1201年 3-1
「やあ、リドル。元気?」
廃墟と化した古城に、まだ10代後半であろう少年と、20代前半に見える男がいた。少年は風化してしまった、倒れている柱の上に足を組んで座って、口には弧を描いている。ゆったりと流れる長い淡い水色の髪を弄びながら、猫のように金色をした切れ長の目を細め、男を映した。風が強く、2人がまとう漆黒のローブはばたばたと五月蝿い音を立てた。
「また来たのか。暇な奴だな」
男は感情の篭らない冷たく、その場の雰囲気を切り裂くような鋭利ささえ宿す声を少年に発した。短めに切ってあっても風で顔にかかってくる漆黒の髪を乱暴に払い、少年を半眼で睨む。右目の蒼色が、冷ややかに少年を射抜いた。
少年がこうして男の元にやってくるのは珍しいことではなかった。ただ無駄話を一方的にして、帰っていく不思議な少年。ただ、少年は未来を見据えているかのようなことを口にするのだ。そして男のことを、教えてもいないのに知っている。
「やだなぁ、そんな顔しないでよ。怖いじゃない」
「どの面さげてその台詞を言うんだ」
「ふふ、遠慮しないでよ」
「俺の話を聞いてないだろ」
ちき、と金属の重い音がしたと思うと、瞬間、少年の首筋には一本の細身の両刃長剣が添えられていた。もう少し力を入れれば、その首には赤い筋が入ることだろう。少年ははやし立てるように口笛を吹き、おどけたように肩をすくめて見せた。
「ねえリドル」
「お前に呼ばれる名などない」
少年の前に立ち、突きつけた剣は外さず、目を合わせる。
殺気の篭った視線に、少年は笑みを深めた。
「じゃあさ……こう呼べばいい?『混ざり物』ってさぁ?ねえ?」
くく、と喉で嘲笑する少年に、男は躊躇いなく突きつけた剣を横に薙ぎ払った。そのままなら血が飛び散り、首が取れるはずだった。それができなかったのは切られたはずの少年が、陽炎のように歪み、やがては姿を消したからだ。
「もう、やめてよ。ローブとれちゃったじゃない」
瞬間に男の背後に姿を現した少年は、模様のない黒基調の道化服を纏い、杖をくるくると回し手で弄びながらそこにいた。さながらその姿は舞台衣装のような黒装束。華美な色があるといえば手首や足首についている装飾ぐらい。銀にも見える水色の髪は、その闇色に浮いていた。
「……奇術師が」
「そう、ボクは奇術師。そして道化師。みんなそうやって呼ぶね。人を楽しませ、欺く者って。あながち間違いでもないけどね、ボクはそのために存在し、そのために消えるのさ。ねぇねぇ、そろそろ君も、運命に従ってみるのも一興じゃないかな。運命は変えられない。誰にも、そう、誰にもね。君にしたらさ、そのほうが苦しまずにすむんだよ。リドル」
囁くのは甘やかな誘惑。
自らが傷つかずにすむ選択。
「……よく喋る口だ」
「ふふ、そんな嫌な顔するなら、反論してみたらどう?まあ無理だろうけどね……君なんかじゃ、無理だ。過去に囚われたままの君には、ね」
男は無表情のまま、剣を背の鞘に戻した。
「もうすぐ、だよ」
物語を詠うように、少年は紡ぐ。気持ち悪いぐらいに優しく、男はますます顔を歪めた。
「世界の崩壊は起こる。なぜかって?それはボクが生まれたからさ。それは変えられない、事実。この世界ではね、『あの子』の願いを叶えてあげるんだ。それが世界から与えられた仕事だから」
「何を馬鹿なことを」
「強き願いを叶えることこそボクの宿命」
「随分と詩的だな、気色悪い」
「元よりその存在こそが、だよ」
わずかに寂しさが混ざった言葉に、男は言葉に詰まった。
少年は笑い声を零して、
「この空の向こう側に、もうひとつ世界があるんだ。そこにいるのはそれよりももっと超越した存在。ボクもね、元々はそこから生まれたんだ。君も、いずれは赴くことになるだろうさ。彼女と一緒にね」
「彼女だと?」
誰のことだ、という意味を含めて視線を送っても、少年は喋る事はなく、表情も変わらなかった。
