chapter 2-37 湖竜の鱗
ベスティアクアの海は陽光に照らされ、珊瑚の輝きが波間に揺れる。
シンフォニア海環諸島グランディオーソ島の神殿での儀式を終え、アリス、白薔薇の女王、ネレイアラは人間界へと心を向ける。メロウンディーネの強い愛に背中を押され、ネレイアラはまだ見ぬ世界を救う決意を固めた。白薔薇の女王は穏やかな笑みを浮かべ、アリスに寄り添う。
シュレーは嘴をカチカチ鳴らし、黒と白の羽毛を陽光に輝かせる。
アリスは【女神の箒】を握り、胸の月光の涙が穏やかに光る。鱗のドレスが海風に揺れ、碧眼には未来への期待が宿る。3人を乗せた箒がグランディオーソ島を離れ、メロディア輪舞諸島ソステヌート島へ向かう。人魚たちが手を振りながら祈るように歌い、旋律を響かせる。
しばらくしてソステヌート島に着く。珊瑚の環礁に囲まれ、波が歌うように打ち寄せる。
島の近海には海底の都が眠り、空には鳥獣族が舞い、アロガンスの鳳翼が陽光を浴びて金色に輝く。
珊瑚の欠片が砂に混じり、足元でキラキラと光る。アリスが箒を手に、記憶を頼りに最初に気がついた砂浜に降り立つと、海風が鱗のドレスをそよがせ、潮の香りが鼻を擽る。
ネレイアラは青紫の髪を靡かせ、鱗のドレスが波の音に合わせて揺れる。
シュレーは羽をバタつかせながら嘴を鳴らし、白い砂浜をペタペタと歩く。
「アリス、人間界に戻っても元気でな」
「あなたもね」
「俺、もうどんなことがあっても挫けねえ。鳳翼に飛べない鳥たちの居場所を作るんだ」
「素敵な夢ね」
だがシュレーの瞳には一抹の寂しさが宿る。砂浜にアロガンスが降り立ち、大きな翼を広げ、堂々とした姿で立つ。鳥獣族たちがその背に集い、空を舞う喜びを噛みしめる。
アロガンスの金色の瞳がアリスを見つめ、不敵に笑う。
「もう行くのか?」
「ええ。人間界でやり残したことがたくさんあるから」
「お前からは多くを学んだ。飛べることだけが鳥獣族の強さではない。今までは鳥たちを鳳翼に合わせる指導をしていたが、今後は鳳翼が鳥たちに合わせる指導をする。人魚府の命で住む場所も自由になった。これを持って行け。きっと頼りになる」
両翼で持ちながら差し出したのは、青い宝石が嵌め込まれた冠であった。
「ベスティアクアマリンと呼ばれる魔石だ。頭にかぶっておけば、水の中でも呼吸ができるようになる」
「ありがとう。でもこれ、凄く貴重な物じゃないの?」
「マルベンディトル様から渡すよう頼まれた。伝言も預かっている。娘を頼むとの仰せだ」
「お父様ってば、相変わらず過保護なんだから」
呆れるようにしながらネレイアラが言うと、アリスがクスッと笑う。
「アロガンス、お父様に伝えておいて。一人前の人魚になって戻ってくるからって」
「了解しました。必ずお伝えします」
アリスが箒を構え、碧眼を細めると、箒がアリスの意思に共鳴する。
ふわふわとした穂先が光に包まれ、溶けるように形を変え、滑らかな水晶の杖へと変わる。杖先から透明な水晶が浮き上がり、陽光を浴びて虹色に輝き、青い波動が水晶を満たす。
穂先の杖を振ると、水玉が杖先から弾けるように現れる。水玉は空気中で膨れ上がり、透明な泡沫へと成長する。泡沫は海風に揺れ、内部で光が屈折し、まるで星空を閉じ込めたかのように煌めく。
「女王陛下、中へどうぞ」
「ああ。ようやく帰れるのだな」
白薔薇の女王が泡沫の中へ入ると、続いてアリスとネレイアラが泡沫の中へ足を踏み入れる。
内部はひんやりと柔らかく、波の音が遠くで響く。泡沫がふわりと浮き上がり、ソステヌート島の海岸から海の中へゆっくり沈んでいく。珊瑚の環礁が陽光に照らされ、色取り取りの魚が泳ぐ海底が広がる。
広く美しい海の中を見渡し、感銘を受けるアリスたち。
「じゃあなー! また会おうぜー! 待ってるからなー!」
シュレーが両羽を嘴にあてがいながら叫ぶ。目には堪えていた涙が浮かぶ。
鳥獣族たちが一斉に翼を広げ、旋律を奏でるように空を舞う。
波の音と風の囁きが、別れの瞬間を優しく包む。やがて珊瑚に囲まれた時空の穴が現れる。深く暗い渦が静かに回転し、星々の光がその奥で瞬く。ネレイアラが悲歌を思い浮かべ、泡沫が柔らかく光を放つ。
泡沫が時空の穴へ吸い込まれ、3人の姿が光の渦に溶ける。浜に残ったシュレーが羽を振り、アロガンスが翼を広げ、空高く舞い上がる。鳥獣族の旋律と波の音が響き合う。
