第1話
物語を盗むのに必要なものは三つ。耳と、度胸と、逃げ足。
あたしはその三つとも持っている。だからこうして、夜の酒場の隅っこに座って、薄い麦酒をちびちびやりながら、向こうのテーブルで語りを始めた男の声に耳を傾けている。
「——かくして英雄は剣を抜き、竜の喉元に一閃を見舞った。血が噴いた。赤い、赤い血だ。竜の血は大地を焼き、焼かれた土から新しい草が芽吹いた——」
竜殺しの話か。古い物語だ。でも語り方に味がある。この男、ギルドの登録語り継ぎじゃない。声の震え方が自然すぎる。訓練された語り部は声を震わせない。震えは制御するものだと教わるから。
この男は、自分で体験したかのように語っている。本当に体験したわけじゃない。竜なんてとっくの昔に絶滅している。でも物語が体に入っている。入り方が深い。たぶん子供の頃に誰かから聞いて、ずっと持っていた物語だ。
いい物語は、持ち主の体温で温められている。
あたしは麦酒の泡を舐めて、もう少し聴いた。
「——英雄は振り返らなかった。故郷の方角を見ることなく、灰の平原を歩き始めた。剣は折れていた。でも英雄は笑っていた。なぜ笑っていたか——」
語り部の目が潤んでいる。聞き手は七人。酒場の客が自然に集まっている。誰も麦酒を飲んでいない。全員の目が語り部に吸い寄せられている。
ビジョンが始まっている。
あたしにも見えた。灰色の平原。折れた剣。笑っている男の後ろ姿。風が強い。砂が頬を打つ感覚。
いい語りだ。ビジョンの解像度が高い。匂いまで来る。焦げた土と、鉄の血の匂い。
——盗む。
あたしは目を閉じた。耳に集中した。物語の核を探す。核は物語の骨格じゃない。骨格なら誰にでも見える。核は、物語が物語である理由。この竜殺しの話の核は、竜の血から草が芽吹くところだ。死から生が生まれる。語り部がこの物語を愛している理由がそこにある。
核に触れた。
引く。
物語の核を、語り部の声から、あたしの中に引き込む。水が低いところに流れるように、じゃない。もっと暴力的だ。もぎ取るように。果実をもぎ取るように。
音がした。あたしの中で。ぱきん、と乾いた音。物語の核が、あたしの中に落ちた。
目を開けた。
語り部がまだ語っている。「——英雄は笑っていた。なぜなら——なぜなら——」
声が揺らいだ。
語り部の目から光が消えかけた。物語の核を抜かれたことに、無意識に気づいたのだろう。言葉が出てこない。「なぜなら」の先が、自分でもわからなくなっている。
聞き手が固まっている。さっきまで鮮明だったビジョンがぼやけている。
あたしは席を立った。麦酒の代金を置いて、酒場を出た。背中に語り部の声が聞こえた。「——すまない、どこまで話したか——」
ごめんね。
心の中で呟いた。声には出さない。声に出したら、盗みが重くなる。
◇
路地裏。夜風。星は出ていない。雲が厚い。
石の壁にもたれて待っていると、闇の中から声がした。
「また盗んだの」
「おはよう、ハク」
「おはようじゃない。夜だよ」
「夜におはようって言わない?」
「言わない」
ハクが闇から出てきた。背が低い。あたしより頭ひとつ小さい。灰色のフードを被っている。目だけが光っている。怒っている目じゃない。呆れている目だ。
「竜殺し?」
「わかるの?」
「おまえの中から焦げた匂いがする。比喩じゃなくて、本当に匂う。物語の残り香」
ハクは物語の変異を「聞く」ことができる。聞こえるだけじゃなくて、匂いも感じるらしい。人によって感じ方が違うとか。ハクの場合は聴覚と嗅覚に来る。
「で、どうするの。竜殺し」
「明日売る。カタリイチで」
「いくらで?」
「物語で物語を買うんだから、いくらじゃないでしょ」
「何と交換するの」
「まだ決めてない。見てから」
ハクがため息をついた。大人びている。でも声はまだ少し高い。
「あの語り部、気の毒だったね」
「……うん」
「核を抜かれると、しばらく思い出せないんでしょ」
「完全に消えるわけじゃないよ。ぼやけるだけ。一週間もすれば戻る」
「一週間も語れない。語り部にとっては」
「……うん」
ハクの言葉が刺さる。刺さるのは本当のことだから。あたしは人の物語を盗んでいる。盗まれた側は一週間、自分の大事な物語を思い出せなくなる。竜殺しの話を子供の頃からずっと抱えてきた人間が、突然それを思い出せなくなる。
それは、窃盗だ。
「わかってるって」
「わかってるなら——」
「言わないで。『自分の物語を作れ』って。ヨミ師匠の真似しなくていいから」
ハクが黙った。あたしも黙った。
