魔物を倒したら怒られました
目を覚ました瞬間、俺は草の匂いを嗅いだ。
汗と土と、少しだけ甘い花の匂い。空は異様に青く、雲がやたらゆっくり流れている。
「……どこだ、ここ」
体を起こすと、手足が軽い。軽すぎる。筋肉が新品みたいに反応する。視界も妙にクリアで、遠くの森の縁までくっきり見えた。
そこまで確認して、ようやく思い出す。
昨日――いや、前世の昨日だ。終電で帰って、風呂も入らず倒れた。ブラック気味の職場で三ヶ月連続の残業百時間。最後に見たのは、机の端に置いた「業務改善提案書(却下)」の赤字だった。
そして今は、草原。
「……転生ってやつか?」
試しに立ち上がる。ふらつかない。腹も減ってない。
喉も乾いてない。生き物として、完璧に調整された感じがする。
俺はあたりを見回し――森の方から、甲高い鳴き声がした。
ギャッ、ギャッ、と。
続いて、枝を折る音。ぬるい風に乗って、獣臭さと鉄の匂いが混じる。
出たな。テンプレ。
森から現れたのは、緑色の小柄な人型だった。
耳は尖り、目は黄色い。手には錆びた短剣。腰に縄、背中にぼろい袋。
ゴブリン。異世界の定番。だが――
「ちっさ」
思わず口に出た。身長は俺の胸くらい。動きも遅い。
目が合うと、そいつは一瞬びくっとして、それでも威嚇のつもりか、ギャッと叫んで突っ込んできた。
俺は、反射で手を伸ばした。
掴んだのは、ゴブリンの額。
――軽い。
力を入れる前に、相手が止まった。
次の瞬間、ゴブリンは「ぎゅ」と潰れたような声を出して、ぐったりした。短剣が手から落ちる。
「……え?」
俺は慌てて手を放した。倒れたゴブリンは動かない。
死んだ。たぶん。額に触れただけで。
俺は自分の手を見た。ごく普通の手だ。爪もあるし、指も五本。なのに、さっきの感触は……紙コップを握りつぶすより簡単だった。
「俺、強い?」
確認するために、近くの石を持ち上げる。片手で持てる。次はもっと大きい石。持てる。
重いはずの丸太を引きずる。引きずれた。
腹の底に、笑いがこみあげる。
「勝ち確じゃん」
剣も魔法も知らないのに、これだ。
魔物が弱い世界なのか、俺が強い世界なのかは知らない。でも少なくとも、初手ゴブリンで詰む展開ではない。
そのとき、遠くから人の声が聞こえた。
「――誰か! 畑の方だ!」
「子どもが――!」
声は焦っている。村がある。人間がいる。テンプレの次のイベントだ。
俺は走り出した。足が軽い。草を踏む音が遠い。視界の端が流れる。
小さな村だった。木の柵。畑。井戸。
村外れの畑で、二匹のゴブリンが追いかけっこみたいに走っていた。その先に、男の子が転んでいる。
大人が数人、鍬や棒を持っているが、距離を詰められない。怖いのだ。分かる。武器の差もある。
「どいて!」
俺の声に大人が振り向く。
次の瞬間、俺はゴブリンの背中を蹴っていた。
――いや、蹴ったつもりだった。
実際は、軽く触れただけでゴブリンが前につんのめり、顔から畑に突き刺さった。土が跳ねる。動かない。
残りの一匹が逃げようとした。
俺は畑の畝を飛び越え、首根っこを掴んで持ち上げる。
「うわ、軽……」
暴れる。爪が空を切る。短剣が振られる。だが、当たる気がしない。
俺は、何となく地面に「置いた」。
置いただけで、地面が少し沈んで、ゴブリンが「ぐえ」と息を吐いた。……動かない。
静寂。
村人たちが固まっている。
男の子が、恐る恐る起き上がって、俺を見た。
「……おにいちゃん、つよい」
「いや、たまたま……」
口では謙遜したが、内心は違う。
強い。強すぎる。これが俺の異世界ライフか。俺TUEEE、始まったな――
「助かった、旅の人! 神さまのお使いか!」
畑の持ち主らしい老人が、涙目で手を握ろうとした。
他の大人もわらわら寄ってくる。
「礼をさせてくれ! 酒だ! 肉だ!」
