが、それだけはどうしても摂理の外だった。
マニキュアの指が強く押した。蛇口は彼方へと捻られた。
「やっぱり、修理まだだ。この部屋はダメだね」
「そう」
「言うべきかな?」
「支配人に?」
最初の一体が扉を背で押しながら、彼女の方へと頭を出した。
「支配人なんていう言い方が相応しいかな」
「どうかしら?」
最初の一体は扉を閉めると彼女の元に近付いた。
「あなた、煙草をやめた?」
「そうね。そういえば、すっかり」
「そうか」
「ねえ」
彼女が最初の一体へ膝を差し向けると、二体の膝は接触をした。
「あなたは何故、この部屋を選び続けたの?」
「何故?」
「ええ」
最初の一体は考え込んだ。それから彼はベッドへ身を投げ出すと、あたたかな眼差しへと視線を合わせた。
「一般論として、このぼんやりとした照明以外を頼りにするのなら、もう触れることでしか何も判らない」
「それが理由?」
「……上手く見られないなら、やっぱり触るしかない」
「だから無性に触れたの?」
「ぼくは無性だった?」
「いいえ。それは、わたしね」
それを聞くと最初の一体は素早く身を起こした。彼は後の一体のことを見つめていた。
「ぼくは」
「判ってるわ。わたしはあなたのし方が好きよ」
「うむ」
それでも最初の一体は後の一体のことを見つめ続けた。彼の口は言い出しかねている空虚な輪を描いていた。
「そのお口の中に女だって突っ込みたいときがあるわ」
「怖いことを言わないで」
「女はそんな怖い思いをしばしばしているのよ。言葉だけじゃなく、実際に、ね」
「ぼくは今日、乱暴だった?」
「いいえ」
しかし最初の一体は食い下がった。
「いいえ、よ。あなたのはいつも素敵。ゆっくりと一生懸命、一つになろうとしてくれたのよ」
「いつも素敵なのはあなたですよ」
彼女の微笑みは暗い床の底に落ちた。最初の一体はどうしてもその笑みを拾い上げたいようにして彼女の顔を覗き込んだ。
その時、電話が鳴った。最初の一体は立ち上がった。それから彼は口早に問答をして、後の一体へにこやかに告げた。
「売れたよ。どうにかね」
「良かったわね」
「帰って、ものの修正に取りかからなきゃ」
「慎重にね」
最初の一体は、慎重に、と口に含んで腹へ落とすように言った。それから彼は卓に置いた荷物を取って、帰り支度をした。
「あなたは?」
「もう少しいるわ」
「いつもだね」
「そうよ」
彼女は顎を上げて最初の一体を見た。
「だって、ここは私の部屋だもん」
最初の一体は早と玄関へ向かうところだった。しかし彼は再び彼女へと振り向いた。
「この後、何か食べようか」
「あら、お仕事は?」
「急ぎではない。どう?あなたが良ければ」
彼女は髪に触れていた。少女の頃の彼女がふとその身体を遡って来た。だが、少女では知り得ぬ身体のそれを拒んでいる部分が、今夜の彼女を独りきりにさせたがった。
「珍しくて、とてもうれしい申し出だけど、断るわ」
「そう」
「でも、うれしいのよ」
「良かったら、今度はこの部屋以外で会わない?」
「全てが明け透けな部屋で?天井に鏡が付いていて、くるくると回るベッドの部屋で?」
「いや、カフェとか?」
うれしいわ、と彼女は重ねて言った。うれしいわ、でも、
「カフェのあとは?きっと二人はまたここでくるくると、わたしたち自体で回り出すことになるのよ。身体は磁石みたいにくっついても、関係は空転するだけよ」
最初の一体は黙った。会話の途絶えにけじめを付けて、彼女の手は彼のことを送り出すように振りはじめた。
十二時……二時……十時……そうして、
もう部屋を出て行った最初の一体は彼女の記憶の中にしか今はいない。
あたたかな眼差しが最後の一体を取り包んでいる。彼のことを迎え受け入れた暗い部屋の中で、最後の一体は忍んでいる。彼が入って来ては出て行ったその数々の瞬間が何の脈絡もなく最後の一体には思い出される。
ベッド、丈の高い卓、隅に避けられたかのような二つ並びの硬い椅子。そうして繋がり合った二体の男女。
手に抱えた膝の上を彼女の優しそうな顎先はゆっくりと擦り続ける。眼差しはずっと床底に落とし続けて来た彼らの言葉から探り当てようとしている。そうして、それら言葉自体が探り合う手のように、互いの肉体の表層を行き来するばかりが彼女たちの現実だったようにもやはり思い返される。
ふと、泣きそうだ、と彼女のそう思ったとき、最後の一体は目を逸らした。
で、こうなった。
ずいぶんと暗い感じでしたね。
と言うか、何か、ちょっとキモい感じもありましたね。
通して読み返したら自らゾワッとする嫌悪感を抱きました。
それもまた気分なのだろうか。