人魚界ベスティアクアに、新たな希望の調べが刻まれたのだった――。
カエルバス王国チッコス湾から繋がるフレス湖にワンダー号が停泊する。
3本のマストに横帆と縦帆が組み合わさり、バウスプリットのスプリットセイルが風を孕む。16ポンド砲が左右5門ずつ、計10門が黒光りし、陽光を跳ね返す。
メイベルは甲板を右往左往し、アシュリー、メロディ、ベラ、ナーサリーが佇みながら見守る。
ピクサーブはフレス湖の水質を調べようと手を触れた。
マルアスは天使の白い右翼と悪魔の黒い左翼を羽搏かせ、フレス湖の周辺をグリフォアと共に偵察するように飛び回っている。モック、コッツ、ビルは舵輪の前に佇んでいる。
「綺麗な湖だ。だがこれ以上は進まない方がいい。奥に何かいる」
ピクサーブが水面を見つめながら言った。
「やっぱりフレシーがいるの?」
「分からん。一度フレス湖に潜って確かめたいところだな」
「そんなの危ないわよ」
「アリスがポーラーと話していたのはこの近くで間違いないんだな?」
「ええ。もしこのまま見つからなかったら引き返すしかないわ。フレシー討伐クエストも失敗ね」
メイベルが諦めかけていたその時であった――。
「何か来るぞっ!」
ピクサーブが異様な気配に気づく。モックは慌てて両鰭で舵輪を回す。
浮かび上がってきたのは中が透けて見える水色の泡沫であった。
泡沫が湖畔に着地すると、風船のように割れ、アリス、白薔薇の女王、ネレイアラの3人の足が同時にぬかるんだ地に着く。ワンダー号が湖畔に乗り上げ、メイベルが真っ先に駆けつける。
「アリスっ! 無事だったのね!」
メイベルがアリスに抱擁すると、後からアシュリーが続き、静かに笑みを浮かべた。
「ただいま。みんな合流していたのね」
「当然だ。道中で海賊の邪魔が入った時はどうなるかと思ったがな」
「女王陛下、よくぞご無事で」
ビルが白薔薇の女王の前に跪き、尻尾を鞭のように丸く畳む。
一目見た瞬間、今まで忘れていたはずの記憶が蘇り、遠い昔、王室御用達の漁船に仕えていたことを思い出すと、畏れ多いのか手が震え、深淵なる忘却が脳裏から失せる。
白薔薇の女王のことは漠然と思い出していたが、ホワイトスタードレスが追憶を一押しする。
「久しぶりね。どこへ行ったか心配していたのだぞ」
「申し訳ございません。不覚にも女王陛下を忘れていたことをお許しください」
「構わぬ。こうして人間界へと帰ってこられたのだ。全てはアリスのお陰だ」
「ふーん、それにしても随分派手な格好ね」
「ネレイアラが作ってくれたのよ」
「今はもう必要ないみたいだけど」
ネレイアラが言うと、メイベルたちの視線が一斉に向く。
初めてまともに見る人魚の姿は可憐な花の如く美しさがあり、メイベルたちを魅了する。
2本の脚から生えている鰭が湿気に反応し、足を覆うように絡みつき、1本の尻尾のように映る。
アリスは人魚界ベスティアクアで起こっていた異変を説明する――。
ベスティアクアは既に閉ざされた世界ではなくなり、月光の涙を持っていなければ分からなかった人魚の言葉は見事なまでに通じている。部分的に有効であった封印は祠の間による呪術魔法がポセイレーンの魔力と打ち消し合い、全面的に有効な封印となった。ポセイレーンによって放たれた呪術は解かれ、時空の穴の外にまで魔力成分が解放されたものとピクサーブは理解する。
故に、ネレイアラとも当たり前のように会話ができるが、慣れない存在なのか、ナーサリーは初めて見る人魚に興味津々ではあるが、アシュリーの後ろからひっそりと見守っている。
「なるほど、それで女王陛下を救い出せたわけか」
「アリスが無事で本当に良かったわ」
「ところで、みんなはどうしてフレス湖まで来ているの?」
「アリスと最後に会った場所がこの近くだったからっていうのもあるけど、昨日まで異常な寒さだったから原因を調べていたら、ピクサーブがフレス湖から氷結の魔力が漂っているって言うから来てみたの」
「アリスの話が正しければ、復活した海神が発生させた氷期がこの世界にも及んでいたということだな」
「異界で起こった異変を放置すれば、回り回って人間界にも影響を及ぼす仮説が初めて立証されたわね」
淡々とした真顔でアシュリーが言った。服から漂う薬草の匂いにアリスが気づく。
アリスたちはワンダー号に乗船し、メイベルたちを並ばせる。
「【浄化掃除】」
