第3話 書類一枚でスタンピードを止める
朝から村が騒がしかった。
「山の方が、変だ」
「鳴き声が多い」
「家畜が落ち着かない」
俺は宿の二階から外を見下ろし、嫌な予感しかしなかった。
前世の記憶が告げている。
こういうのは、だいたい大事になる。
案の定、エルヴィンが現れた。
いつもの灰色の上着、いつもの冷静な顔。
ただし、歩く速度がほんの少しだけ早い。
「状況を説明します」
「もう嫌な予感しかしない」
「正解です」
即答だった。
スタンピード予兆
村の外れ。
小高い丘の上から、山の方を見渡す。
遠くで、土煙が上がっていた。
点ではない。線だ。
森の縁が、動いている。
「……あれ、全部魔物?」
「はい。中型以下が中心。数は――」
エルヴィンは、ためらいなく言った。
「正確には不要です。多い、で十分です」
「止められるのか?」
俺は、無意識に拳を握っていた。
前世なら、緊急出動。
この世界なら――斬る? 焼く? 殴る?
エルヴィンは、首を横に振った。
「止めません」
「は?」
「通します」
意味が分からない。
斬らない理由
「スタンピードは、攻撃ではありません」
彼は地面にしゃがみ、棒で簡単な図を描いた。
「圧力です。押されて、流れているだけ」
山側に点。村側に点。
「ここを塞ぐと、溢れます。溢れた先が、村です」
嫌な図だ。
「だから――」
エルヴィンは、図の横に細い線を引いた。
「逃げ道を作る」
「そんなの、今から?」
「今からです」
彼は鞄を開き、一枚の紙を取り出した。
ただの書類。
判子を押す場所が三つある。
「これで?」
「これで」
書類の正体
書類の表題を読んで、俺は言葉を失った。
一時的通行制限および
臨時開放路指定通知
「……戦闘計画じゃないのか?」
「いいえ。交通整理です」
エルヴィンは淡々と続ける。
「この谷の旧道を、今日だけ開放します。人の立ち入りは全面禁止。
家畜も移動済み」
「魔物は?」
「勝手に通ります」
……いやいや。
「それで、村は?」
「完全に無関係になります」
国家公務員チート発動
役人が動き出した。
村の入口に縄
見張りの配置
鐘を鳴らす
家畜を移動
誰も叫ばない。
誰も剣を抜かない。
俺だけが、焦っている。
「間に合うのか!?」
「間に合います」
エルヴィンは、俺に判子を渡した。
「あなたが押してください」
「え?」
「臨時補佐の権限です」
手が震えた。
剣より重い。
俺は、判子を押した。
――その瞬間。
鐘が鳴った。
谷の方で、柵が外される音。
人の気配が、完全に消える。
通過
土煙が、近づく。
振動が、足に伝わる。
だが――
魔物の群れは、村を見なかった。
視線も向けず、叫びも上げず、ただ、谷へ流れ込んでいく。
数百。いや、千近い。
それでも、村は無傷。
俺は、呆然と立ち尽くした。
「……終わり?」
「はい」
「一匹も倒してないぞ」
「倒す必要がありませんでした」
仕事の重さ
夕方。
静かになった村で、俺はエルヴィンに聞いた。
「もし、俺が最初に斬ってたら?」
彼は、はっきり言った。
「あなたは英雄になります。
そして――」
少しだけ、声が低くなる。
「来年、この村は消えます」
背筋が寒くなった。
「英雄は、問題を解決するが、構造を残す」
「国家公務員は?」
「問題を残して、構造を変えます」
この国での“無双”
その夜、俺は気づいた。
剣を振るわなくても
魔法を使わなくても
誰かを倒さなくても
世界は、ちゃんと守れる。
しかも――
その方が、ずっと強い。
エルヴィンが言った。
「これが、この国で一番強い戦い方です」
俺は、乾いた笑いを漏らした。
「……魔物より、人の動線の方が手強いな」
「ええ。ですが」
彼は、書類の束を差し出す。
「慣れれば、無双できます」
剣を持たず、
血も流さず、
書類一枚で、千を退ける。
どうやら俺は――
本当に、とんでもない職に就いてしまったらしい。




