chapter 2-7 出航
ワンダー号を譲渡され、困惑したまま途方に暮れるアリス。
長年使い古したジミーの分身とも呼べる海賊漁船が誰かの手に渡るなど、モックたちは想像すらできなかった。しかしながら、アリスの船長就任に対して文句を言う者は誰1人としていなかったのだ。
船長は原則投票で決まる。譲渡の場合も同じではあるが、反対する者がいなければ当選である。
魔障が海賊の船長となるのは、実に数百年ぶりの出来事であった。
「船長、どうしてワンダー号を私に?」
桟橋のそばに浮かぶワンダー号のデッキの上からメイベルたちが見守っている。
アリスは後ろを振り返ることもなく、ジミーの後を追いながら話しかけた。
「もう船長じゃねえ。今日限りで辞表も出す。船は煮るなり焼くなり好きにしろ」
「……ジミー、どうしてなの?」
「さっき言った通りだ。お前さんなら、この汚れきった世界を掃除してくれると思った。流行り病だけじゃなく、魔障への偏見に満ちた連中の心に巣食っていた汚れさえ掃除しちまった。ドゥブリスの町に活気が戻った。失われた大飢饉が起こる前の……平和なドゥブリスにな」
「それだけとは思えないわ」
「――お前さんはよく似ている。ワンダー号を設計したジョージ・リデルにな」
「ジョージ・リデル?」
思わず首を傾げるアリス。聞き覚えはないが、妙に脳裏が疼いた。
「世界各地を巡って一山当てた航海士だ。平民ではあったが、貴族と肩を並べるほど裕福だった。奇想天外な発想で問題を解決してきたが、14年前の航海を最後に姿を消した。誰もが海難事故と確信してる」
「でもあなたは違うと思っているのよね?」
「ああ、きっとどこかで生きているはずだ」
「どこに行くの?」
ジミーの行く先には崖の上に墓標が建っている。アリスは言葉を言い終える前に行き先を確信する。
しばらく黙ったまま歩き続けるジミー。背中からは黙ってついて来いと言わんばかりの哀愁がただひたすらに漂っている。アリスは人の気持ちには敏感だ。
基礎魔法が使えないと知ってからは体当たりで人と接してきたのか、言わんとすることが肌で分かる。
墓標にはユリア・ポルトゥス眠ると筆記体で書かれている。
波風の音がアリスの耳に触れると、漠然とした静かな声のように感じた。
「俺の妻の墓だ」
「とても立派だけど、何でこんな誰も来ないような場所なの?」
「誰も来ないからだ。ユリアは人見知りだからな」
「愛してるのね」
ユリア・ポルトゥスの墓標を前に膝を曲げてしゃがみ込むアリス。
魔障に妻を殺され、今度は魔障に形見となる農園を救われ、内心複雑な想いを抱きながらも、ジミーはアリスの隣に立つ。墓標を見上げると、優しくも侘しい顔つきへと変わっていく。
手の平を広げると、冷たい墓標に触れた。
「ユリア、俺は今日で船長を引退する。後を継がせるには丁度良い奴がいた。ちょっと強引なところもあるが、俺が初めて信用した魔障だ。思うことはあるだろうが、こいつは流行り病からドゥブリスを救ってくれた。二度とお前のような被害者を出さないよう、魔障の雇用先を手配するインギルドを始めようと思ってる。あの時は魔障を憎んだ。だが……魔障を見捨てて追い詰めてきた俺たちの責任でもある」
アリスは口を閉じたまま、ジミーの言葉を聞き続けた。
一見退いたかに思えたジミーは過去と向き合う決心を奮い立たせた。再び止まっていた時計の針が動き出したかの如く音を刻み始め、未来への歩みをアリスは確信する。
再び潮風がアリスの耳に触れると、目が覚めたようにワンダー号が視界に入った。
崖の上からドゥブリスまで足を進めた。
口を開くことなく、ジミーはドゥブリスの人混みの中へと消えていく。
「船長、いつ出航するんだい?」
モックがアリスの後ろから鰭で肩をつつきながら尋ねた。
「アリスでいいわよ」
「名前に誇りがあるんだね」
「肩書きは好きじゃないの。ただの役割でしかないみたいだし、自分を見失いそうで怖いのよ」
「そもそも自分って何だい?」
首を傾げながらモックが言った。海亀族でありながら仔牛の鼻を持つモックの姿が目についた。
「魔障院の掃除番よ」
「じゃあ魔障院を卒業したら、ただの掃除番?」
「私は教職を目指しているわ。まずは大学を卒業しないといけないけど」
「どうして教職を目指すの?」
