chapter 2-31 鵞鳥の母
メアリー・ラム教会の尖塔が月光に浮かび、建物は一部崩れている。
フルーツリープやベジタブリープが描かれたステンドグラスから暖かな灯りが漏れる。
礼拝堂では木の長椅子に市民が毛布に包まり、子供が母親にしがみつき、スラッジオへの恐怖から啜り泣きが響く。祭壇の白い羊の彫刻は人々を見守るが如く日光に照らされる。
メイベル、アシュリー、メロディ、ベラ、ナーサリーは礼拝堂の長椅子のそばで再会を果たしたばかりであった。メイベルの白い魔障院制服マントは土埃に汚れ、茶髪に灰が絡む。
ベラの黒髪は蝋燭の光に輝き、頬に煤がついているが、笑顔は明るい。
メロディは青い魔障院制服の裾を握り、目を潤ませる。アシュリーの銀髪は乱れ、制服にはオリーブルームオイルの染みが残る。ナーサリーはアシュリーの袖を握り、人見知りで顔を半分隠している。
外ではトランプ兵の叫び声と市民の無力感が漂い、瘴気が窓から忍び込み、蝋燭の炎を揺らす。
「今日はここで休んで、明日ヴァフレスの港まで買い出しに行きましょ」
メイベルが言うと、全員が同意するように頷き、ナーサリーも小さく頷く。
教会の奥に案内され、寝室へと向かう。寝室は礼拝堂の裏手にある小さな石造りの部屋で、木の簡素なベッドが並び、藁のマットレスが敷かれている。窓は小さく、ステンドグラスの破片が月光を虹色に散らしている。部屋は冷たく、匂いが微かに漂うが、毛布の温もりが安堵を与える。
メイベルはベッドに腰を下ろし、ブーツの泥を払い、アシュリーはナーサリーをベッドに座らせた。
「ここなら安全よ。ゆっくり休んで」
ナーサリーは小さく頷き、アシュリーの袖を握る手が緩む。
突然、寝室の木の扉が勢い良く開き、羽音と共に鵞鳥のシスターが飛び込んでくる。
マザー・グースと呼ばれる鵞鳥族だ。白と灰色の羽毛に覆われ、大きな翼をバタバタと動かし、黒い瞳がキラキラと輝く。シスターのローブは刺繍で飾られ、首には小さな銀の鈴が揺れる。
声は中年女性のように力強くも甲高く、歌うように響く。
「おやおや、また新しい子羊たちが来たようね! さあ、ぐずぐずしていられないわ! ここに居座るんだったら教会の仕事を手伝ってもらうわよ!」
「えっ、今から? 疲れてるんだけど……」
マザー・グースは翼を広げ、首の鈴がチリンと鳴り、慌ただしい雰囲気が部屋を満たす。
「疲れてる? ヴァフレスの民はもっと大変なのよ! さあ、起きなさい!」
「この鵞鳥さん、滅茶苦茶元気だね!」
「あたしはマザー・グース。メアリー・ラム教会の修道女よ」
「私はメイベル、こっちはアシュリー、メロディ、ベラ、ナーサリーよ」
「あら、ご丁寧にあいさつができるなんて、やっぱり元気じゃない。早く来るのよ!」
「仕事って何するんだろう」
「さあね。仕方ないわ。協力すれば情報が得られるかも」
ナーサリーはアシュリーの後ろに隠れ、マザー・グースの羽を覗く。マザー・グースは翼で人々を軽く叩きながら各寝室に入っていくと、礼拝堂の裏手の作業場へと人々を導く。
作業場は石壁に囲まれ、木箱には食料や毛布が積まれ、蝋燭の光がチラつく。
市民が傷の手当てや食料の仕分けに追われ、トランプ兵が瓦礫の片づけを手伝う。
マザー・グースは翼をバタつかせながら世話しなく指示を出している。
「さあ、食料を分けるのよ~! 子供たちにはオートミールを~! 大人たちにはパンを~! 怪我人には包帯を持って来なさい~! トランプ兵には魔法薬を王都まで取りに行かせたわ~!」
ソプラノの声は明るく響き、市民の悲しみを和らげていく。
メイベルは食料の木箱を運び、ベラはオートミールを配り、メロディは包帯を巻き、アシュリーはナーサリーと一緒に毛布を折り、ナーサリーは小さく頷き、初めて笑みを浮かべる。
「マザー・グースって変わってるけど、頼りになりそうね」
「なんか妙に歌が頭に残るね!」
「まるで希望の光ね。不思議と力が湧いてくるわ」
「マザー・グースの声には【歓喜】の魔力があるのね」
「凄い。修道女なら色んなことを知っているはずよ。後で話を聞いてみましょ」
メイベル、ベラ、メロディ、アシュリー、ナーサリーは教会の作業場に呼び出され、食料の仕分けや怪我人の手当てを手伝っている。作業場は石壁に囲まれ、木箱にパンや干し魚が積まれている。
マザー・グースは白と灰色の羽毛に覆われ、刺繍が施されたシスターのローブを纏い、首の銀の鈴がチリンと鳴り、甲高い声が響く。都市機能を失ったヴァフレスの町からは人間やアニマリーが押し寄せた。皮肉にもこれが潰れかけていたメアリー・ラム教会の人手不足を解消する原因となった。