ぽた、ぽた、と空から雫が落ち始める。それは銀の糸となって、地面を叩きつけ始め、水溜りに波紋を生む。古城に這う、ツタの葉に雫が伝い、落ちては伝い、落ちては伝う。暫く気分も重くなるような曇天を見上げる。
一度目を瞑り、ため息ともとれるよう吐息を吐く。
そしてまた男は少年の居た場所に視線を向けた。
しかしそこにはすでに、その存在は居なかった。
ただただそこに、雨が降るだけ。
しと、しと、しと、しと。
静寂が乱れ、音楽を生む。不快ではない音に、男は目を細めた。
「ゼギル、お前は本当にそれを望んでいるのか……?」
小さく紡いだ言葉を、誰も聞くものはいない。
キルシュは呆然と目の前の光景を見ていた。
壁にぬりたくられたいろんな色のついた線、線、線。それは円を描き、模様を描き、直線を描いて淡く光り輝いている。ただ、それは強い光ではない。つまり、研究段階ということか。キルシュは一人で納得した。
キルシュがアルジュナに来て、半年経った。地道に努力し、知識も身につけた。もちろんそれはアリスやリドル、シュトラムハゼルの協力あってこそだ。
リドルはどうやら、本当に自分を買っているらしい。ときどき顔を見せて、世界の現状をペラペラと喋って去っていく。この半年で、少し彼への恐怖心が薄れていた。
最近は隣国の宗教国家とローランドが対立しているそうだ。リドルが出向いて穏便に終わらそうと画策したが、根っから思想が違うため、数日にわたる話し合いの結果和平条約の書状に宗教国家――――マイセルの印は押されなかった。それは必然的に戦争を意味する。その話を思い出して、背筋が寒くなった。
アリスはマイセルに情報を集めに行っているらしい。諜報活動を行っている、といったところか。未だに彼女の姿は見ない、大丈夫なのだろうか。
「これは魔術式ですね」
「わかるようになったか、小娘」
「勉強してますから」
シュトラムハゼルは皮肉げに笑った。それをキルシュは真っ向から受け止めるしかなかった。「戦争、か……」彼は感慨深げに呟く。
「きみは、戦争に行くのが怖いかい」
「ええ、怖い。とても怖いです」
似たような質問を以前にもされたな、と思った。最近は、悪夢を見ない。
「何が怖い」
「私が死ぬことが。殺されることが。殺す、ことが」
「そうか」
シュトラムハゼルは見つめていた魔術の理論を書きなぐった紙を、古ぼけた机の上にそっと置いた。暇になった手で、自分の髭をなでつけながら、言う。
「私も、もう忘れてしまったな。そんな恐怖なんて」
「恐怖を、忘れるのですか」
「いいや、恐怖ならあるな。私はバレンシアが死ぬのがひどく恐ろしい」
きょとん、とキルシュは目を瞬かせた。シュトラムハゼルは情が移ったとでもいうのかな、と思い出すように眼を閉じていた。どうやら、彼はまた痩せたようだ。キルシュは鍛練によって筋肉がほどよくついてきた自覚があるが、シュトラムハゼルはどうも、やはり歳にはかなわないらしい。
リドルが言っていた「シュトラムハゼルが生きているうちに魔術式は完成しないだろう」ということは本当なのだと実感した。
今キルシュは、彼に知識を乞いに来ていた。彼ぐらいしか、訊けなかった。アリスはいないし、他の人たちにはとても訊けないし、今だそういうことを訊けるほど仲良くもなれていなかった。そもそも、戦を目の前にしている人に、訊けるわけがない。
「バレンシアはね、昔共に戦った友なんだ。あのときは私も若くてね、ほら、いろいろ反発したりしたけれど、どうも私も彼の目に魅かれてね。いつの間にか一番気にかけていたよ」
リドルは本当に何十年も生きているみたいだ。確かに、リドルの目には引力がある。人を引き付ける魔力だ。強く、揺らぎがない、迷いのない目。だからあんなに冷たそうに見えるのか、と今になって思った。
「リド……バレンシアさんは、ハーフエルフでしたよね」
「そうだ。あいつはそれをいっとう、劣等感に感じている……あれも、哀れであるのだ。人間と同じように生きながら、エルフを厭いながら、しかし大切に思った者たちは先に死んで行く」
