chapter 2-30 慈悲深き女王
ヴァフレスの町はスラッジオの襲撃により、壊滅的な爪痕を残されていた。
石畳の通りは砕け、かつての整然とした道は瓦礫と黒い瘴気の霧に覆われている。
家々の木造の屋根は折れ、窓ガラスは粉々に砕け、壁にはハーミットラッシュの巻貝の跡が抉られたように刻まれている。港から漂う潮風が鼻をつき、夜の冷たい風に混じる。
メイベルは1人、ブーツで砕けた石畳を踏みしめ、アリスの不在が心に重く伸し掛かる。
白い魔障院制服が風に揺れ、茶髪に絡んだ土埃が頬を汚す。
「みんな……どこにいるのかな……」
町中はスラッジオの咆哮の余韻が不安を煽る。瓦礫の向こうにメアリー・ラム教会と書かれた門の看板と共に尖塔が目に映る。石造りの建物は一部が崩れ、フルーツリープやベジタブリープが描かれたステンドグラスに罅が入り、砕けているが、暖かな灯りが漏れ、避難する市民の声が響く。
メイベルは目を細め、興味をそそられるように足を早めた。
教会の門は開いており、苔生した石壁に沿って市民が肩を寄せ合う。
内部は広々とした礼拝堂で、木の長椅子が並び、祭壇には白い羊を象った彫刻が立つ。
蝋燭の炎が揺れ、石壁に柔らかな影を投じるが、瘴気の匂いが微かに漂う。市民たちは毛布に包まり、子供が母親にしがみつき、啜り泣きが響く。メイベルは門を潜り、礼拝堂の奥を見やる。
「メイベル! 生きていたのね!」
ベラの明るい声が響き、メイベルが振り返ると、ベラ、メロディ、アシュリーが長椅子のそばに立つ。
アシュリーの銀髪が蝋燭の光に輝き、頬に煤がついているが、笑顔は変わらない。
「無事で良かったぁ~!」
メロディは青い魔障院制服の裾を握り、目を潤ませながらメイベルの体を強く抱擁する。
「スラッジオの襲撃でみんなバラバラになって、ずっと心配したんだから!」
「ごめんね。ヴァフレスの地形を知らなかったから、逃げるのに夢中で、気がついたら迷ってたわ」
メイベルもメロディの体を抱擁し、慰めるように優しく言った。
「遅かったわね。メロディがチッコス湾まで探しに行くって話していたところよ」
アシュリーは淡々と述べながらも、白い魔障院制服にオリーブルームオイルの染みをつけたまま、疲れた笑みを浮かべる。そばには見知らぬ少女の顔がアシュリーの制服を掴みながら隠れようとする。
メイベルは安堵の息を吐き、制服のスカートを揺らしながら近づく。
「みんな無事で本当に良かった。アリスのことが気に掛かるけど、まずは生き延びることを考えましょ」
メロディ、アシュリー、ベラが同時にコクリと頷く。
礼拝堂の外でトランプ兵の叫び声と市民の啜り泣きが響く。
冷たい風が窓から忍び込み、蝋燭の炎を徒に揺らすと、メイベルは仲間を見回した。1人の少女が目に入ると、視線に気づいた少女はアシュリーの後ろに隠れた。
「アシュリー、その子は?」
「この子はナーサリー・ライム。スラッジオに目の前でお母さんを殺されて、身寄りがなくなってるの」
「そんな……可哀想に。私はメイベル。よろしくね」
「……よろしく」
小声で返事をしながら小さく頷き、アシュリーの袖を握る手が少し緩む。
「ナーサリー、あなたも一緒に来て」
メイベルは教会の祭壇を見つめる。白い羊の彫刻が輝き、アリスの月光の涙を思わせる。
希望の光がヴァフレスの闇を照らし、被災した町の一刻も早い復興を願うばかりであった――。
海城の地下深く、海牢の間は冷たく湿った闇に閉ざされている。
黒曜石の床は水滴で濡れ、微かな水流が表面を流れ、足元でキラキラと光る。
壁は水晶が絡み合い、青緑色の光が弱く脈打つが、瘴気の霧が漂い、光を曇らせる。珊瑚の格子で覆われた牢獄が並び、錆びた鎖の軋む音が反響する。空気は重く、死骸の腐臭と塩気が肺を刺し、遠くで人魚の悲歌が不協和音となって響く。牢の奥ではスラッジオの咆哮が微かに聞こえ、壁に刻まれた海藻や貝殻の化石が震える。人魚族、魚人族、貝類族の捕虜が鉄格子に寄り掛かり、疲弊した目で虚空を見つめる。人魚の女性は尾を折り曲げ、青白い肌が瘴気で薄汚れている。貝類族の老人が甲殻を震わせて囁く。
多くは人魚府に務める人魚たちであったことに、シュレーは驚きを隠せない。
「マルギュグル、何という愚か者じゃ」
「聖殿の意向に逆らえば、星詠みは歪み、あらぬ運命を手繰り寄せてしまうというのに」
アリスは冷たい床の上で目を覚ます。鱗のドレスは瘴気の汚れに塗れ、月光の涙が胸で微かに脈打つ。金髪は湿気で乱れ、アリスは体を起こそうとしながら気づく。自分の頭が柔らかな膝の上にあり、優しい手が髪を撫でている。アリスは慌てて起き上がり、目を疑う。