作業の合間、マザー・グースが翼をバタつかせ、突然話題を振った。
「あんたたち、魔障院制服を着ているみたいだけど、どこから来たんだい?」
「私たちはブリスティア魔障院からクエストで来たの」
「おやおや、クエストとはご苦労なことだねぇ~」
「でもフレス湖はスラッジオが出現した場所で、今は危険で近づけないわ。アリスが戻るまでクエストは中止になっちゃうけど、しばらくはここで待機するしかないようね」
「卒業単位……心配になってきた……」
メイベルたちが同時に、静かに溜め息を吐く。クエスト期限が刻一刻と迫る中、不安ばかりが募る。
「そうそう、聞いたわよ! あの白薔薇の女王がカエルバス国王に即位するって噂よ! ルベルバス王国の共同国王なのに、可笑しなこともあるんだねぇ~」
「「「「「!」」」」」
マザー・グースの鈴がチリンと鳴り、作業場の喧騒が一瞬静まる。
メイベルは木箱を下ろし、目を丸くする。ベラがスプーンを落とし、メロディは包帯を握り、アシュリーはナーサリーの肩に手を置き、冷静に耳を疑った。
ナーサリーはアシュリーの袖を握り、驚きの目でメイベルたちを見つめる。
「白薔薇の女王ですって!」
「……嘘でしょ。私たち以外誰も知らないはずなのに」
「マザー・グース、その話、どこで聞いたの?」
マザー・グースは翼を広げ、意気揚々と減らず口を開く。
「ヴァフレスの港で聞いたわ! 白薔薇の女王が王位継承戦争に敗れた後、カエルバスまで逃げてきて、今度はカエルバス国王の座を狙ってるって! 民は怒っているわ。ルベルバスとの戦争で家族を失ったというのにってね。今は行方不明だけど、いずれ戻ってきたら即位する予定ってね」
作業場の市民たちが騒めき出す。年老いた漁師が木箱に拳を叩き、若い女性が涙を流し、トランプ兵が槍を握り、カエルバス王室にまつわる話を始めると、メイベルたちは聞き耳を立てた。
「国王陛下が病床に臥せっておられるって時に白薔薇の女王か。かつてルベルバスとの戦争で息子が死んだというのに! 白薔薇の女王の父、暴君王ハンクが始めた戦争の屈辱、忘れはせん!」
「カエルバス国王の座を奪われたら、この国はどうなるの?」
「姉の赤薔薇の女王に戦争でも仕掛けるんじゃねえか」
メイベルは胸が締めつけられ、ベラはトランプ兵に目をやった。メロディは青い制服の裾を握り、アシュリーは目を細め、マザー・グースは不思議そうにメイベルを見つめながら鈴をチリンと鳴らす。
「私たち以外で白薔薇の女王を憶えている人なんていないと思ってたのに」
「でもどうして……何事もなかったかのようにみんな知ってるんだろう」
「深淵なる忘却が解けたからじゃない?」
アシュリーが無表情のまま、淡々と言ってのけた。
「深淵なる忘却って――じゃあ、アビサル・オブリビオンに書かれていた内容は本当だったってこと?」
「恐らくね。真実に辿り着ければ、人々は忘却から解き放たれる。深淵なる忘却は全宇宙を飲み込むほどの極めて強力な魔法よ。それを解くための唯一の方法が真実に辿り着くことなら、きっと忘却を免れた誰かが白薔薇の女王を見つけたのよ。いないはずの存在を目撃したことで、歴史に矛盾が生じた」
「矛盾が生じたらどうなるの?」
「歴史には修正力があるって話、聞いたことない?」
「あー、確かロバート先生が言ってたわね。でもそれって、誰かが消えたとしても、別の誰かが同じことをするっていう理論じゃなかったっけ?」
メロディが顎に人差し指を当て、空に目線を向けながら尋ねた。
「そうよ。あくまでも仮説だけど、白薔薇の女王が消えてしまっても、別の誰かが王位継承戦争に名乗りを上げて同じことをしていたっていう筋書きよ。改変後の歴史書にも赤薔薇の女王に歯向かった貴族が何人もいたことが記されていたわ。アリスの魔障史書だけ内容が変わっていなかったのは、別の魔力が干渉して、修正力が働いたからよ。深淵なる忘却が人々の日常に潜り込んで、歴史の改変を静かに遂行していたとしたら、非日常的な毎日を過ごしていたアリスだけが忘却を免れたと考えれば、説明がつくんじゃないかしら?」
「確かにそうね。じゃあ、白薔薇の女王を見つけたのは――」
「きっとアリスよ。アリスだったら、世界の歪みだってお掃除しちゃうんだから」
メイベルが両腕を握りながら自分のことのように言うと、アシュリーは笑みを浮かべた。
