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Alice in Abyssal Oblivion  作者: エスティ
第2章 黄昏の人魚と海底の都
54/109

chapter 2-4 楔の傷

 アリスは箒に跨ったまま、目にも止まらぬ速さで一直線に風を切る。


 潮風が吹き、漣の音が心地良く耳に響けば、港町ドゥブリスは近い。


 1隻の船が波に揺られ、港近くの筏用の木材で作られた桟橋に浮かんでいる姿が見えた。海賊漁船ワンダー号の中には誰1人としていない。ジミーが船から離れている時は決まってドゥブリスの中にいる。


 道行く人々の目にアリスの姿が映る。


 魔障を見れば石をぶつける者さえいる。だが町の人々の反応はむしろ真反対だ。


 流行り病の治療を受け、完治した患者の1人は今も酒類を掻き集めては拭き掃除に徹し、家周りの掃除や洗浄が習慣として根付き、水資源に恵まれたこの地では容易なことであった。


「あの子、アリスじゃねえか?」

「ああ、間違いねえ。俺たちの救世主だ!」

「ねえ、ジミー船長がどこにいるか知らない?」

「ジミー船長なら出航してるか、ポーティアにいるんじゃねえか。ここらじゃ町1番の酒豪だからな」

「ポーティアね。ありがとう」


 一目散に港町の大衆酒場ポーティアへと赴いた。海辺の大きな桟橋を改築した酒場は海賊の溜まり場とも称される。葉巻の匂いが漂い、丸いテーブルの上ではウイスキーやビールが置かれ、そばにはチェス盤やトランプカードが置かれている。裏面には真っ赤な王冠が描かれ、いくつもの尖塔が描かれている。


 男が扇形となった5枚のカードが同時にテーブルに置く。


 真向かいに座る男がニヤリと金歯を見せると、5枚のカードを軽く投げるように置いた。


「けっ! また負けかよ! 今日はついてねえ!」


 ジミーが踏ん反り返りながら顔を天井に向けた。


 アリスはスイングドアに手を触れると、溜め息を吐くジミーを見つけた。さっきまでジミーのそばに置かれていた銅貨は全て真向かいの男の手に渡り、席から立ち上がる。


 カウンター席に腰かけ、腰から伸びるキッチンタオルでグラスを拭くフェンリスが佇んでいる。


「今日は大負けのようだねぇ~」

「今月のボーナスが全部パーだ。まっ、金は天下の周りもんだ。また貯めりゃいい」

「いらっしゃい。おっ、珍しいお客さんだ」


 スイングドアを通過したアリスの足音にフェンリスが真っ先に気づく。


「アリス……無事だったのか!?」


 目を大きく見開きながら慄くジミー。


「ええ、お陰様でね」

「新聞で永劫の獄にぶち込まれたと知った時は助からねえと思ったが、全く大した小娘だ」

「ジミー船長と同じやつを頂戴」

「あいよ」


 フェンリスは口角を上げながらグラスを取り出し、やや黒みがかった琥珀色の液体を注いだ。


「ここに来たってことは、何か用があるんだろ?」

「ええ。私、どうしても今すぐカエルバス王国まで行く必要があるのよ」

「カエルバスだと。それまた何故だ?」


 アリスのそばにコースターが置かれ、その上には音がするくらいに冷え切ったウイスキーが入ったグラスが音もなく置かれた。氷がピキピキと鳴り、アリスの耳まで届いた。


 ボトルに入ったウイスキーをグラスに注ぐジミー。


 ジミーのグラスには最初から氷など入ってはいなかった。


 事情を説明するアリス。一杯口に含むが、酔っ払う様子はなく、むしろ覇気が増している。


「あのグレイシャー・フロストが脱獄か。グレイシャーといい、お前さんといい、最近の魔障は随分と恐ろしい存在になったもんだ」

「兵長が言うには、陸路でも空路でも魔障は検閲に引っ掛かって渡航ができないらしいのよ。カエルバスに行くには海路しかないわ。でも国営の渡航便はグレイシャー脱獄の件もあって、魔障の乗船が禁止されているのよ。制服を着ていなくても魔力感知でバレるし、もうあなたしか頼れる人がいないの」

