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「ごめんね」
そう思うならこんなことはして欲しくない、と言い返したかったが、キルシュはこの状況でそれを言えるほど愚かではなかった。喉元に突きつけられたナイフを人睨み、背後から腕を回して抱きしめるような格好で申し訳なさそうに謝る少年に対してため息を吐きたかった。
顔は見ていないが、背丈はキルシュよりも少し小さい。そんなに歳も変わらないだろうが、雰囲気などからもっと幼い印象を受ける。果たしてどうしてこんなことになったのか、キルシュは必死に思考していた。
音もなかったのだ。
自分に与えられた部屋で本を読んでいただけだった。それなのに突然気配が背後に現れたと思ったら、この状況。いったい自分の何が悪いのだろうかと本気で悩みたくなった。
本当にツイてない。
いつも一緒にいるアリスは今日マイセルの偵察に行っているし、リドルは出かけているらしく、隣の部屋に気配はない。つまり、己の身を助けられるのは、己しかいないということ。
尤も、この後ろに捻りこまれている腕があるかぎり無理な話なのだが。
魔術を紡ぐにも、そんな余裕はない。発動しようものなら、このナイフは躊躇わず喉を貫くだろう。
「僕だって、こんなことしたくないんだ。でもゴメンネ、キルちゃん。僕だって、大事な人がいるんだ。その人のためなら、どんなに手を汚してもいい。それぐらい大事な人。誰にでもいるでしょ?」
「……名前」
「ああ、なんで名前を知ってるかって?君は有名だよ、この組織の中でね。ちょっと小細工して、ここの組織の人間に化けてたんだ」
自慢げに言う少年は、おそらく笑っているだろう。その振動で、突きつけられたナイフの先で、喉の皮膚がわずかに切れてうっすらと血がにじんだ。紙で指を切ったときのような、ちくちくする不快な痛みにキルシュは顔をしかめた。
「あなた、敵国の人?」
「余裕あるね」
「殺すなら背後に現れた時点で殺している。でしょ」
「それもそうだ、君面白いね、女の子なのに」と少年は頷いた。
「じゃあちょっとお話しよう。この姿勢で悪いけどね」
それでも喉を掻っ切られるよりマシだ、とキルシュは内心冷や汗を流しながら目を瞑って動悸を抑えようとした。
「僕はウル。どう呼んでくれても構わないよ。親愛を込めてうーちゃんとかさ」
「……ウル、神話の弓闘士の名前だね」
「うんうん、その通り。君は変な名前だね」
おどけたように話す口ぶりは、友好そのもの。きっと顔には笑みが浮かんでいるだろう。でもナイフの切っ先に迷いはない。どこか慣れた手つきに背筋に悪寒が走る。リドルのような、鋭利な意思と確固たる決意の込められた刃の揺るぎなさと違う、何も感じていないからこその刃に嫌悪感が隠せない。
「僕のターゲットは君じゃないんだな。君の上司さ」
「リドルのこと?」
「リドル、ね。そう、その人にちょぉっと用があって、キルちゃんに人質になって欲しいんだ。あの人強いからさ、こういうことしないと僕が殺されちゃうだろ?というか、何で私なの?とかそういうの、ないの?」
「そんなことわかりきってる。私がこの組織で一番、弱いから」
ぼそ、と相手を刺激しないように言ったキルシュに、ウルは感心したように「へえ」と相槌を打った。
「よくわかっているんだね。己の力を過信している馬鹿よりずっと好ましいよ。ま、それもあるんだけど、ホラ、やっぱり男にくっついていてもむさいだけだし。キルちゃんは自分を過小評価しすぎだねえ。君、体力は最下位だけど、魔力はリドルと同じくらいだ。誇っていい」
まるで慰めるかのような言葉にキルシュは眉をひそめた。一体なにが望みなのかわからなくなって、やがてそれを考えることを放棄した。まずは自分が殺されないよう、相手の意識を会話のほうへ流そうとしなければならない。
「もうすぐ戦う国の人?」
「ん?」