エルフにもつけず、人間でもない。心を開いた人間は自分より早く息絶えていく。その瞬間をいくつもいくつも見ながら、あれも少しずつ変化していくのだ、とシュトラムハゼルは言った。
それは、キルシュが聞くには重すぎる内容に感じた。そんなことを聞いては、リドルを見る目が変わってしまうじゃないか、と。迂闊なことを言えなくなるじゃないかと。そんなことを言っても流せるほど、リドルはきっと強くプライドが高い。
「支えてやりたいが、この魔術式が完成するまでに私は」
その先を、彼は言わなかった。
キルシュも、聞きたいとは思わなかった。
「ああ、そのネックレスつけているんだね」
「はい。ありがとうございます」
「いいや、リドルと私がきみの近くで教えられないせいもある。気にするな」
キルシュはゆるく、首を振った。「あなたの、後継ぎはいるんですか」今度はシュトラムハゼルが首を振る。否定。ここで、自分がする、といえるほどキルシュは魔術を熟知していない。かといって、リドルが魔術の研究に籠れるほど、今は暇な時期じゃなかった。
キルシュだって肌で感じる。
ぴりぴりとした感情。未だ戦闘要員でない自分への嫉妬の目線。お前は殺さなくてもいいんだ、平和なんだ、弱音を吐くな、気が散る、暗にそう言う目が、冷たく、たくさんの目が射抜いてくる。
戦争がはじまるのだ、と感じていた。それでシュトラムハゼルに質問をした。彼が素直に答えてくれたのも、それが近いからなのだろう。黙り込んだキルシュを見かねてか、シュトラムハゼルは柔和にほほ笑んだ。
「少し休みなさい。……時間も、必要だ」
殺すことってなんだろうか。死ぬことってどうして怖いんだろう。
(でも当たり前だ、だって私は生きている!)
人を殺すことの覚悟を決めなければ、ならない。後で後悔するのは、戦場での侮辱だ、といつかアリスから言われていた。でも、それでもだ。一番怖いのは、人を殺しても何も思わなかった時の自分自身なのだ。
水くみ場で、顔を洗う。まだ太陽は真上にあった。肌寒いな、と考えて、後ろを振り向いた。「うぇ!」息が詰まった。
「り、リドル……」
「どうした、ひどい顔だ」
眼帯の下は、いったいどうなっているんだろう。そんなことを考えながら、特に何も、と答えた。それだけでは彼の満足いく答えにはたどり着かなかったのだろう。彼は何をどうしても訊くつもりなのか、質問を変えた。
「何か言われたか」
「気にしないよ、そんなこと」
「お前は変なところで無関心だな」
「あなたに言われたくない」
青い目から目をそらした。心の底まで見透かされそうだったからだ。そんな不安さえ抱くほどに、背筋が冷えるほどの威圧感。だいぶ慣れたものだ。目をそらしたことで、ほっとしていたが、次に彼から出される言葉に目を剥いた。
「2人、殺された」
「……え」
「偵察に行っていた者だ。1か月後にはローランドからマイセルまでの荒野に陣を組む。ローランドに、宣戦布告がなされた。協力関係にある以上、俺たちが出ないわけにもいかない」
「アリスは!?」
「ここにいるよー」
アリスがリドルの後ろから、ひょっりと顔を出した。ほっとして息を吐く。アリスは本当に申し訳なさそうに、ごめんね、こんな時期にそばにいてあげられなくて、と囁いた。
「無論無事。どうする、お前は。行くか?」
リドルは挑発するように言った。
どきり、と動機が激しくなった。どうしよう、どうしよう。そんな事を考えながらも、答えは出ているのだ。じわ、と変な汗が手のひらから出てきた。緊張、に近い。それを不思議に思いながらも、リドルを見上げて視線を合わせた。
「行く」
「それは、よく考えてか」
「うん」
リドルは目を伏せた。それからまた、揺るぎない青が、青を射抜く。低い声
が、厳かに呟いた。
「前線に出すつもりはない、だけどお前が迷えば、俺が切り捨てる。心の準備はしておけよ」
この目にアリスは魅かれたのだろうと思った。