2-5
キルシュは鍛練場で基礎体力づくりをしていた。人が多いのは好きではないので、人気のない夜を狙ってだ。ローランドの力を借りているだけあって、施設は充実している。なにしろ此処は広い。
基礎体力が必要なのは、魔術を使うのには非常に体力を消費するらしい。体力がなくて衰弱状態になると大変だからね、とアリスは軽く笑って言っていた。後は慣れだと言っていたが、これがまた簡単なことじゃない。
「88、89、90……」
腕立て伏せをしながら、息を吐くのと同時に数字を発する。今日のメニューはランニング、腹筋100回、腕立て100回を5セットだ。これを考えるのはアリスだが、始めて最初の1週間は、このメニューの量はいささか多すぎではないかと思っていた。もう慣れて、数を増やしてさえいる。
「95、96……100!」
言い終えた瞬間に、キルシュは仰向けになってその場に倒れる。夜気に当てられて冷たくなった石の床が気持ちいい。全身から出る汗にさわやかな風が当たり、火照った体を冷やしていく。両目の上に右腕を置き、大きく熱い吐息を吐いた。
体を動かすのは億劫で、そのままの姿勢のまま暫く時がすぎる。
夜の静寂が、五月蝿くなる心臓には心地よかった。
「終わったのか」
そう言ってキルシュを覗き込むのは、いつものアリスではなくリドルだった。夜の闇を背負って、何を考えているかわからない笑みをたたえた男は、キルシュが寝そべる右隣にしゃがみこんだ。
「……何でリドルさん」
眼帯で隠されていないほうの右目と視線を合わせる。
「様子を見にきた。アリスは今お前のために水を取って木来るそうだ。少ししたら戻ると思う」
「へえ」
キルシュは寝そべった体を起こし、腕に通してあった輪ゴムを取り、汗で少し濡れた髪を後ろで緩く結った。首筋に風が通り、気持ちいい。
「順調か?」
「はい。魔術式も、使えないけど暗記はしました」
「悪いな、俺がひっぱってきたのに教えもできなくて」
「あなたは暇じゃないでしょう」
リドルの噂はいろいろ聞く。リドルが根回しして、敵対意識のある宗教国家たちを抑えている、という暗い噂から女の話まで、様々だ。
今一番の話題は、反アルジュナ派を押さえつけて宗教国家を支配下に置く、などという大層なものだった。それが間違いかそうでないかはともかく、彼が忙しいのは明白だった。ローランドの協力関係を壊すわけにもいかず、たびたび王城に出向いているとアリスが言っていた。
そういえば彼に会ったのは、最初連れてこられた時以来だ。一応は気にしてくれていたんだろう、と考えると少しほっとした。まだここにいていいといわれている気になれる。
「俺はお前を一目置いてる。そのうち魔術の師匠もつけよう」
「ありがたいです」
「お前は本当、俺に文句を言わないな」
リドルは苦々しく呟いた。アリスでも最初は文句たらたらだったのに、と呟いたのは聞こえないふり。この人本当にいくつなのだろうか。
「なんですかそれ。つらい痛い帰りたいって喚けば済むようなもんじゃないでしょう」
「――――本当にそう思ってるのか?」
「……当たり前に決まってるじゃないですか」
「ま、そうだな。せいぜい頑張ってくれ。……っと、アリスが来るな。俺はもう行く」
「え」
次に目を開けたときには、リドルは居なかった。魔術でも使ったのだろう。多分仕事の途中でわざわざ様子を見に来てくれたのだ。案外身内には世話焼き、というタイプなのかもしれない。
それにしても、とキルシュは辺りを見回した。
いまだにアリスの姿は見られない。リドルがアリスが来ると解ったのは、エルフ特有の五感が優れているからだろうか。暫くすると、小さな子供が走るような音が聞こえてきた。
「あ、キルシュ終わったの?」
「うん」
リドルと同じ事を聞いたな、とアリスに苦笑する。するとアリスは顔一杯に笑みを浮かべて、木製のコップになみなみと注がれた水を渡してきた。同時に言われた「お疲れ様」という労いの言葉がなんとなく嬉しくて、むず痒くなる。