「世界を変えるためよ。次世代の魔障が幸せに生きていけるように」
「今の魔障は幸せじゃないの?」
アリスがワンダー号へと戻る中、モックはアリスに尋ね続けた。
途中から答えるのが苦痛になると、自らのあり方を考えてこなかった事実を痛感する。
ジミーがモックたちに有無を言わさず、力尽くで従わせてきた訳をようやく把握したが、アリスには誰かを従わせる発想はない。アリスがブリスティア魔障院から重点的に教わったのは実学と対話である。
失われた大飢饉はアリスの心にも大きな穴を空けていた。
アリスとモックがワンダー号に乗り込むと、グリフォアとビルが待ち構えていた。
「おっ、戻ってきたな。いつでも出航できるぜ」
ビルが長い尻尾を振りながら気さくに声をかけた。
二足歩行をしながら直立する蜥蜴の姿はアリスに奇妙な印象を与えた。鮫肌のような手で舵輪を掴み、模様の描かれた鱗が目立ち、歯を見せながら目を細めた。
後はアリスの一声を待つのみであった。
「準備が早いのね」
「船長から……じゃなかった。ジミーさんがいつでも出航できるようにしておけと、いつも口を酸っぱくして言ってたからな。癖になっちまったよ」
「昼過ぎには出航するわ。晴れている内にね」
「了解した」
敬礼しながらビルが言った。尻尾は短いが、触角が鋭いのか、常にキョロキョロと先端を使って全方向を見渡している。妙に気になったことはたくさんあるが、まずは出航を優先する。
ピクサーブとマルアスは海への好奇心を隠せず、船内を観察して回っている。
メイベル、メロディ、ベラは初めての出航を前に興奮を隠せない。
アシュリーは船内に籠り、船長室に置かれている古本を読み漁っている。
「アリス、ジミーとコリーが抜けた以上、人手が足りないぞ。もう1人はどうする?」
半ば呆れた様子のビルが目を半開きにさせながら尋ねた。
「心配ないわ。ここにもう1人いるじゃない」
コッツの鼻先を指差しながらアリスが言った。
「何? 俺も連れていくというのか?」
「雇用先がないんでしょ? だったら次の雇用先が決まるまでの間、船員として働いてほしいのよ」
「それは願ってもないことだが、俺には何の実績もねえ。本当にいいのか?」
「ええ。ちょっと掟が面倒だけど、それでもいいなら歓迎するわ」
「ほらよ。読んだらここにサインしてくれ」
クック海賊団改めブリスティア海賊団の掟一覧が書かれた契約書をビルが手渡した。
「用意周到ね」
「アリスがカエルバスに行きたいと言った日にジミーが発行した読んだらアリスをカエルバスに行かせたいけど、自分は行きたくない。でも他に行く当てがないとなれば――」
「船を譲渡すればいい。個人船なら魔障であっても渡航できるし、ちゃんと考えてくれていたのね」
メイベルがアリスに抱きつきながら言った。
海の天気は変わりやすいと聞いたアリスは明らかに焦った。
出国に制約のあるルベルバス王国の魔障にとって、カエルバス王国は未知の領域であった。
「忘れ物はない?」
「ええ。いつでもいいわよ」
意気揚々とメイベルが返事をすると、アリスはビルに向かって頷く。
グリフォアが両手で船の後ろから押し、軽々と砂浜から押し出した。
ワンダー号が水面に浮き、グリフォアが翼を羽搏かせ、空から船の上に降り立つと、デッキの上が少しばかり揺れた。アリスが体をふらつかせていると、ベラが船内から姿を現した。手にはターコイズが嵌め込まれた船長帽がある。洗ってはいるが表面の色はくすんでいて、長年使われていたことが見て取れる。船長帽の正面に描かれた菫の紋章はアリスに風格を与えていた。
――カエルバス王国、噂には聞いていたけど、どんな国なんだろう。
潮風に髪を預けるように靡かせるアリス。
海岸からは人知れずワンダー号の出航を見守るコリーが佇んでいる。
船が沖へと離れていくと、コリーはポケットに手を入れたまま笑みを浮かべ、海岸を後にする。
透き通った雲が漂う快晴の空を見上げ、船の周囲にはお零れに与ろうと鳥類が舞う。
「旅がそんなに心配か?」
「ビル、操縦はしなくていいの?」
「ああ、さっきアリスが持ってきてくれた魔石のお陰だ。舵輪を掴みながら思い浮かべた場所ならどこへでも自動操縦で行ける。一度行った場所じゃねえと意味がねえけどな」