箒から放たれた魔力の光がメイベルたちを包み込み、体や服についた汚れや匂いを消し去り、新品の如く明るい色を取り戻す。ついでのようにワンダー号に付着していた水汚れまでもが浄化されていく。
「うわぁ~! 凄いっ! 服の汚れが洗濯されちゃった!」
小さく収まっていたナーサリーが燥ぐように喜びを露わにする。
「やっと笑ったわね」
「あっ……ごめんなさい」
「私はアリス。あなたは?」
「ナーサリー・ライム。ヴァフレスの町に住んでたの。でもスラッジオっていうクリーチャーが現れて、町中を荒らし回って……お母さんもスラッジオに食べられて」
段々と涙声になるナーサリーを前に、アリスは不穏な予感を隠せない。
「今はどこにいるの?」
「分からない。ヴァフレスからはいなくなったみたいだけど、町はボロボロで、今は王都ラバン・ディエからの支援を受けているわ。メイベルたちも手伝ってくれていたの」
「そうだったのね。ヴァフレスは素敵な町だけど、どこもかしこも汚れていたわ。スラッジオは全宇宙に巣食う汚れを求めて徘徊しているのに……」
アリスが不安げに言うと、ピクサーブが水面下からの気配に気づく。
大きな水飛沫を上げながら現れたのはフレシーであった。
可愛げのある顔を見せると、甲板に長い首を突っ込み、アリスに擦り寄る。手の平でフレシーの頭を直に撫でると、気持ち良さそうに目を閉じ、穏やかな鼻息を吹きかける。
「アリス、気をつけて」
「大丈夫よ。私たちの世界を救ってくれてありがとうって言ってるわ」
冷静に警戒するアシュリーを宥めるようにメロディが言った。
「クリーチャーの言葉が分かるの?」
「何となくだけど、私、昔っから色んな生物の言葉が分かるの」
「それって【翻訳】じゃない?」
「よく分かんないけど、人間やアニマリーと会話するだけだったら、魔力成分による同調現象だけで十分だし、事実上のハズレアよ。まさかこんな時に役立つとは思わなかったけど」
おちゃらけながらメロディが言うと、自らフレシーに歩み寄ってみせる。
「本来のフレシーは凄く大人しいのよ。今まで狂暴化していたのは、自分勝手な人たちが湖を荒らそうとするからよ。しかも今回は汚れていたフレス湖に侵攻したスラッジオに体を乗っ取られて力を制御できなくなって、何度も暴風を起こしていたから。それでフレス湖自体が出入り禁止になっていたのよ」
「黒紙クエストに指定されていたのは、そのためだったのね」
「なんか拍子抜けしちゃう」
「でもこれじゃ、討伐クエストなんて到底無理ね。良心的なクリーチャーをクエストのためだけに殺すわけにもいかないし、今回の討伐クエストは――」
アシュリーがクエスト終了を宣言しようとした時だった。
フレシーの頭にこびりついていた硬い鱗がアリスの前にぽとりと剥がれ落ちる。
「ねえ、これを持って帰って事情を説明すれば、クエストクリアにならないかな?」
メロディが鱗を抱きかかえるように持ち上げ、アシュリーに尋ねた。
「あのね……それじゃ討伐クエストにならないでしょ」
「倒さなくても大丈夫よ。討伐クエストはクリーチャーを倒すことじゃなく、クリーチャーを無害化することだから。元々は人畜無害な状態になったことを証明するために、クリーチャーの体の一部を持ち帰るようになったことが、討伐クエストの始まりとされているのよ」
メイベルが言うと、アシュリーはすかさず切り返す。
「それはそうだけど、無害化したことはどうやって証明するのよ?」
「アリスの【掃除】でフレス湖を浄化して、それでフレシーも大人しくなったんだから、トランプ兵に調べてもらえれば、十分な証明になるはずよ」
「最優秀生徒がこう言ってるけど、アリスはそれでいいの?」
「ルール上問題ないなら、私は別に構わないわ」
アリスが言うと、フレシーがアリスから離れ、背中からフレス湖へと沈んでいく。
再び湖底へと戻っていくロッホの主は喜びを露わにするように、天へと響く雄叫びを上げ、ワンダー号を見送るように首を反転させて後ろを振り返り、モックが舵輪を握る。
手を振りながらフレシーの姿を焼きつけると、全身が湖に浸かり、水面が静まるのだった。
異界同士を繋ぐ宮殿列車は文字通り横に長い宮殿の如く優雅な姿を誇る。運賃はないが手に入ることのない乗車券が必要となり、一度乗車すれば異界に着くまで止まらず、終点なき空中路線に気づく者はいない。
歪みを追う者クィント・ランブルステップの著書『天翔ける宮殿列車』より




