第5話
ヨミ師匠の庵は、カセンから半日歩いた山中にあった。
山道を登りながら、ハクが言った。
「師匠に会うの、何年ぶり?」
「三年」
「逃げ出してから?」
「逃げ出してから」
「……気まずくない?」
「最高に気まずい」
山道は急だった。石が転がっている。昨日の雨で滑りやすい。ハクが何度か足を滑らせて、あたしが手を引いた。
「ありがと」
「体力ないね」
「参謀は体力を使わないのが仕事だよ」
「……誰が?」
◇
庵が見えた。
山の中腹に、木と石で作られた小さな家。屋根に苔が生えている。煙突から煙が上がっている。人がいる。
戸の前で立ち止まった。
三年間。この戸を叩かなかった三年間が、急に重くなった。
「入らないの」
「入る。ちょっと待って」
「待つけど。早くして」
深呼吸した。手を上げた。叩いた。
間があった。中から足音。重くはない。軽くもない。
戸が開いた。
ヨミ師匠が立っていた。
四十代後半。灰色の長い髪を一本に束ねている。「灰色のヨミ」の異名通り。目が……目が変わっていなかった。三年前と同じ。深い目。物語をたくさん見てきた目。キソさんと同じ種類の目。
「ソラ」
「……お久しぶりです」
「三年ぶりだね。大きくなった」
「背は伸びてません」
「中身の話だよ」
ヨミ師匠の目があたしの奥を見ている。語り部の目だ。人間の中身を読む目。あたしが三年間で何をしてきたか、全部見透かされている気がする。
「入りなさい。その子も」
◇
庵の中は質素だった。囲炉裏。本棚。茶器。壁に何もかかっていない。そこに飾るとしたら物語だろうが、ヨミ師匠の壁は白い。
お茶を出してくれた。山の薬草茶。苦い。
「ハクです」ハクが頭を下げた。
「語り盗りの相棒?」
「雇われです」
「同じだよ」
ヨミ師匠が微笑んだ。穏やかな笑みだ。でもあたしは知っている。この人の穏やかさは鎧だ。穏やかさの下に何を隠しているかを。
「用件はわかっているよ」
「え?」
「レンから連絡が来た。語り盗りの娘が禁忌物語を探している、と」
「レンが……連絡した?」
「彼は真面目な子だからね。俺に先に知らせた。おまえが来る前に、準備する時間が欲しかったんだろう」
準備。何の準備。
「『鳥の花嫁』のことだね」
「はい」
「キソが探している。知ってるよ。あの人は昔からあの物語に執着していた」
「師匠が最後に語った語り部だって聞きました」
ヨミ師匠がお茶を啜った。一口。ゆっくりと。
「語った、というのは正確じゃない」
「どういう意味ですか」
「あの物語は……私が作ったものじゃない」
わかっている。レンが匂わせていた。禁忌指定された理由。変異の暴走。
「盗んだんですね」
言った。あたしの声は震えなかった。怒っていないのかもしれない。怒りの前に、確認したかった。
ヨミ師匠が目を閉じた。
「ああ。盗んだ」
沈黙が囲炉裏の煙と一緒に上がった。
◇
「若かった」
ヨミ師匠が語り始めた。語り部だから、語ることで伝える。
「二十歳のとき。旅をしていた。山奥の村で、老婆に出会った。名前も知らない老婆だ。夕暮れの広場で、たった一人の聞き手に向かって、物語を語った」
「『鳥の花嫁』」
「そうだ。鳥が人間の花嫁になる話。ただの昔話に聞こえた。……最初は。でも老婆の語りが進むにつれて、ビジョンが——」
ヨミ師匠の声が変わった。二十歳の自分に戻っている。
「鳥の羽根が見えた。一枚一枚。風が吹いた。花の匂いがした。でもそれだけじゃない。物語の核に、何かがあった。言葉にできない何か。聞いているうちに、私の中の何かが変わった。世界の見え方が変わった。物語にそんな力があるのかと……」
「盗んだんですね。その核を」
「……盗んだ。老婆が語り終えたとき、私の中に核があった。意図して盗んだのか、勝手に入ってきたのか、今でもわからない。でも結果は同じだ。老婆は翌日、あの物語を思い出せなくなっていた。私が核を持っていったから」
あたしの中で、何かが軋んだ。
ヨミ師匠。「盗むな、自分の物語を作れ」と教えた人。あたしを語り盗りだと叱った人。その人が、同じことをしていた。
「それを、あたしに知ってて教えなかったんですか」
「知ってたら、おまえはどうした?」
「……」
「『師匠も盗んでるなら、盗んでいい』と思っただろう。だから言わなかった」
「それは、ずるい」
「ずるいよ。偽善だよ。でも、おまえには、私みたいになってほしくなかった」
ヨミ師匠の目が潤んだ。あたしは初めて、この人の弱さを見た。
◇
「『鳥の花嫁』はまだ持っているんですか」
「ある。でも、語れない」
「なぜ」
「あの物語は強すぎる。私が語ると、聞き手の中で暴走的な変異を起こす。ギルドに追放された理由がそれだ。語るたびに、聞いた人間の感情が制御できなくなった」