ウルは首をかしげた。それからしばらく考え込むように黙った。沈黙が痛く、耳鳴りがするのを防ごうとキルシュはつばを飲み込んだ。
「まあ、そんなもんかなぁ」
「へえ」
相槌を打ってから、キルシュははっとした。人の気配が近づいてくる。おそらくリドルだ。足音から伝わってくる警戒の音。ウルもそれに気づいたのかキルシュの腕をつかむ手に力を込めた。ぎしり、と骨が悲鳴を上げるが、それでもなけなしのプライドから、キルシュは顔を歪めるだけに留めた。
「来たみたいだね。お話は終わりだ。キルちゃん、いきなり攻撃されないように悲鳴ぐらい上げてくれると嬉しいんだけど……無理だよね。これだけ腕捻っていてもその顔だけだもんね。じゃあ名前呼ぶぐらいして。喉掻っ切られたくなかったら、ね」
「!」
ぐ、とナイフが少しでも動けば切れそうなほど近く、皮膚に押し付けられた。今は言われたことをやることが最善。魔術に関してはともかく、力のないキルシュには仕方のないことだった。
「リドル!あなたのせいで喉掻っ切られそうなんだけど!」
「あはは、上出来、上出来」
張り上げた声に、ウルはのんびりと笑った。
助けてとは言えない、言いたくない。それなのに助けてほしいと懇願している自分自身に舌打ちする。自分はなんて不甲斐ないのだろう、と。こんなことになるのならば、一週間前に守護専門の魔術師に教えてもらった結界でも張っておけばよかった。
「女の子が舌打ちするなんて、可愛くないな」
「じゃあその女の子が舌打ちする原因を作らないでくれる?」
「勝気だね。人質じゃなかったら首飛ばしてる」
さらりと言われた一言が妙に現実味を帯びていて、この状況だからこそ文句を言ったんだ、という喉まで出てきかけた挑発的な言葉を無理やり飲み込んだ。ややあって、キルシュの部屋の扉が開かれた。
そこにいたのはリドル一人。
無表情で、青色の目がさらに冷ややかに感じる。その視線はキルシュを通し、ウルを射抜いている。リドルは会議から戻ったばかりらしく、当然いつも背負っている愛用の剣は持っていない。その代わり、護身用に持っていたのだろうか、刃渡り30センチほどの黒塗りのナイフを右手に。
「リドル=バレンシア。ローランドを上手く協力関係に置いている国家反乱組織アルジュナのリーダー。魔術をエルフ以上に操ることができ、戦闘能力も高い。完璧すぎて、人形みたいだ。異質と言ったほうがいい?髪の色もそうだけど、他人とは違う何かを持っている」
説明文の朗読のように淡々と語られたリドルの詳細に、リドルは眉をしかめる。ウルの姿をまじまじと上からしたまで眺めて、顎に片手を添えた。ひどく落ち着いた声音で呟く。
「見たことない顔だな」
あまりに落ち着きすぎた声に、キルシュの緊張がわずかに緩んだ。その様子に気づいたウルが笑いながら言葉を紡ぐ。それにキルシュは苛立ち、本気で殺してやりたいと思いながら、第三者として彼らの会話に耳を傾ける。
「やっぱり他国のスパイの顔とかも知ってるんだね。はじめまして、僕はウル」
「……」
「今日はね、ちょっと質問しに来たんだ」
黙って冷ややかな眼差しをウルに送り続けているリドルに、ウルは肩をすくめた。揺れたナイフが危なっかしくて、キルシュは顔をゆがめた。
「何の質問だ」
素っ気無く聞くも、次の瞬間にはリドルの余裕は崩れ去った。
「クロムは元気?」
「――――」
ウルの一言。これで部屋の空気が一気に変わった。殺気立ったリドルを中心に、部屋の温度が何度か下がった気がする。殺意はまっすぐにウルに向けられて、それがないキルシュさえもその場にいたくないと思うほどの威圧感に肌が粟立った。
「お前は『あちら側』か」
「うん、そう」
リドルの威圧にも何も感じない素振りでウルは答える。若いなりをしているが、中々神経が図太いらしい、射抜くようなリドルの鋭い視線に「怖い顔しないでよ」と軽口をたたける余裕まである。
「そんなに、僕たちが嫌い?」
「愚問だ」
「じゃあ、クロムも?」
――――ガン!
