2-1
朝の爽やかな空気が辺りを包み込んでいる。
「重……」
キルシュはため息を零した。
あれからもう1ヶ月経っている。気のよい宿屋の店主に働かせてもらえることになり、裏方で仕事をしていた。今はその真っ最中だ。
ずっしりと重たい洗い立てのシーツを籠に入れて、物干し竿にかけていく。簡単な作業なのだが、量が量なのでさすがに疲れたキルシュはその場に座り込んだ。ベランダからは公園が一望できる。今日も人がいっぱいだ。……この宿屋の客は少ないが。
今の生活はとても充実していた。休み時間が訪れれば城下の散策や、近くの図書館に篭って本ばかり読んでいる。それら全て、新鮮だった。横を通り過ぎていく人々や、新たに次々と入り込んでいく知識。
なにより今の生活に順応してきている自分自身にしあわせを感じていた。ときどき、故郷を思い出したりもするが、それを除けば順調に外の生活をしていた。尤も、給料はもらっていない。収入の少ない店なので、働くというよりも居候、もしくは養子にでもなった気分だ。
ここの主人は優しい。その妻も、だ。この宿屋は家族経営で、息子は出稼ぎに行っているそうだ。よく1人息子なのに、と主人が愚痴を零している。
「キルシュ、それ終わったら午前の仕事は終わりね!休んでいいよ」
下の階から主人の元気のいい声が聞こえてきた。キルシュも聞こえるように大きな声で返事をする。これはもう日課のようなものだった。キルシュの仕事は掃除、ベッドメイク、食事の配膳だ。午前の仕事が終わって、昼になるまでにはまた戻らなくてはならない。
洗濯物を干し終わったキルシュは早速外に出た。
「今日は散策でもするかな」
どこに行ってなかったっけ、と思考しながら大通りを歩いていく。もちろん宿屋で働く前に茶色に染めた。明るめの茶で、日に透かすとオレンジになる色も、割と気に入っていた。この国はどうやら本当に種族差別が激しいらしく、住む人全てが人間で構成されている。さすがにその中で金髪で過ごす無謀さはない。
それでも少し残念に思うのは、一ヶ月前に会ったドワーフに言われた台詞にある。
『きれいな色だね』
実際キルシュも金髪の色は気に入っていたので、あのときの言葉は嬉しいものがあった。だけどどうにも、世間様には逆らえない。あの色を知っていてもいいのは、エヴァンのヒトだけでいいのだ。
あそこにはドワーフも、人間も協力して、同じもののように過ごしていた。都会と田舎の違いに、最初は戸惑ったが、自慢の適応力でカバーできた。宿屋の主人は髪の色はどうでもいいと言ってくれたが、この国の人々全てが主人のように優しくはない。
日焼けするのは嫌いなので、帽子を深く被って歩いて行く。
「あれ……?」
これは偶然、といってもいいのだろうか。それとも必然だったのだろうか。
小さな路地に、見たことのあるちいさな影が入っていった。
あれは間違いなくアズだ。
いつかはレンとアズにお礼がしたいと思っていたので、走って追いかけるために、キルシュも同じように小さな路地を曲がった。
「?」
キルシュは首を傾げた。
そこには誰もいなかった。彼女も走って行ってしまったのだろうか。残念に思いながら、行き先もわからないのに無謀に追いかけるのは迷子になるので追いかけるのはやめた。残念で仕方がない。
「え、」
ふと後ろに気配を感じた。何か直感的に体を横に捻ると、真横をスローイングナイフが通っていった。帽子が地面に落ちる。まるで風が吼えるような音が耳元で鳴った。一瞬で汗が噴き出る。
一体何事だろうとついていかない頭をフル稼働させて、それを投げてきた相手を見た。
――――呆気に取られた。
それは向こうも同じようで、小さなドワーフが丸い目をさらに丸くしてこちらを見ていた。ナイフを投げた姿勢のまま、だ。
「え、君、あのときの」
「あはは、お久しぶりです……」
なんとか、その言葉を喉から搾り出した。
