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そこは戦場だった。
1050年。
帝国の王が、突如現れるようになった魔導士にそそのかされ、世界を手に入れようと連合国に宣戦布告をした。魔導士の名は、ゼギルという。王は彼を妄信し、すべての発言を許した。それを機に、惨劇は始まった。帝国は連合国と同じ兵力をそろえるため、数々の国を掌握した。そして1年もたたずに全面戦争となる。
人々が殺しあったその場所は、勝敗が決まり今は死体だけがごろごろと折り重なるように倒れている。地面に赤い血溜まりを作り、時間が経つにつれて腐肉臭が漂い始めていた。死体は腕が千切れていたり、首が飛ばされていたりしている。
鉄錆び臭い空気は重く、空は今にも泣き出しそうな曇天。
地面に突き刺された血塗れた剣や武器。
壊れた防具の金属が辺りに散らばっている。
そんな中、ただ1人まだ命があるものがいた。
20代にも満たない、人手が足りなくて駆り出された若き少年兵。発出陣で不慣れな場所でも生き残れたのは幸か不幸か。否、不幸だろう。
何故なら彼はもう虫の息で、霞んだ視界にはもうすでに仲間の姿もぼんやりとしか映らないのだ。肩のあてが壊され、そこから現在も赤い液体が溢れ出て地面を侵食していく。手に持っていた己の武器の弓も折れていて、それを握りしめ杖にすることもできない。体を動かすのも、途切れ途切れに息を吐くのも、全て億劫感じていた。
戦争に行ったのだ。自分たちは駒にすぎない。助けが来るわけもなく、少年は生きる事を諦めていた。痛みを堪えて、早く命が尽きればいいのにと、方頬を地面に押しつけて霞がかった思考で考える。それだけが少年のできる唯一だった。
大量の血によって毛先が黒ずみ始めたプラチナブロンドの髪が、一瞬風で舞い上がった。
「あなた、生きたい?」
どこからか、声が聞こえた。鈴の鳴るような、少女の声。細く、それでも強いアルトの声は慈愛に満ちていて、懐かしい母の声にも似ていた。かすかにしか音の聞こえなくなった耳をそばだてて、それを聞こうとするが心のどこかで幻聴なのだろうかと思っていた。だがその考えはすぐに否定された。直後、もう一度少女の声が聞こえたからだ。
「聞こえない?目が見えない?」
冷やかすようでも、馬鹿にするようでも、哀れむようでもない、ただ心配を表した声音にひどく安堵し、それに頷こうと試みたが、体が動く事はなかった。それを無言の肯定と取ったのか、少女が自分に近づく気配がした。
瞬間、一気に視界と聴覚がよくなり少年は驚愕した。見えるようになった目の前に、自分を見下ろすようにしゃがみこむ柔和な笑みを浮かべた15歳程の少女がいた。彼女の肌は珍しいもので、浅黒く、漆黒の双眼に墨を塗ったような漆黒。纏っている服の、この場には不似合いな少しレースのついた大人びた印象のワンピースも黒を基調としたものだった。
「――――生きたい?」
「いき、たい」
少年は半ば直感的に答えていた。
黒の少女は、嬉しそうに微笑んだ。そして両腕を広げた。
「わたしの名前はライヴィアよ。あなたは?」
「…………忘れたよ。そんなの」
その言葉に、ライヴィアと名乗った少女は悲しそうに瞳を伏せた。
「そう。じゃあ……わたしが貴方に名前をあげるわ」
「名前……」
呟けば、少女は頷く。
「貴方の居場所をあげる。わたしと、行きましょう」
「僕は、もう、死ぬんだ、よ」
「だから、魂だけを生かすわ。今の貴方の体はもう壊れてしまっているの。そしてわたしが居るところに人間は行けない。ねえ、永遠を手に入れてみない?」
少女は首を傾げた。それに少年は力なく笑う。
「いいね、それ」
掠れた声を出す少年に、ライヴィアは楽しそうに言う。少女は少年の血塗れた額に掌を当てた。すると、白い光が少年を包み込み、少年はその戦場から跡形もなく、元からそこにいなかったかのように消えうせた。残るのは、白い発光虫のように宙をただよう光だけ。
「名前を忘れたのならば、あなたはこれからウル、よ」
黒色の少女は、誰に言うまでもなく呟いた。それは彼に届いたのか、届いていないのか。風が吹いて、光はどこかへ消え、腐敗臭を運んできた。少女は無言で立ち上がる。スカートがふわりと揺れた。鼻を突く異臭に、わずかに顔を歪めるがそれは嫌悪の表情ではない。哀しみを表す表情。ただそれだけだった。
「おやおや、優しい事だ。あなたはいつもそうだよ。誰にだって愛情を注ぐ。そんなこと言っても、単に肉の壁になれってことだとボクは思うけどねえ?」
「だまりなさい、ゼギル」
冷たくぴしゃりと放った言葉は、いつのまにか宙に浮いている少年に向けられていた。模様のない黒基調の道化服、手に持つのは小さな装飾の素晴らしい杖。顔に貼り付けられている仮面は気味の悪いとしか言いようがない顔をしている。よって少年の顔は見えない。光の加減によって銀色にも見える淡い青の髪が、奇術師のような、道化師のような格好に不似合いだった。
「随分、有名になったものね。魔導士ゼギル」
「あー怖い、怖い」
眉を顰めたライヴィアに、ゼギルと呼ばれた少年は、くすくす、と笑い声を上げて肩をすくめた。ゼギルは急に重力を覚えたように、軽やかに地面に降り立った。
「ねー、あの子を探しているんでしょ?」
「その通りよ」
「此処には居ないよ。この世界の時代にはどこにもね」
「知っているわ。でもあの子はいつか、何十年何百年も後でも、必ずわたしの元へ来る。貴方が知らないはずはないわ」
わかるのよ。あの子とわたしは一心同体だから、と少女は口を弧に描く。
そしてゼギルの方に体を向ける。
「だからわたしは舞台を用意するのよ」
あの子のために。
「それが君の願い?」
面白おかしそうにゼギルは含み笑いのようなものを零した。
ライヴィアはそれに嘲笑を返す。
「そうよ、そしてそれは世界そのものの願い。あなたにならこの気持ち、理解できるんじゃない?混沌そのもの……あなたは願いをかなえることに忠実だものね。それが悪いことだって、良い事だって関係ないのでしょう」
「……ふ、」
少年は、猫のような金の目を細めた。
「ああ、わかるよ。その気持ちが、よぅく……よぅく、ね」
ぽつぽつと、雨が降り始めた。
頬に粒が落ち、涙のように伝って流れた。
「それでもわたしたちは協力関係じゃないことが不思議なものよ」
「まあね。思想は同じでも、自分がやるべきことをやりたいから。君のやることも面白そうだけどさ、ボクには役目があるからね。悪いけど」
「ふふ、あなたには期待しないわよ。道化師さん。今は魔導士ね」
いつ嘘を吐かれるかわかったものじゃないもの。
少女が困ったような顔をすれば、少年は「まったくその通りだ」と喉で笑った。そして彼は杖を肩に立てかけるようにもって、また宙にとんだ。重力など関係のないように、ふわふわと浮く姿はまるで空気のような。
大きな風が吹く。
次の瞬間には、少年も少女もその場から消えうせていた。