ハードル 04 スリーステップ
走る。
「クソッ!」
俺は毒づいた。
こんなに体は重かったか。
こんなに足は前に出ないものだったか。
いくら余計な荷物を持っているとは言え、こんなに俺は遅くなっていたのか。
死んだヤツの端末に届く指示に従って駅の反対側に抜けたのは正解だった。
古い市街地で区画は整理されてないし、道が狭く曲がりくねっている。
路地を抜けていけば車で追ってくるのは不可能だ。
「止まれ!」
そう言われて止まるヤツはいない。
どんなに衰えていてもポリ公なんかに走りで負けるかよ。
踏み込む時に伝わる衝撃。
大地を蹴り上げ、体を前に押し出す感触。
走るという機能だけに集中する。
楽しい。こんな時だってのに走るのが楽しい。
笑みを浮かべて逃走する俺のことをポリ公たちはどう思うだろうか。
快楽殺人者? 違法な子どもを攫った精神異常者かもしれない。
だがそんなことはどうでもいい。
誰かを置き去りにして走ることの快楽に比べたら些細なことだ。
行く当てはある。
誰だか知らんが、端末はメッセージを受けて目的地が設定されていた。
信用はならんが、他に選択肢が無い。
まるでトラックのレーンのようだ。
真っ直ぐにゴールに向けて道が伸びている。
迷わなくていい。考えずに走ることに集中する。
汚い路地裏を駆け抜ける。
ポリ公たちは追いつけやしない。
「ポリに追われてるヤツを匿ったりはできねぇよ。すぐに立ち去ってくれ」
当ては外れる。
指示に従って到着したのは汚いビルの薄暗い地下だった。
鼻腔をくすぐる煙の匂いはハッパだろう。
「待ちなよ。可哀想に。お腹が減ってるんだよね」
豊満な肉体の女性が俺から赤子を取り上げて、胸元を出して膨らんだ乳房に赤子を押し当てる。
赤子は女性の乳房に貪りついた。
「ほら、おしめの替えを用意するんだよ。悪いね。ここに置いてやることはできないけど、少しだけ休んで行きな」
「いいのか?」
「あんたのためじゃない。この子のためだよ。母親は?」
母親という耳慣れない言葉に一瞬混乱するが、つまりは母体提供者ということだ。
「死んだ。殺された」
「そうかい」
会話はそれきり途絶えた。
俺は椅子を借り、水をもらい、息を整える。
俺は短距離走者で長距離走者じゃない。
それでも人よりは持久力があると思うが、いつまでも走り続けられるわけではない。
ここは駄目だ。と端末にメッセージを送る。
『次はここへ向かえ』
新しい目的地が端末に設定される。
今度は大丈夫なんだろうな? と、送信。
『行くか、捕まるかだ』
お前は誰だ。目的は何だ?
『同じ質問に答えてくれ』
その手には乗るかよ。
まだこのメッセージの主が味方と決まったわけじゃない。
俺は先の見えないトラックを、レーンに従って闇雲に走っているだけだ。
「四ヶ月ってところね」
不意に言われて俺は辺りを見回したが俺以外にいない。
着替えさせられた赤子を抱いた女は俺に話しかけているようだった。
「四ヶ月?」
「そう。生後」
「つまり産まれてきてからってことか?」
女は声を抑えて笑った。
きっと赤子が気持ちよさそうに寝ているからだろう。
「去勢済み野郎らしい無知っぷりだね」
「そっちこそ人間になれていない獣だろう」
「知らないのかい? 人間は獣さ。玉はなくとも気持ちよくなれるって知ってっかい? 教えてやるよ」
女が体を寄せてくる。
体温を感じられるほどに近く。
人と人が接触するなんて不衛生だし、気味が悪い。
俺は女から赤子を奪い取って立ち上がった。
「そっちのお望み通り立ち去ってやるよ」
幸い次の目的地はすでにある。
俺は足早に地下室を後にする。
警察の追跡を振り切る。
「さっさと出てけ」
警察の追跡を振り切る。
「関わらないでくれ」
警察の追跡を振り切る。
「なんてものを持ってきてるんだ。やめてくれ」
警察の追跡を振り切る。
「おまえを信じたのが馬鹿らしくなってきた!」
音声入力でメッセージを送る。
『次で最後だ』
「最後ってのはあれか、おしまいってことか!?」
端末に目的地が設定される。
「嘘だろ!」
『光に向かって跳べ』
それっきり端末にメッセージは届かなくなった。
「見つけたぞ! 動くな! 止まれ!」
正面にポリ公。後ろにも多分いる。
俺は止まることなく加速する。
ポリ公は慌てて腰から銃を抜いた。
「おせぇよ」
助走は三歩。
俺は発砲される前に警官の横にあった木箱を飛び越えた。




