第4話
ヨミ師匠に会いに行く前に、やらなきゃいけないことができた。
竜殺しの話。あたしが酒場で盗んだ物語。あれが、問題を起こした。
◇
知らせはハクが持ってきた。
朝、パンを買いに行ったハクが、真っ青な顔で戻ってきた。ハクが青い顔をするのは珍しい。普段は何があっても冷静で毒舌だ。
「どうしたの」
「おまえが盗んだ竜殺しの話。市場で売ったよね」
「うん、仲買に渡した」
「仲買がさらに別の語り部に売った。その語り部が、東区の広場で語った。大勢の聞き手の前で」
「うん。それで?」
「変異した」
ハクの声が低い。
「変異して、聞いた人のひとりが倒れた」
◇
東区の広場に駆けつけた。
人だかりができている。広場の隅で、若い女が倒れている。目を開けているけど焦点が合っていない。周囲の人間が介抱している。
あたしは人だかりの外から見た。ハクが隣にいる。
「何が起きたの。詳しく」
「語り部が竜殺しを語った。でも核が変異していた。『竜の血から草が芽吹く』……これが変わってた。『竜の血が大地を焼く。何も芽吹かない。焼け跡だけが残る』に。死から生が生まれる話が、死だけが残る話に変異した」
「……」
「聞いた女性が……たぶん身近な人を亡くしたばかりだったんだと思う。変異した物語のビジョンが、彼女の喪失感と共鳴して、感情が制御できなくなった」
あたしは立ち尽くした。
あたしが盗んだ物語だ。あたしの手を離れて、仲買を通って、別の語り部の手に渡って、その語り部の中で変異して、人を傷つけた。
「——あたしのせい?」
「直接は違う」
「間接的には?」
「……」
ハクが黙った。黙ったということは、そうだということだ。
◇
あたしは倒れた女性のそばに行った。
介抱していた人たちが道を開けた。女性は地面に座り込んでいる。目が赤い。泣いたんだろう。体が震えている。ビジョンの後遺症だ。強い感情を伴うビジョンを浴びると、体が反応を止められなくなる。
「大丈夫ですか」
「……誰?」
「通りがかりの者です。何かできることは」
女性があたしを見た。目が合った。
「あの物語……竜が死んで、何も残らなかった。何も……」
声が途切れた。また泣き出した。
あたしの胸が痛い。物理的に痛い。心臓のあたりが締まっている。
この痛みは、あたしが盗んだから生まれた痛みだ。
元の語り部の手にあったまま語られていたら、核は変わらなかった。死から生が生まれる話のままだった。あたしが盗んで、市場に売って、別の人間に渡ったから、核が変異した。物語が壊れた。
壊れた物語が、人を傷つけた。
◇
安宿に帰った。
テーブルの前に座った。何も食べる気がしなかった。
ハクが向かいに座っている。何も言わない。
「あたしが盗まなきゃよかったんだ」
「……」
「盗まなきゃ、あの語り部はあのまま酒場で語ってた。竜の血から草が芽吹く話を。聞いた人はあったかい気持ちで家に帰ってた。でもあたしが盗んだから……」
声が震えた。
「盗んで、売って、知らない人の手に渡って、壊れた。壊れた物語が人を——」
泣いた。
泣くつもりじゃなかった。でも泣いた。テーブルに突っ伏して、声を上げて泣いた。ハクの前で泣いたのは初めてだった。
ハクが動かなかった。何も言わなかった。慰めもしなかった。突き放しもしなかった。ただそこにいた。
五分くらい泣いた。泣き止んだ。鼻をすすった。顔を上げた。
「……みっともない」
「みっともなくないよ」
ハクが静かに言った。
「泣けるだけ、まともだよ。おまえが泣かないやつだったら、おれはとっくに離れてる」
ハクの声がいつもと違った。毒舌じゃない。冷静でもない。ただ、正直な声。
「ありがとう」
「別に。事実を言っただけ」
「それが嬉しいの」
ハクが目を逸らした。照れてるのかもしれない。
◇
翌日。
あたしは東区に行って、あの女性に会いに行った。
名前はミナさん。二十五歳。半年前に弟を病気で亡くしたばかりだった。弟の口癖が「死んだ土からも草は生えるよ」だった。
変異した物語、「何も芽吹かない」は、弟の言葉の否定だった。だから壊れた。
「すみませんでした」
あたしは頭を下げた。
「あの物語の元は、あたしが持ってきたものです。あたしが盗んだ物語が巡り巡って変異して、あなたを傷つけた」
ミナさんはしばらくあたしを見ていた。怒りの目ではなかった。困惑と、少しだけ安堵の目。
「語り盗りの子?」
「はい」
「……あなたが盗まなくても、いつか同じことが起きたかもしれない。物語は変異するんでしょ。誰の手を通っても」
「でも——」
「盗む人を責めても仕方がない。物語は……生き物だから」
ミナさんの声は穏やかだった。弟を亡くした人の声。怒りの向こう側にいる声。
「ただ、ひとつだけ」
「はい」
「元の物語を聞かせてもらえる? 竜の血から草が芽吹く話。あなたが盗んだ元の形を」
あたしは語った。核をそのまま。変異しない語りで。
竜の血が大地を焼く。焼かれた土から、新しい草が芽吹く。
ミナさんが目を閉じて聞いていた。涙が流れた。でも今度の涙は、壊れた涙じゃなかった。
「……弟が言ってたのと同じだ。死んだ土からも草は生える」
あたしは泣かなかった。今度は堪えた。堪えたけど、胸の中でずっと、何かがぎしぎし音を立てていた。
◇
帰り道。
「ヨミ師匠に会いに行く」
「明日?」
「うん。先延ばしにしてる場合じゃない。『鳥の花嫁』を探すのもそうだけど、あたし、このまま盗み続けて、また同じことが起きたらどうするの。盗んだ物語がまた壊れて、また誰かを傷つける」
「やめるの? 盗みを」
「……わからない。やめられるかどうかもわからない。でもヨミ師匠なら、何か知ってるかもしれない。『自分の物語を作れ』って言ってた人だから」
「その師匠が『鳥の花嫁』を語った最後の人間でもある」
「うん」
「矛盾してない? 『盗むな、自分の物語を作れ』って教えた師匠が、禁忌物語を語って追放された」
「してる。だから聞きに行くの」
ハクが黙った。少し歩いて、言った。
「おれも行く」
「止めないの?」
「おまえが泣くのを二度見たくない。師匠に会えば何か変わるかもしれない。変わらなくても、おまえが一人で行くよりまし」
あたしはハクの横を歩いた。夕暮れの石畳。長い影がふたつ。
竜殺しの核がまだ胸の中にある。焦げた土の匂い。草が芽吹く感触。
あの物語は、壊れた。でもあたしの中では、まだ生きている。