ビルが指鰭を真っ直ぐ伸ばした先には独りでに左右に曲がる舵輪がある。
魔石の効力は多岐に及び、魔導具の材料から魔力の強化までお手の物だ。
赤い魔石は燃えやすく、燃料としての適性を持つ。青い魔石は水に溶けやすく、溶けた魔石を体に馴染ませることで体内に鰓が生え、水中での呼吸を可能にする。緑色の魔石は草木を生やし、荒れ果てた大地を潤す力を持つとされる。無論、魔石の効果は不明点も多く、日々研究が進んでいる。
「カエルバス王国まで行ったことあるの?」
「何度も行ってるぜ。今は魔石がすっかり高騰しちまって、近くの沖までしか行けねえけどな」
「どんな国なの?」
「自然豊かでひんやりとした国だ。魔障院制服なら多少の寒暖差には耐えられるだろうが、念のためにもっと分厚い服を調達した方がいいかもな。王都ラバン・ディエは魔法都市の中でも堅牢な守りを誇る城郭都市だ。ルベルバスの大軍でも奪えなかったくらいだからな」
「頼もしくて何よりね」
アリスの目にモックの姿が映る。そわそわとしながら見張り台に設置された望遠鏡を覗いている。
陸に沿うように北へと進むが、道中には見たこともない港町や海岸都市が見えている。
【女神の箒】を召喚すると、穂先が望遠鏡の形へと変わっていく。アリスも穂先の反対側から陸地を覗き、目には壁や地面にこびりつく汚れが見えている。
箒からしか見えない汚れに誰かが気づくこともなく、アリスはため息を吐いた。
コッツはグリフォアに役割を尋ねながら仕事に従事する。
「ラバン・ディエまでどれくらいかかるの?」
「早くて半日ってとこだな。赤い魔石があれば休むことなく進める。白い魔石なら空を飛んであっという間に着いていただろうが、希少価値が高い上に、使うのはいつも貴族ばかりだ」
両手の平を上に向けながら息を吸うように皮肉を言うビル。
「モックやグリフォアとは仲良いの?」
「良いわけねえだろ。クック海賊団を結成した頃なんか、いつも報酬と酒の取り合いだ。掟というのは、仲が悪くても共存するためにあるのさ」
26年前、ジミーが酒場の仲間を集い、ワンダー号の完成と初出航を思い出すビル。
漣の音に耳が慣れてくると、日光が藍色の雲に遮られた――。
王都ムウニ・ディンロに1人のカードに乗ったトランプ兵が降り立った。
慌てた様子で王都内に建つ黄色い三角屋根の家に着くと、板のようなチョコレート色の玄関扉を叩きながら面会を促した。トランプ兵長が兜も被らないまま玄関の異変に気づく。
「何だ? これから出張するというのに! ――お前、どうしたんだ?」
「兵長、大変です! アリスが海賊漁船に乗って出航しました!」
「何っ!? アリスが出航しただと! ……分かった。行き先は恐らくカエルバス王国だ。グレイシャー逮捕の依頼を出したのは私だ」
「本当に行くんですか?」
「ああ。王都に残していた仕事は一段落した。誰かに私がいるかどうか聞かれても、出張のためいないとだけ答えてくれ。お前の代わりなどいくらでもいると言っていた連中から心配される謂れはない」
「絵札親衛隊のことを相当根に持ってますよね」
「……ご苦労だった。もう行っていいぞ」
「はっ!」
トランプ兵が敬礼すると、再び職務へと戻っていく。
黙ったまま荷物をまとめ、家の前に停めてある馬車へと詰め込んでいく。
面倒なことに、絵札親衛隊にも序列が存在する。
王族親衛隊、貴族親衛隊、国賓親衛隊、特命親衛隊といった役割を持ち、トランプ兵の目付け役とも言えるのが特命親衛隊であった。特命親衛隊長ジャック・ネイブ監視の下、トランプ兵長は過酷な雑務を強いられ、王都から抜け出せずにいた。無論、大半は屈するが、中には猛者たるトランプ兵長もいる。
代わりなどいくらでもいると言われれば最後、過剰な仕事を押し付けられ、拒否しようものなら職務怠慢を理由に自主退職を促されるが、仕事を唯一免れる手段こそが、指名手配犯逮捕の長期出張であった。
馬車に乗り、王都の門を出ると、馬は地面を擦る車輪を回し、一直線に北へと進む。
この世で最も愚かで醜い魔法は何かと問われれば、誰もが錬金魔法と答える日が来るだろう。生きている間に全ての錬金魔法の記録を消去することが錬金魔術師最後の使命になろうとは、何という皮肉だろうか。
古代錬金魔術師ロレッタ・アルジェントの著書『禁忌の錬金魔法』より