「マザー・グース、詳しく教えて。白薔薇の女王がカエルバス国王に即位するって誰が言い出したの?」
「港の商人たちが噂してるわ。カエルバス貴族が王都ラバン・ディエで白薔薇の女王を担ぎ上げようとしてるって! でも民は戦争の傷を忘れてないわ。白薔薇の女王を恨む声がヴァフレスに響いてるのよ!」
「じゃあ王都まで行けば、何か分かるわね」
「アリスが戻ってきたら提案してみましょ」
「それもそうね」
瞳の中が光り、アシュリーが優しく抱き寄せる。メイベルは拳を握り、ベラが髪を靡かせ、メロディは不安げに呟く。作業場の空気が重くなり、蝋燭の炎が瘴気の霧で揺れる。
マザー・グースの歌が響き、市民の怒りと悲しみを和らげる。
「さあ、雑談はこれくらいにして、作業に戻ってもらうわよ! 王都に支援してもらわないとねぇ~!」
意気揚々と歌いながら人々やアニマリーに労働を促し、汗水を流させた。
しかしながら、勘の良いアシュリーは既に気づいていた。
働いている間は辛い過去を忘れられる。
全ては、マザー・グースの優しさであった――。
海牢の間を脱出したアリスはシュレーを肩に乗せ、マルギュグルを追っていた。
魚人兵が絶え間なく巡回している。聖殿へと続く回廊には厳戒態勢が敷かれたこともあり、大勢の見張りが軍の如く留まり、アリスは魚人兵の様子を窺っていた。
「グランディオーソ島は人魚しか入れないはずじゃなかったの?」
「厳密に言えば、住民として移住できるのが人魚ってだけで、他の種族はみんな別の島に家があるんだ。この世界は元々みんなのものだったって、じいちゃんが言ってたんだけどな」
「だったら取り戻しましょ。みんなの居場所を」
「ああ……なあ、アリス、鳳翼にいた時、何で俺なんかを庇ってくれたんだ?」
「全ての生物や万物は、必ず意味のある役割を持って生まれてくるものよ。一見役立たないように見えたとしても、本人や周りが知らないだけで、実は存在するだけでも十分仕事をしているのよ。例えば夜空の星だって、浮かんでいるだけで直接誰かを助けたりはしてくれないけど、見ているだけで心が癒されて、嫌なことを忘れさせてくれたり、背中を押してくれたりするようにね」
「――アリス、俺、自分の役割を見つけたぜ」
「えっ? ――ちょっと」
アリスが手を伸ばした時には手遅れであった。シュレーは大広間へ飛び出した。
「おーい! 鈍間な魚人兵さんよー! 捕まえられるもんなら捕まえてみろー!」
シュレーは瞬く間に魚人兵たちの注目を浴び、外に向かって素早い腹滑りを始めた。
「何だあのペンギンはっ!? 何をしている! 早く侵入者を捕まえろ!」
青い甲冑を着用した魚人兵長が命令を下し、連動するように他の魚人兵が一斉に動き出す。
魚人兵で埋め尽くされていた回廊に殺風景が漂うほど静かになり、アリスはシュレーを気にかけながらも気配を消すように歩き、厳重に守られていた扉を開く。
ネレイアラが連れて行かれた方向を思い出しながら足を進めていく。
鮟鱇兵が気配に気づく。シュレーは海城の外にまで逃げると、背後の魚人兵に目をやった。
「どうした? ここまで来いよー! 兵士の体力はそんなもんかよー!」
「貴様っ! 海城に侵入すれば死罪だぞっ! 分かってるのかっ!?」
「知らねえよ! 失敗を恐れて何もしないで生きるなんて、それこそ死んでいるようなもんだ!」
「不届き者が! 覚悟しろ小僧!」
「待て! そいつは囮だ! 俺たちは外に誘い出されたんだ!」
海城の外を守っていた鮟鱇兵が慌てて魚人兵に告げる。
「何だと! それは真かっ!?」
「さっき海城で哺乳族の匂いがした! 間違いねえ!」
「今更気づいてもおせえんだよ!」
「おのれぇ! 飛べない鳥の分際で生意気なっ!」
魚人兵がシュレーに襲い掛かろうと槍を構えるが、間一髪のところで踏みとどまり、海城の中へと一斉に駆け足で戻っていく。シュレーはホッと一息吐くと、聳え立つ海城を眺めた。
アリスの無事を祈りつつも、シュレーは歌声が耳に入り、海岸へと走っていく。
人魚たちが祈るように歌う姿に、シュレーは聞き耳を立てながら歩み寄るのだった――。
恐ろしいことに、ルベルバスからルクステラへ渡った魔導兵器は錻力の兵隊であった。あらゆる魔法攻撃を受け流し、敵を殺すまで忠実に猛追する姿は脅威そのものだ。やがて自らの意思を持っているかのように制御が利かなくなると、両軍が悩まされた末、焼却処分された。
国王直属侍女オクタヴィアン・セクシアの著書『アトロウシャス・ガバメント』より