鉄と鉄がぶつかり合ったような、鈍い音が静かな部屋に響いた。これにはキルシュも、ウルも息を呑んだ。2人の真横を通り抜けた、リドルが操ったであろう『風』が、真後ろの壁をたたいたのだ。
ちらり、とキルシュは視線をずらして壁を見る。そこには見事なまでに穴が開いている壁があった。随分と分厚い構造のはずなのに、綺麗に丸い穴が開いていた。穴の周りを中心に、ひびが壁全体を覆うように走っていた。
残った風が、キルシュたちの髪を揺らした。
純粋に、すごいと思った。
それに感動している暇もなく、ウルとリドルの刺々しく、冷たい会話が再開される。
「う、わ……まさかここまでとは思ってなかったかも。こんなに正確に操れるなんて」
ウルが小さく呟くのを聞き逃さなかった。
確かにここまで魔法の操縦がきけば、標的をウルだけにしぼることも可能なはず。
「馬鹿の一つ覚えみたいに何度も戯言を言うからだ。さて、本当の用件は何かな?」
「……ああ、待って。ちゃんと話すから見逃してよ」
「いくら死なないからって痛いのは嫌いだからさ」と続けたウルに、キルシュは眉を顰めた。『死なない』とはどういうことだ?他にも彼らの会話には疑問が多く、疎外感があってこの部屋から抜け出せれば良いのに、頭の片隅で考えた。
そんなことを考えていると、急に締め付けられていた腕が開放され、背中を思い切り押された。突然のことに対処できず、キルシュはたたらを踏んで倒れそうになったところをリドルの片腕に助けられた。
開放されたのだ、ということに気づくのに数秒かかった。気づいてからリドルから離れ、ウルを振り返る。思ったとおりに、彼はまだ少年だった。プラチナブロンドの短い髪で、額にはバンダナを巻いている。体はこげ茶色ロングコートですっぽり覆われているが、動きやすそうな素材のようだ。
眉がつりあがっていないたれ目気味の、まるで困ったような顔、という顔立ち。優しそうなので、童顔に見える、年齢は図れない。ただ普通じゃないのは、肌の色だろう。血の気を失ったような、土気色の肌は見るだけでぞっとする。
「リドル、主様からの伝言だよ。――――もうそろそろ潮時だよって」
紡いだ言葉に、リドルは訝しげに方眉を上げた。
ウルは微笑みながら続ける。
「うちの主様は自ら赴くから、兵が集まるのが早いんだ。君たちも早く、同属同士が討ちあってないで一つのところに集まったらどう?早死にしたくなければ、ね。まあアルジュナはしぶとそうだけど、僕らも強いよ。覚悟してね」
言い残して、少年は消えた。空間転移だろう。そのすぐ後に、跡形もなく消えたウルのいた場所の後ろ、リドルが大穴をあけた壁のすぐ横に紅い文字が浮かび上がった。壁からじわりと浮き出て、ゆっくりと文字を形成していく。
それは血のようだった。絵の具にも見えたが、鼻を突く生臭い臭いは血そのもの。どうもウルという少年は趣味が悪いらしい。嫌悪感がせりあがってきて胸焼けするようで、キルシュは右手で胸の辺りの服を、皺ができるぐらい強く握った。
胸糞悪い文字が完全に浮かび上がると、赤色は壁に張り付いたかのように動かなくなった。
楽しませてよ。
窓の外は、今にも雨が降り出しそうな曇天。
白い壁を伝って、浮き出した血が赤い跡を残して一筋垂れた。
遠くからあの大きな音はなんだったのかと、他の兵士たちが駆けつけてくる多くの足音が鼓膜に響いたが、心には留まらなかった。己の双眼は血文字から離れなくて、それが頭に強く焼きつくように記憶されて。
キルシュはなんとか自分を落ち着けるように深呼吸をしたが、うまくいかない。いつの間にか自分が呼吸すらままならないことに気づく。「あ、」「落ちつけ」低い声が耳元に落ちる。
ふと、リドルがキルシュの目を目隠しするように覆った。赤い文字は残像を残して視界から消えると、ふいに睡魔が襲った。ぐらりと傾いだ体をしっかりとリドルが抱きとめたのを最後に、意識は完全に黒く塗りつぶされた。