第9話 あの日から、ずっと
患者No.2088 マリア・グリューネヴァルト(享年29歳・女性)
肺の慢性疾患。末期。治癒による完治は不可能。苦痛の緩和のみ。
最終記録:「痛みは和らぎました。夫の名前を呼んでいます。手を握ったまま、静かに」
備考:グリューネヴァルト殿に、奥様の最後の言葉をお伝えした。
◇
貴族院の封書には、私の十二年間の答え合わせが記されていた。
朝の診療所で封を切り、便箋に目を通した。査察官の署名入りの公式文書。硬い文体が、事実だけを淡々と並べている。
ヴァイセンベルク侯爵領に対する実地査察の結果を以下に報告する。
領内の衛生状態は著しく悪化。慢性疾患を抱える労働者の就労率が低下し、農具専門鍛冶師の長期休業に伴う農具修繕の停滞、春の種蒔き遅延、収穫量の減少が連鎖的に発生。税収は前年比で二割五分の減。産後の母親の回復遅延による労働力低下も確認。
上記の崩壊は、前侯爵夫人セシリア・ファルケンシュタインによる治癒巡回の停止を直接の起点とするものと認定する。当該領地の安定は、前侯爵夫人の十二年間にわたる治癒活動によって維持されていたものと結論づける。
ヴァイセンベルク侯爵の領地運営能力に重大な疑義が生じたため、監督官の派遣を決定する。
手紙を膝の上に置いた。
「そうですか」
声に出した。それだけだった。
感情が動かなかった──というのとは違う。胸の奥で何かが静かに閉じた。長い間開いていた扉が、かちりと音を立てて。
(──終わった)
終わったのだ。十二年間の、答え合わせが。
私の仕事は「地味で、誰にでもできるもの」ではなかった。貴族院の査察官が、公式の文書でそう認めた。
だからといって、胸を張る気にはならなかった。あの領地で暮らす三千二百人のことを思えば、ただ──早く治癒師が派遣されることを願うばかりだった。
手紙を畳み直して、封筒にしまった。
◇
昼過ぎ、エルヴィンが薬草を届けに来た。
荷を下ろし終えた後、診療所の奥の部屋で向かい合った。手紙を見せた。エルヴィンは黙って読み、静かに机に戻した。
「監督官が入れば、治癒師も来る。あんたのおかげだ」
「わたくしのおかげではありません。ブルーノ教授が動いてくださったからです。お父様が手紙を書いてくださったからです。そして──記録を出すべきだと仰ってくださったのは、エルヴィン殿です」
「……ああ」
エルヴィンは窓の外を見た。夕暮れの光が差し込んで、薬草の乾いた匂いが濃くなる時間帯だった。
「一つ、話しておかなければならないことがある」
声が低かった。いつもと同じ低さのはずだったが、どこか──重かった。
「……何でしょう」
「台帳を開いてくれ。古い方の」
言われるまま、ヴァイセンベルク時代の台帳を棚から取り出した。十二年前の冊子。後半の頁。
「No.2088を」
頁をめくった。指が、ある名前の上で止まった。
患者No.2088 マリア・グリューネヴァルト
グリューネヴァルト。
指先が冷たくなった。
「……マリア、さん」
「俺の、女房だった」
台帳の記録を見つめた。自分の筆跡。肺の慢性疾患。末期。治癒による完治は不可能。苦痛の緩和のみ。
(──覚えている)
覚えていた。この方のことを。
十二年前。巡回を始めて数年が経った頃。領内の外れに住む若い女性。肺を病んで、冬を越せないだろうと言われていた。毎日通った。治癒で完治させることはできなかった。できたのは、痛みを和らげることだけ。
最後の日。手を握っていた。冷たくなっていく手を。彼女は夫の名を呼んでいた。
「あんたが看取ってくれた」
エルヴィンの声だった。
「ああ」
「翌朝、あんたが俺に伝えてくれた。『奥様は最後まであなたの名前を呼んでいました』と」
覚えていた。あの朝のことも。薬草園の前で、大きな背中の男性に、震える声で伝えた。あの時のエルヴィン殿の顔は──覚えていない。曖昧だった。十二年前の、大勢の患者の一人のご家族。
「翌月から、薬草を届け始めた」
息が止まった。
翌月。
納品書の束が頭に浮かんだ。十二年分の納品書。一番古い一枚の日付は──。
台帳を閉じて、棚から納品書の束を引き出した。紐を解く。一番下の一枚。日付を見た。
マリアさんが亡くなった翌月だった。
「……最初は、礼のつもりだった」
エルヴィンの声は短かった。途切れ途切れだった。