路地は静かだった。大通りもそろそろ賑やかになってきた。薄暗い路地は、まだひんやりとしていて寒く感じる。
「いやー、ごめんね?何かつけられてる気配したからさ、警戒してたんだ」
あっけらかんと言うアズの顔は笑顔そのものだ。短い髪を掻きながら、投げて壁に刺さったナイフを手に取り腰のベルトに下げてある鞘に入れていた。キルシュは返答に困り、苦笑で返した。
「別につけてなんかなかったんですけど」
さっき見つけて追ってきたんだと説明すると、アズは考えるように首を傾げる。じとりと疑わしそうに見つめてくるアズに、慌てて首を振った。
「ホントですって」
その様子にアズは表情を崩して、人懐っこい笑みを浮かべ「嘘だよ」と言うと、どこかに入ろうと言ってキルシュの手をひっぱった。まめだらけの小さな手に引かれて路地から大通りに戻ると、変わらない賑やかさが2人を出迎えた。
「おかしいな、だいぶ長い間気配がしていたんだけど。ま、いいや。もういないみたいだし……後でレンさんに報告するか」
アズは小さな声で呟く。キルシュは聞こえていたが、あえて聞かないことにした。誰かに追われているのか、と訊きたいところだったが、そこまで追及できるような仲じゃないとキルシュ自身わかっていたので、黙ってついて行く。
「ところでさ、名前なんていうんだっけ?」
キルシュ、と言いそうになったところを、レンにはリシェルと言ってあるんだったと思い出して「リシェルです」と答えた。自己嫌悪。めんどくさい、うっかりでも他人の名前を使うんじゃなかった。
「あ、この前の迷惑も兼ねておごります」
「いいの?ありがと。でもお金大丈夫?あたしちゃんと持ってるよ」
「それじゃ私の気持ちがおさまらないので。レンさんもどうでしょうか」
実のところレンに一番感謝しているのだ。だがアズは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「レンさん?ああ、あの人は今仕事中だから、ちょっと出てこれないな。おみやげ買ってくれる?」
「はい」
年下におごらせるのはちょっと気が引けるな、と言うアズに誘われて、小さな店に入った。パン屋のようだ。香ばしい香りがしてくる。甘い匂いもしてくるので、ケーキも焼いているのだろうか。
「ここのパンとケーキ、おいしいんだ。いつも買いに来るの。奥で食べられるから、ちょっと話そうよ」
「もちろん」
アズが選んだのは気を使ってのことか、結局安いケーキだった。レンへのお持ち帰りのパンを選んだのも彼女で、キルシュが高くても買えると言ったのも聞かず安いものばかりを選っていた。
「じゃ、そろそろ行こうかな。これから仕事があるの」
「……何の仕事をされているんでしたっけ」
賑やかな大通りを避けるように、2人は路地を歩いている。キルシュは純粋な疑問を投げかけた。正しくは、純粋な疑問を装って探りをかけた。おそらく軍人か何かだろうが、追われているヒトと一緒に行動するのは少し怖かった。
この国の軍人のひとりで、犯罪者の取り締まりを担当している、と思えばそれで終わりだが、この国で、はたして忌み嫌われる対象である異種、ドワーフという存在が軍に加わることができるだろうか。
隠しているにしても、この外見ではまず無理だろう。
「リシェルちゃんは、どう思う?」
さすがは精神年齢が高いだけのことはある、とキルシュは感心した。
アズがパンの詰められた紙袋を抱きしめながら、キルシュを見上げる。その目は、聞いても教えてくれないだろうことは明白な、その強烈な印象を与える強い視線をしていた。
「さあ、どうでしょう」
曖昧にぼかして、キルシュはアズから視線を逸らした。
「……リシェルちゃんは、賢いんだろうね。そんな目をしてるから、きっと」
きっと、の次をアズは言わなかった。ただ、ふるふると細い首を振って、苦笑した。その次が気になったが、なんとなく言いたいことはわかった気がしたのでキルシュはあえて聞かなかった。