「でも禁忌指定されたのは物語のせいで、師匠のせいじゃ」
「私のせいだよ。盗んだ物語を語ったから暴走した。元の老婆が語っていたら、たぶん暴走しなかった」
「なぜ?」
「あの老婆は、あの物語の持ち主だったから。持ち主が語れば、核は安定する。でも盗った人間が語ると、核が不安定になる。盗りの語りは」
あたしは息を呑んだ。
「変異しやすいってこと?」
「そうだ。普通は。盗まれた物語は盗り手の中で不安定になり、語るたびに変異する」
でもあたしの語りは変異しない。ハクがそう言った。レンもそう言った。
「師匠。あたしの語りは変異しないって言われました」
ヨミ師匠がゆっくりあたしを見た。
「変異しない?」
「ハクが、変異の音がしないって。レンも、核がそのままだって」
「……」
長い沈黙。
ヨミ師匠が立ち上がった。棚から何かを取り出した。瓶だ。透明な瓶。中に、灰色の霧が漂っている。
「これが『鳥の花嫁』だ。私が瓶に封じた。語れないから。でもこの中でも、物語は変異し続けている。霧が灰色になったのは、元はもっと明るい色だったんだ」
ヨミ師匠があたしに瓶を差し出した。
「おまえなら語れるかもしれない」
「え?」
「変異しない語り。盗んだ物語を、元の形のまま語れる人間。おまえがそうなら、『鳥の花嫁』を語っても暴走しないかもしれない」
「でも、あたしは盗りです。師匠が教えたのは『自分の物語を作れ』で——」
「ソラ」
ヨミ師匠が言った。声が変わった。穏やかさの鎧が外れた。生の声。
「私が間違っていた」
「え?」
「『盗むな、自分の物語を作れ』……あれは、自身への戒めだった。おまえに向けた言葉じゃなかった。私が盗んだことの罪悪感を、おまえに押しつけていた」
「師匠……」
「物語は、誰のものでもない。語った者のものでも、聞いた者のものでも、盗った者のものでもない。物語は物語のものだ。人間は、語り継ぐ器にすぎない」
レンと同じことを言っている。でもレンの声と違う。レンは信念として言っていた。ヨミ師匠は、告白として言っている。自分の過ちを認めたうえで、やっと辿り着いた言葉。
「でも器には色がある。私の器は灰色だ。盗みの色。おまえの器は、何色かわからない。でも、物語を変えない色だ。透明に近い色」
◇
あたしは瓶を受け取った。
灰色の霧が揺れた。中で何かが動いている。物語が生きている。
「語ります」
「今ここで?」
「いいえ。キソさんの前で。あの人が聞きたがってるから」
ヨミ師匠が頷いた。
「私のことは許さなくていい」
「許すとか許さないとかじゃないです」
「じゃあ何だ」
あたしは考えた。
「師匠が盗んだ。あたしも盗んでる。あの老婆だって……たぶん誰かから聞いた物語を語っていた。全部、借り物なんです。全部。オリジナルなんて、最初からなかったのかもしれない」
ヨミ師匠が目を見開いた。
「でもそれは、物語が無価値ってことじゃない。借り物でも、語り継がれることに意味がある。壊れたら直せばいい。変異したら元に戻せばいい。消えそうなら……探して、見つけて、もう一度語ればいい」
あたしの語りは変異しない。盗んだ物語を元の形で語れる。
それは盗みじゃなくて。
「借りてるんです。あたしは。物語を借りて、返してる。語り継いでる。ちょっと下手くそに。ちょっと不器用に。でも、核だけは壊さないように」
ヨミ師匠が泣いた。
声を出さずに。灰色の髪が頬に落ちて、涙を隠した。でもあたしには見えた。
◇
山を下りた。
夕暮れ。カセンの灯りが遠くに見える。
「師匠、泣いてたね」
「うん」
「おまえも泣いてた」
「泣いてない」
「嘘つくなって。鼻赤いじゃん」
「……山の空気が冷たかったから」
「はい嘘」
「うるさいよハク!」
走った。山道を駆け下りた。ハクが「転ぶ!」と叫んでいる。あたしは足が速い。盗みの逃げ足で鍛えた足だ。
胸の中に瓶がある。灰色の霧。『鳥の花嫁』。
キソさんに届ける。あの老人の薄れゆく記憶に、もう一度物語を語り聞かせる。変異しない語りで。核をそのまま。
あたしは語り盗りだ。
——いや。
あたしは語り借り(カタリガリ)だ。
借りた物語を、元の形で、必要な人に届ける。それがあたしの仕事だ。
ヨミ師匠は許せない。でも理解はできる。
レンの正しさも理解できる。
ミナさんの痛みも忘れない。
キソさんの物語も消させない。
全部抱えて走る。語り借りのソラ。まだ何も創れない。でも、借りた物語を、壊さずに届けることはできる。
ハクの声が背中から聞こえた。
「おまえの語り、少しだけ変異した」
振り向いた。
「良い方に」
ハクが笑っていた。めったに見ない笑顔。
あたしも笑った。泣きながら。走りながら。夕焼けの中を。