夜風が路地を吹き抜けた。遠くで酒場の扉が閉まる音がした。
◇
あたしたちの拠点は、境街の裏通りにある安宿の屋根裏だった。
屋根裏と言ってもそれなりに広い。寝台がふたつ。窓がひとつ。テーブルと椅子。壁に地図が貼ってある。カセンの市街図。物語市場の開催日が赤い印で書き込んである。
ハクが乾パンを齧りながら言った。
「明日の市場、南通りの大市だよ」
「知ってる」
「人が多いから、ギルドの巡回も来る。気をつけて」
「いつも気をつけてるよ」
「いつも捕まりかけてるよ」
「捕まってないからセーフ」
「その論法はいつか破綻するよ」
ハクの毒舌は愛情表現だと、あたしは勝手に解釈している。ハクに言ったら「違う」と言われるだろうけど。
乾パンを半分もらって齧った。硬い。歯が折れそう。
「ねえ、ハク」
「なに」
「あの竜殺しの核、聞いてみる?」
「……いいけど」
あたしは核を語った。
盗んだ物語の核を、自分の声で語り直す。竜の血が大地を焼く。焼かれた土から草が芽吹く。死から生へ。終わりから始まりへ。
ハクが目を閉じて聞いていた。
語り終えた。
「どう?」
「……変異してない」
「え?」
「おまえの語り、変異してない。元の形のまま。匂いも同じ。あの酒場で聞いたときと同じ匂いがする」
それは変だ。
物語は語られるたびに変異する。聞き手の中で変わり、語り直すとさらに変わる。伝言ゲーム。それが原理だ。
なのに、あたしの語りは変異しない?
「前からそうなんだけど」ハクが目を開けた。「おまえの盗んだ物語を聞くと、変異の音がしない。静かなんだ。普通の語りは変異のノイズがあるのに、おまえの語りだけリアルタイムの変異が起きない」
「それって……いいこと? 悪いこと?」
「わからない。でも、おれがおまえについてる理由のひとつだよ」
ハクはそう言って、毛布を被った。会話終了の合図。
あたしは窓辺に座って、夜空を見た。雲が薄くなって、星がちらちら見え始めていた。
あたしの語りは変異しない。なぜ? 盗んだ物語なのに。
わからない。わからないけど、ハクがそのためにここにいるなら、まあ悪い話じゃない。
◇
翌朝。
市場に行く前に、朝飯を買いに出た。境街の南端に小さなパン屋がある。かまどの煙が路地に流れている。
「おはようございまーす。丸パンふたつ」
「はいよ。ソラちゃん、今日も早いねえ」
「早起きは三文の徳って言うでしょ」
「語り盗りに徳はあるのかい」
「うっ」
パン屋のおばちゃんは知っている。境街の住人は大体知っている。あたしが語り盗りだということ。でも通報はしない。境街の暗黙のルール。ギルドの目が届かない場所で、みんなそれぞれの「商売」をしている。
丸パンを抱えて安宿に戻った。ハクはもう起きていた。テーブルに地図を広げている。
「南通りの大市、午前は語り継ぎの公演があるから、午後のほうがいい。人が入れ替わって、ギルドの巡回員も疲れてくる」
「さすが参謀」
「参謀じゃない。おまえが無計画すぎるだけ」
パンを食べながら、今日の計画を立てた。竜殺しの物語を売る。代わりに欲しいのは——
「ねえ、ハク。あたし、依頼を受けたいんだけど」
「依頼?」
「昨日、パン屋のおばちゃんから聞いたの。カセンの東区に住んでる老人が、昔聞いた物語を探してるんだって。子供の頃に聞いた物語なんだけど、年を取って内容が薄れてきちゃって。思い出したいんだけど、元の語り部がもうどこにもいない」
「それ、語り盗りの仕事じゃなくて語り継ぎの仕事では」
「でも語り継ぎに頼むと高いでしょ。ギルドの正規料金は、老人の年金じゃ払えない」
「……おまえ、また善人ぶるの」
「善人じゃないよ。報酬はもらう」
「何を」
「その老人が持ってる物語。昔集めた物語のコレクションがあるらしいの。その中から一つもらう」
ハクが眉を上げた。
「物語で物語を買う。まあ、市場の論理ではある」
「でしょ?」
「その老人が探してる物語、見つかる保証は?」
「ないよ。だから面白いんじゃん」
ハクがまたため息をついた。二日連続のため息。
「行くの?」
「行く」
「……じゃあ、おれも行く。おまえ一人だとろくなことにならないし」
ハクが立ち上がった。フードを被り直した。
あたしも立ち上がった。盗んだ竜殺しの核が胸の中で温かい。焦げた土の匂い。血と草の匂い。
この物語を市場で売って、老人の依頼を引き受ける。物語で物語を買い、物語で物語を探す。あたしの仕事はいつもそうだ。物語の中を泳いでいる。自分の物語がないから、他人の物語の海で息をしている。
それが語り盗り。
さあ、行こう。