「あんたの手が冷たかった。何十人も診た後だったんだろう。それでも、マリアの手を温め続けていた」
納品書を一枚ずつめくった。日付と品種を照合していく。手が動くままに。
初年度──一般的な傷薬の原料。
二年目──慢性痛に効く根茎が加わっている。
三年目──産後ケアの花弁。
四年目──関節炎用の樹皮。
五年目、六年目、七年目──。
品種が、年を追うごとに変わっていた。私の巡回で必要になる薬草が増え、不要なものが減っている。私の治療内容に、正確に、合わせて。
(──見ていた)
この方は、十二年間、見ていた。
納品のたびに診療室の棚を見て。品種を合わせて。注文にない薬草を「余ったから」と置いて。茶葉を置いて。──全部。
「品種を合わせたのは」
エルヴィンが言った。
「あんたの治療を、少しでも楽にしたかったからだ」
納品書が膝の上に広がっていた。十二年分。一枚一枚に、この方の──。
「あなたも、十二年……」
「ああ」
短い返事だった。
目の奥が熱くなった。
(──この方は)
十二年間。私が毎朝巡回に出て、毎晩台帳を書いて、誰にも知られず夫の頭痛を治していた、あの十二年間。同じ十二年間を、この方は薬草を届けることで。
涙が頬を伝った。
拭わなかった。拭えなかった。
一つだけ、胸を刺すものがあった。
(──わたくしは、マリアさんの代わりなのでしょうか)
亡き妻を看取った治癒師への、感謝。その延長に、私がいるのだとしたら。
「エルヴィン殿」
「ああ」
「わたくしは──マリアさんの」
言いかけて、止まった。声にするのが怖かった。
エルヴィンが顔を上げた。
目が合った。この方の目を、こんなに近くで見るのは初めてだった。茶色の瞳。深い色だった。
「マリアのためじゃない」
短かった。
「あんたの手を、温めたかった」
それだけだった。飾りも、前置きも、言い訳もない。
あの日。マリアさんの手を握り続けた私の手が、ひどく冷たかったこと。何十人も診た後で、魔力を使い果たして、指先の感覚がなくなりかけていたこと。
この方は、それを覚えていた。
十二年間。
涙が、また落ちた。
手を伸ばした。
自分から。
テーブルを挟んで、エルヴィンの手に。大きな、荷を運ぶ人の手。その手の甲に、私の指先が触れた。
冷たかった。──私の手が。いつも通り、患者を診た後の私の手は冷たかった。
エルヴィンの手が、動いた。
私の指先を、そっと包んだ。
温かかった。
◇
どのくらいそうしていただろう。
窓の外が暗くなっていた。蝋燭に火を点けなければ、互いの顔も見えない。けれど見えなくてよかった。今の自分の顔を見られたくなかった。
「……エルヴィン殿」
「ああ」
「わたくし、ちゃんと答えを出したいのです」
手を引いた。名残惜しかった。けれど、このままでは──まだ、自分の中の整理がつかない。十二年間「機能」として生きてきた私が、「そうではない自分」を受け入れるには、もう少し時間が必要だった。
「急がなくていい」
短い声だった。
「……ありがとうございます」
エルヴィンは立ち上がり、帽子を取って、診療所を出ていった。
戸口で一度だけ振り返った。暗がりの中で、表情は見えなかった。
「あんたの手は、いつも冷たい。──だから俺がいる」
扉が閉まった。
一人になった診療所で、自分の手を見た。
まだ、少しだけ温かかった。
◇
翌朝、ブルーノ教授から追加の手紙が届いた。
査察の結果を受けて、ヴァイセンベルク領には監督官が着任し、治癒師の派遣手続きが始まったとのことだった。レクトルの爵位は維持されるが、実質的な自治権は制限される。ナターシャは──社交界で「あの愛人のせいで領地が傾いた」と噂され、侯爵夫人の座を得る見込みも消えたと、商人経由の風聞が添えられていた。
手紙を畳んだ。
「三千二百人の方々に、早く治癒師が届きますように」
それだけを思った。
あの方のことは──もう、考えなかった。
窓の外に目をやった。薬草園の方角。まだ馬車の音は聞こえない。
(──ちゃんと、答えを出さなければ)
自分の手を見た。冷たい手。十二年間、誰かのために使い続けた手。
この手を温めたいと言ってくれた人がいる。
台帳を開いた。今日の患者の準備をしなければ。答えを出すのは──もう少しだけ、先のこと。
けれど、もう怖くはなかった。