「ありがとう……」
「あ、今女の子らしくわらった!今まであんまり表情でなかったもんね。人見知り激しいほう?」
「まあ……うん。別に女の子らしさは求めていないんだけど」
「女の子でしょ?」
「……がんばるよ」
「よろしい!」
女性らしくなく豪快に笑う彼女にだけは言われたくない話だった。もちろん普段の生活面から言ってアリスのほうが、あきらかに可愛らしさのある表情や立ち振る舞いをする。事実に気分を沈ませながら、コップに口をつける。
冷たい水が、喉を通り意に落ちる感覚が気持ちよく目を細めた。
「何故あの人はこの組織を立ち上げたの?」
ぽつりと零した言葉だけで、それが誰なのか汲み取ったアリスは困ったような顔をした。ああ、しまった。それはアリスにも聞いてはならない事だったかと自責に駆られ「なんでもない」と取り繕うように言った。
しかしアリスは、キルシュが懸念していたような嫌な顔ひとつせずに、優しげな笑みをたたえながらその場に座り、その隣を叩いてキルシュに勧めた。
「そりゃ知りたいわよね。あんな得体の知れない笑み浮かべている人の考え。ハーフエルフなのに、エルフと対立して何が目的で何を思っているのか……。でもね、あたしも知らないの。あの人は自分のことを語ろうとしないもの」
「アリスも知らない?」
意外だった。彼女はなんだかんだ言って一番彼に接する時間が一番多いからだ。今までにリドルの部屋の隣で途切れ途切れに聞こえる訪問者との会話の声から察するに、二分の一はアリスだったからだ。だから仲がいいと思っていたが、そうでもないらしい。
「ええ。仕事が諜報活動だから、あの人と話す時間は多いけれど……ほとんど私情は話さない」
「そうなんだ」
「でも、これはあたしの憶測なんだけどね、ちょっと聞いてくれる?」
アリスは身を乗り出して、キルシュの目を覗き込んだ。
「ハーフエルフはね、どんな優れた者でも同属は居ない。人間と、エルフ、どちらからも忌み嫌われる存在なの。そう、それはドワーフにさえも。誰かが愛し合って生まれた存在のはずなのにね。あたしが思うにね、ホラ、バレンシアさんってハーフじゃない。だからそういうので対立しているのかなって」
「人間にも、嫌われているのに?」
「それはあたしもわからないけど……あの人は、何にも属さないわ。ローランドにも協力してるだけっていうのが現状。いっそ一緒になれば楽なのに。せっかく統率力、戦力が同時に備わっているのにね。だからこそ、かもしれないけれど、彼はどちらでもないわ。あたしがこの組織に属するときに言ったのがこれ。
『俺はどちらにも協力しない。俺のやるべきことをするだけ。それでもお前がエルフを憎いと思うのなら、お前が嫌と思うまでついて来い』
……偉そうでしょ」
「あの人らしいね」
「まあね。でも、その自由奔放さと強さに魅かれたって言っても過言じゃない。手のひらの上で転がされても悪くないってね。あ、勘違いしないで。すきとかそういうのじゃあなくって、なんていうのかな。憧れ?みたいな。あたしもあんな風に、誰にも、何にも縛られることのない強さを身につけられたらなって、思うの。変でしょ。でもね、あたしは強くなりたいの」
強さを語る彼女の眼は、それを渇望していた。過度な憧れは敵意に変わりやすいことを、アリスは知っているだろうか。否、知らないだろう。だからこそ彼女は純粋なのだ。そして純粋な狂気こそ恐ろしいものはないと思う。
「エルフを殺すために?」
「えげつない言い方しないでよ。でも、その通り。だって憎いじゃない。エルフさえいなければ、世界は平穏のままだったのに」
きっと、アリスは憎しみを糧に生きているのだろう。そのために血に塗れて、目標があるからこその生き様。ぞっとした。詩的、とでも言ったほうがいい歪み、それでも真っ直ぐな彼女の生き方は、キルシュには肯定しがたいものだった。
だってエルフが、もしも全ていなくなったときあなたはどうするんだ。
からっぽになるんじゃないのか。
生きる意味がなくなるんじゃないのか。