そこには夢にまで見た白薔薇の女王が座している。長い白髪は絹のように滑らかで、月光を浴びて銀色に輝く。瑞々しい美白の肌は深海の真珠のようで、ホワイトスタードレスは星屑を織り込んだようにキラキラと光る。女王の目は穏やかで、水面のような碧眼がアリスを包む。
微笑みは暖かく、牢の冷気を和らげる。
アリスが女王の目を見つめた瞬間、頭の中で何かが弾ける。
深淵なる忘却が晴れ、封じられていた記憶が断片となり、鍵が外れたように蘇る。
――思い出した。私の家は……このお方の……。
「目を覚ましたのね。運命の少女、アリス」
白薔薇の女王の声は耳を癒すように澄み、牢内に反響する。アリスは息を呑み、床に跪く。
「女王陛下、到着が遅れてしまい、面目次第もございません」
「何を言うの。其方は深淵なる忘却に飲み込まれながらも、私を覚えてくれていたじゃない」
「どうして私に助けをお求めになられたのですか?」
「私は星詠みの導きに従ったまでよ。全宇宙が危機に瀕する時、魔障の掃除番が現れ、運命は切り開かれるであろう。神が私に下さった最後のお告げ。なら懸けるしかないわ」
「人間界の人たちは、みんな女王陛下を忘れています。まるで最初からいなかったかのように」
「無理もないわ。最初に深淵なる忘却を感じたのは王位継承戦争の時よ」
白薔薇の女王はアリスを立たせると、目線を落としながらも過去に触れる――。
王位継承戦争に敗れた白薔薇の女王は、多大な犠牲を払いながらも辺境の地へと落ち延びた。
赤薔薇の女王が支配を強めていく中、白薔薇の女王はカエルバス王国へと脱出を図っていた。
だがある日のこと、白薔薇の女王直属の王族親衛隊が出かけたきり、帰ってくる様子はない。不審に思った白薔薇の女王が恐る恐る外に出ると、ある異変に気づく。
誰1人として白薔薇の女王のことを憶えていないのだ。姿を見ても一向に通報することはなく、トランプ兵でさえ捕らえようとはしないのだ。王族親衛隊は赤薔薇の女王直属の猪目バッジを胸につけて自慢している様子には開いた口が塞がらない。尋ねてみれば、王族親衛隊でさえ、白薔薇の女王を全く覚えていないばかりか、辺境貴族の令嬢と勘違いされ、カエルバス貴族の前に突き出された。
「それで……どうなったんですか?」
「不思議なことに、カエルバス貴族は私のことを覚えていたのよ。事情を説明して、しばらく匿ってもらうことになったわ。類稀な条件を突きつけられてね」
思わず首を傾げ、お互いを見合うアリスとシュレー。
「私は王都ラバン・ディエにまで連れていかれ、カエルバス国王の王位継承を求められた」
「女王陛下はルベルバス王家のはずですが、どうしてカエルバス国王なのですか?」
「カエルバス国王は王室の者でなければ王位継承は認められないが、血筋を辿れば歴代ルベルバス国王に辿り着く。つまり、私にも継承権がある……ということよ」
「私が出会った貴族が妙なことを仰っていたのです。王国民たちは先代王を現国王と思い込んでいると。でもみんなが女王陛下を忘れたと考えれば説明がつきます。なのに女王陛下にカエルバス国王の王位継承の話が出るなんて……まるで神話の森です」
「カエルバス王家は直系の血筋が途絶えようとしている。先代王に子供はなく、近しい親戚もルベルバス王国との戦争で死んでいった。そんな時にカエルバス王家の遠戚でもあるルベルバス王家の者が目の前に突き出された。内心複雑であっただろう。だが案の定、私はカエルバス王国民から歓迎を受けることはなかった。先代王時代に戦争で多くの民を父に殺されたのだ。私を快く思わないカエルバス貴族からの報復を恐れ、逃亡を図った。追手から逃れようと穴の中へ飛び込んでみれば、そこには不思議な世界が広がっていたわ。異界を巡り、天使、妖狐、錻力、精霊、人魚と出会ってきた。ここまで辿り着いたはいいが、聖殿と呼ばれる場所に迷い込んでいたところを魚人兵に囲まれ、囚われの身となった」
「そんなことがあったのですね……」
白薔薇の女王から真相を聞いたアリスは記憶を巡り、静かに時を辿る。
シュレーは何の話かも分からぬまま聞き入っていたが、白薔薇の女王にも居場所がなく、人知れず自己を投影し、並々ならぬシンパシーを感じていた。
箒は取り上げられたが、どうにか脱出を試みようと警備の穴を探る。
珊瑚の檻の外では魚人兵たちが佇み、蟻の這い出る隙間もない。
「女王陛下は人間界に戻られた後、どうなさるおつもりですか?」
「誰からも忘れ去られているなら隠居するわ。だがもし、誰もが私を思い出したならば、どこにいても常に追手が迫り、周囲の者たちにも危害が及ぶだろう」