「この辺りは最近、ゴブリンが――」
「役所が来るまで待てと言われても、子どもが――」
役所。
俺はその単語に、なぜか嫌な予感がした。前世のトラウマがうずく。役所と聞いて「安心」より先に「手続き」を思い出すあたり、社畜根性は死んでいなかった。
とはいえ、村人たちは救われた顔をしている。
俺は、ここで感謝されて、冒険者登録して、ついでにチート能力で成り上がって――
そのとき、村の入口の方から、馬車の音がした。
木の車輪が地面を叩く音。鈴の音。
続いて、落ち着いた声が響く。
「――現場はここですか」
振り向くと、柵の門から三人が入ってきた。
全員、灰色の上着に、胸元に小さな金属の札。腰には短い棒と、革の鞄。武器ではない。役人だ。
一番前の男は、若くも老けてもいない。髪はきっちり結ばれ、目は冷静で、手に板挟みの書類を持っている。
村人が駆け寄り、口々に説明した。
「来てくれたか! ゴブリンが出て――」
「この旅の方が倒してくれて――」
男は頷き、畑に刺さったゴブリンと、沈んだゴブリンを見た。
眉が、ほんの少しだけ動く。怒りではない。困惑でもない。
計算している顔だ。
彼は俺に向き直り、礼ではなく、確認から入った。
「あなたが処理しましたか」
「処理……え、倒しました。子どもが危なかったんで」
「お名前は」
「……え、名前? 俺は……」
咄嗟に名乗りかけて、止まる。異世界で本名を名乗るのは危ない、とどこかで聞いた気がする。
俺が言い淀むと、男は溜息をついた。
そして、信じられないことを言った。
「勝手に魔物を倒さないでください」
「は?」
村人たちが、え、と声を漏らす。
俺は笑い返そうとして、口が開いたまま固まった。
「……いや、今の見ました? 子どもが襲われてたんですよ? 倒すでしょ普通」
男は、俺を見る目を変えない。
責める目ではない。憎む目でもない。
ただ、淡々と「規定外」を目の前にした目だ。
「規定では、当該地域は“夜間通行制限”と“畑周辺柵補修”で対応する予定でした。処理――討伐は、必要があれば監督署が行います」
「今、必要だったじゃん!」
「必要だったのは、“子どもが畑に一人で行かない動線”の確保です」
俺は言葉を失った。
いや、言ってることは分かる。分かるが、今それ言う?
男は続ける。
「あなたが討伐したことで、村は『討伐で解決する』と学習します。すると次から、無理に立ち向かう者が出ます。怪我が増えます。ついでに――」
彼は手元の板挟みを軽く叩いた。
「“当該地点の危険要因が自主的に解消された”記録になります。すると来年度の補修計画の優先順位が下がります。柵補修が遅れます。動線改善が後ろ倒しになります。結果、来年は別の場所で事故が起きます」
……は?
村人たちの顔から、さっきまでの熱がすうっと引いていく。
老人が困ったように笑って、俺を見る。
「ええと……旅の人、役所の言うことは、まあ、そういうもんで……」
俺は、足元のゴブリンを見た。
倒した。救った。間違いなく。
なのに、世界の側が「それは正解ではない」と言っている。
胸の奥が、ぞわっとした。
この感覚は知っている。前世で、必死に改善案を出して、却下されたときの……あれだ。
男は最後に、静かに言った。
「あなたは強い。だからこそ、ここでは危険です。
――次は、必ず先に監督署へ連絡してください」
俺は、頭の中で何かが音を立てて崩れるのを感じた。
「……魔物倒して怒られる国とか、聞いてないんだが」
役人は一瞬だけ、ほんの少しだけ表情を曇らせた。
そして、決定的な一言を落とす。
「この国で一番強いのは、あなたの腕力ではありません。
“手続き”です」
俺は笑うしかなかった。
異世界でまで、書類に殴られるのかよ。
――そして、その瞬間から。
俺の“無双”は、剣ではなく紙の上で始まった。