そんなことも、その歳で理解してくれないのか。
声にできなかった全ての言の葉を、喉をきつく引き締めて細い息にした。自分の心を落ち着かせるように、水を口に含んだ。何故かイラつくように熱くなった喉を、冷たい水が冷やしていった。自分も家族が殺されたら、こうなるんだろうかなんてくだらないことを考えた。
エルフがいなくなったとして、本当に世界がいい方向に向かうのか?その考えを、首を振って否定する。向かうはずがない。悪が消え、善が残れば対になる悪がまた生まれるのは世界の理なのだ。
それは決して消えない。何故なら、両方があるからこそ均衡が保たれるからだ。
「アリス、行こう。もう寝よう。眠いんだ」
立ち上がり、手を差し伸べる。アリスは苦笑いをしながら、その手を取った。
「ごめんね、こんな話」
「気にしないで」
どのみち、平穏は犠牲の上に成り立つものなのだ。綺麗事など、その場しのぎに過ぎない。風が、キルシュとアリスの髪を揺らした。朧気な月が空を切り裂くような獣の爪のような形でぽっかりと浮いていた。
その日、嫌な夢を見た。
一番最初に会った、ラナ、ロイド。やさしい宿屋の夫婦。そしてあのエルフたち。全員、自分を射殺すような眼で自分を見てくる。自分の足は動かない。金縛りにでもあったように。冷汗が噴き出る。そのうちエルフがこちらに向かって走ってくる。手にはあの日と同じ、剣。
嫌だ!
武器も持っていなくて、思わず手を突き出した。その瞬間、断末魔のような声を上げながら、エルフがしゃがみ込んだ。周りにいたラナたちも、布を裂くような声を上げながら、倒れていく。
「は、」自分の息の音が恐ろしく大きく聞こえる。目が離せない、目を離したい見たくない。涙が滲んでくる。それでも見える。 エルフは突然、足の先から肉塊に変化していった。ごぽ、と嫌な音を立てながら――――ぐずぐずと、ヒトの形が崩れていく。嗅いだ事のある匂いが鼻をかすめる。濃い吐き気を誘う。
ラナたちも崩れていった。耳をつんざくような悲鳴、鼻がもげる様な悪臭。歯の奥ががちがちと鳴る。体が震える。そうっと、崩れて声がなくなった宿屋の夫婦を見た。ぎょろ、とした眼球が、こちらを見ていた。責めるように、憎むように、感情のない目、が。なんでなんでなんで目が閉じられないんだ!
後ろから視線を感じて、振り向く。
リシェルたちがいた。あのときのような優しい顔じゃなくて、まるで蔑むような顔。「人殺し」ひとりがそう言うと、まるで木霊のように母や父、近所の人さえも、「人殺し」「人殺し」「人殺し」「人殺し」
「やだあああああっ」
ぐ、と意識がひっぱられる感覚がして、目を開けた。開いていたはずの目が、天井を見ていた。窓から差し込む月の光に照らされた、無機質な天井はひどく静かだった。
汗が米神を伝う。背中は汗でぐっちょりとしていた。息が荒い。涙まで出てくる。「もうやだ」思わずつぶやく。両手で目を覆った。自然な闇が、落ち着いた。
「怖い、死にたくない……怖いよ」
リシェル、お母さん、お父さん。呟いたらもっと泣きそうで、頭の中で呼ぶだけにした。こんな怖い思いするなんて思ってもみなかった。後悔が押し寄せてくる。なんでこうなったんだ。考えても仕方ない、何も変わらない、同情もできる内容じゃない。わかっているけど、それでも。
1か月、必死だった。だから夢なんか見なかったのに、どうして今更。気がゆるんだのだろうか。それにしてはたちが悪い。こんなに罪悪感を抱くものなんだ、と膝を抱えた。知らない人が死ぬのはいっそどうでもいい。好きな人に責められるのがひどく恐ろしい。
村にも城下にも帰れない。アルジュナで役立たずにされたら、もうそれで自分が終わってしまうような気がして恐ろしい。弱音なんて吐きたくない。聞かれたくも見られたくもない。
「なんで上手くいかないの」
布団を握って、目を押さえつけた。
「……、」
ドアを背にもたれ、小さく聞こえてくる嗚咽にリドルは静かに目を閉じる。そして音もなく踵を返した。