「カエルバスの王位継承はしないのですか?」
アリスが尋ねると、白薔薇の女王の表情が曇り、目線を逸らす。
「民から支持されない以上、断るしかないわ。名目上はルベルバス王国にいる姉と共同即位したことになっている。既に形骸化した名目とはいえ、私もまた、ルベルバス国王の1人であることに変わりはない。カエルバス国王に即位すれば、多くの混乱を招く。民の想いを踏み躙ってまで、即位する権利はないわ」
「女王陛下のようなお方こそ、即位するべきです。どの道、カエルバス国王が空位になれば、それこそ多くの混乱を招くことになります。私は王都ムウニ・ディンロで貴族たちが王都に閉じ籠り、胡坐を掻いている姿を見てきました。王都ラバン・ディエも同じでした。民の声を知らない貴族たちに王室を継がせるのは危険です。今なら分かります。女王陛下がここにいらっしゃるのは星詠みの導きです。人は誰にも役割があります。女王陛下の役割は、長い因縁を終わらせ、平和を取り戻すことです。なのにそんな弱気でどうするんですか。女王陛下は心優しい誠実なお方です。ですが、優しいだけでは何も守れないのです」
「……私にも、できることがあるというのか?」
「あります。事を収めたら人間界に帰りましょう。夢の中で私に助けを求めたのは、何より女王陛下御自身が、星詠みの導きをご理解されているからではないのですか?」
「――分かった。共に帰ろう。私たちがいるべき場所へ」
アリスはコクリと頷き、白薔薇の女王の手を取った。
白い髪をまとめるように、天使の羽根ペンが簪の如く刺さり、白銀の輝きを見せていた。
「でも、ここからどうやって出るんだ?」
「あっ……考えてなかったわ。でも脱出する方法はあるはずよ」
「脱出してどうするの?」
「ベスティアクアにもスラッジオの危機が迫っています。マルギュグルは人魚の雫を使って海底の都を復活させ、この世界の神になるつもりです」
「実に危険だ。人魚の雫を悪しきことに用いれば、海神の怒りに触れ、再び災いが訪れる。かつて海底の都は栄華を極めていたが、欲望を制御しきれず、資源のために氷山を掘り、魔石を暴走させた。魔石が海神への供物であることも知らずにな」
人魚と思われる男性がアリスに声をかけた。
「マルベンディトル、怪我はもう大丈夫なの?」
「ええ、あなたの治療のお陰です。私はマルベンディトル。人魚府に務める者だ」
「あなたがマルベンディトルだったのね」
「ああ。何故無関係であるはずの君が、ベスティアクアを救おうとしてくれるんだ?」
「異界で起こった問題を放置すれば、いずれ人間界にも影響を及ぼすわ。宇宙は離れているけど、世界は繋がっているのよ。だからこそ、私はこの世界を救いたい。ここにいるみんなのことも、ベスティアクアに住むアニマリーたちのことも、命に代えても守ってみせるわ」
アリスの言葉に捕虜たちは関心の目を向け、同時に久方ぶりの笑みを浮かべた。
白薔薇の女王は目を大きく見開き、思わず頭を下げた。
驚く暇もないまま、珊瑚の檻が開き、魚人兵がアリスを睨みつける。
「人間、さっきからうるさいぞ! そこのペンギンもだ! 出ろ! 痛い目に遭わせてやる!」
魚人兵が高らかに言うと、槍の石突で床を鳴らし、行動を急かす。捕虜や囚人が騒ぐと、看守に外へ引っ張り出され、罰を与えられることは、世界を問わず常識であるとアリスは理解する。
アリスとシュレーが順番に外へ出ると、再び珊瑚の檻が閉まる音が響く。
魚人兵が乱暴にアリスの手を掴み、海牢の間から離れていくと、今度は壁に背中を押し付けた。
周囲を見渡すと、アリスの顔を正面から凝視する。
「ここから脱出すれば、本当にベスティアクアを救えるんだな?」
「ええ、もちろんよ」
「――俺たちはマルギュグル様に逆らえない。畏れ多いことだが、今回ばかりは、あのお方が正しいとは思えん。部外者に頼るのもどうかと思うが」
「そんなことないわ。私も立派な当事者よ。誰であろうと間違うことくらいあるわ。だからみんなの代表として、マルギュグルを説得するわ」
「……行け」
アリスを解放すると、魚人兵たちは海牢の間へと戻っていく。
シュレーの体を持ち上げ、自らの肩に乗せると、音を立てないように海城の中を歩いていく。
星詠みの導きとは不思議なもので、世界の命運をも左右するばかりか、誰かの幸福や不幸にも人知れず密接な関わりを持ち、誰かの願いが時に星詠みの悪戯とも呼ばれる超常現象を引き起こすのだ。
神話作家シャルロット・ガーランドの著書『アビサル・オブリビオン』より