「レンさんに似てるわ」
「私がですか?」
「うん、目がね……うふふ、懐かしいな」
何を懐かしんでいるのかは知らないが、アズが嬉しそうに言っているので、水を差すようなマネはしたくなかった。
じゃあ、とアズはキルシュから離れようとした、その時だった。
アズが目を見開き、その小さな腕では到底出せないだろう、というものすごい力でキルシュの肩を引いた。キルシュは何が何だかわからなくて、アズの腕に引かれるまま体のバランスを崩して地面に尻餅をついた。
そこでやっと気がついた。今さっきまで、キルシュが立っていたところに細い銀の矢が刺さっていた。
「リシェルちゃん、ごめん。巻き込んじゃった」
巻き込まれた、誰に、何を。今だ混乱から抜けきれないキルシュは、アズの目を見た。
アズが睨む先には、体全体、外套のあるローブを羽織った女性がいた。短く切った金髪に、切れ長の目は空を映したような青色をしている。そして見とれるほど美しい造りの顔。尖った耳には、銀色の耳飾りが光っている。手には弓、腰には細い剣が吊るしてある。まさしくその姿は、
「エルフ……」
「リシェルちゃん、できれば、逃げて」
アズはキルシュを庇うように前へ出た。両手にナイフを持ち、目の前の敵を見据えている。――――今この場に流れている空気を殺気というのだろうか、背筋がぞくりとするような冷たい沈黙。
逃げなければ、とキルシュは踵を返した。このまま、この場にいてもアズの邪魔になるだけだろうと判断してのことだ。自分は助けを呼びに行くことぐらいしかできない。だが、それはできなかった。
女のエルフの仲間だろうか、男のエルフがアズとキルシュを挟み撃ちにするように狭い路地に立っていた。キルシュはどうしていいのかわからなかった。こんなことはダイトにも教えてもらっていない。逃げなければ、と思う反面逃げられないと分かっていたし、戦わなければ、と思う反面負けると分かっていた。恐怖が頭を支配していて、体がうまく動いてくれない。
どうすれば、どうすれば、
つ、と背中に嫌な汗が伝った。
迷っていたのがいけなかったのだろうか。
「リシェルっ!」
気がついたときには遅かった。
アズのほうを見れば、鮮やかな赤が弾けるように宙に散る。細い肩に、無骨な銀の矢が刺さり貫いてしまっていた。それら全てが、スローモーションに見えた。目を見開いて、その光景を呆然と見ていた。
アズの体がゆっくりと傾いでいく。その顔は苦痛に歪められていて、自分の所為で彼女が傷ついたのだ、と認識するまで時間がかかった。
「アズさん!」
自分よりも一回りも二回りも小さな体が、地面に叩きつけられるようにして倒れた音が小さな路地に不思議なほどよく響いた。
自分が、情けなくなった。足手まといになった挙句、怪我まで負わしてしまうなんて。ましてやドワーフといえど人間からしてみれば少女の体。その体から、真っ赤な鮮血が留めることを知らないように溢れていく。じわじわと、緩慢なスピードで石造りの地面を侵食していく。
何のために自分は武術を学んでいたんだろう。「アズさん、アズさん……!」
赤、赤、赤、
息を、することも忘れた。
ただ、目を見開きその赤色を眺めていた。
この色、見たことはないか?
と心の中の誰かが言う。
赤色が、記憶の底から漏れ出て吐き気が襲った。赤、赤、何度も頭の中で繰り返される言葉。のどが詰まったように、上手く呼吸ができなくなる。
ふとアズから目を離し、男のエルフを映す。彼の表情は勝ちに酔いしれるような歪な笑みを浮かべていた。そして重そうな真剣を、アズとキルシュに向かって振りおろす――――、
自分の中の、なにかが、なにかが体のなかで弾けた気がした。
「 」
キルシュは何事かを叫んだ気がする。自分で何を叫んだのかもわからないが、ただそれは、薄氷のような、稲妻のような、鋭利で攻撃的な声だった。