「なるほどな。それでまたドゥブリスまで来たってわけか……済まんが他を当たってくれ」

「どうしても駄目?」

「……ああ」


 ジミーは後ろめたそうに目を逸らし、乾いた喉を潤そうとウイスキーを流し込むように飲み干した。


「おやおや、仲良しそうにしている割にはジミーを知らないようだ」

「あなたは船長をよく知っていそうね」

「開業以来の常連だ。大漁の時は恵んでもらうこともあった」

「けっ! 過去形かよ! とんだ厄日だ!」


 のっそりと立ち上がり、いくつかの青銅貨をカウンタートップに音を立てながら置いた。


 スイングドアが跳ね返るほど乱暴に押した。向かった方向からワンダー号とアリスは察した。


 賭けに負けた不機嫌さかと思えば、後ろ姿からは怒りや不満よりも寂しさが窺えた。


 姿が見えなくなるまで見届けると、手段を失ったアリスは途方に暮れ、目の前に置かれたウイスキーを口に含み、力なくコースターに置いた。思わず息を吐いた。箒で飛んでいくわけにもいかない。


 ましてやアリスは永劫の獄へと収監されてからは捕まることへの恐怖が植えつけられ、背中を押されなければ微動だにしない自らに苛立ちさえ抱いた。


「責めないでやってくれよ。ジミーは魔障に奥さんを殺されているんだ」

「そのことなら知っているわ。詳細は聞いていないけど」

「ジミーの奥さんを殺したのは魔障盗賊団の一味だ」

「! 魔障盗賊団ですって!?」


 思わず席から立ち上がり、注目を浴びるアリス。


 ハッと我に返ると、ゆっくりと椅子に体重をかけた。


 再び常連たちが話し始めると、アリスは思い当たる節に気づいた。グレイシャー・フロストの話をした途端から聞く耳を持ちたがらないばかりか、話題にさえ触れたがらない様子であった。


 ――そういうことだったのね。なのに私ったら……。


「今から20年程前のことだ。ジミーの奥さん、ユリア・ポルトゥスはドゥブリスにまで及んだ大飢饉のために王都まで買い出しに行ったんだ。あの頃は失われた大飢饉(グレート・ロスト)と呼ばれた時期だったからな。お前さんは知らないかもしれんが、あの頃は平民たちが挙って職に飢えていた。どこもかしこも大飢饉で物価が上昇し、貴族の雇用主でさえ、店を畳む者が後を絶たなかった。みんなして雇用を渋っていたのは無理もない話だが、特に割を食ったのは魔障だった」

「その話なら院長先生や兵長から聞いたわ。でも飢饉なんてよくある話じゃないの?」

失われた大飢饉(グレート・ロスト)はカエルバス王国との戦争後、田畑や森林が荒廃した直後という最悪のタイミングで起こった。あれは明らかに天災であると同時に人災でもあったが、王都の新聞は都合の悪い事実だけは記事に載せない。復興する間もなく作物が採れなくなったことで事態は深刻化した。平民の多くは各魔法都市を駆けずり回った末、薄給で農奴や職人の仕事にありつけたが、魔障は魔法が使えないために、魔法都市でも地方都市でも仕事にありつけなかった。そこで結成されたのが――」

「魔障盗賊団ってわけね。表向きは何でも屋で、裏では闇市を営んでいたと聞いたわ」

「闇市に仕入れられていたのは、専ら貯蔵庫から盗んできた作物や資源だった。ユリアはドゥブリスに戻る途中、王宮貯蔵庫から逃げて来た魔障に襲われて命を落とした。ユリアだけじゃねえ。逃走中に魔障盗賊団を見た者は皆殺された。証拠隠滅と乱取りでな」

「どうりでグレイシャーの話を聞きたがらないわけね。そういうことなら、無理にお願いはできないわ」


 席を立ち、ポケットから財布袋を取り出した。アリスにも思うところはある。


 魔障は戦争や飢饉の際、武器を手に乱取りを行う時代が続いた。住民から金品を掻っ攫い、闇市に売っては市町村を離れ、日雇いの採取使用人として魔障求人に駆り出されることの繰り返しであった。


 戦力にならない魔障が戦争に駆り出されることはない。故に彼らは兵士として報酬を受け取ることさえままならないのだ。魔障に手を焼いていた住民の声もあり、修道院解散後、魔障院が瞬く間に普及した。


「5ペニングだ」

「随分高いのね」

「スラッジオの侵攻が活発化してからはずっとこの調子なんでねぇ~」


 アリスは苦笑いを浮かべながらも銅貨を支払い。店の外へと足を向けた。


「まいどありー」


 気さくに低い声で呼びかけるフェンリス。アリスの後姿からは途方に暮れた情緒が見えた。


「どうしてもカエルバスまで行きたいのか?」


 アリスがスイングドアに手をかけると、フェンリスが再び声をかけた。


「……ええ、どんな手を使ってでも、必ず行くつもりよ」


 後ろを振り返ったアリスが決意を秘めた真顔を向けた。


「ジミーを説得する方法が1つだけある」


 長い八重歯を見せながらフェンリスが言うと、1枚の畳まれた地図を引き出しの中から取り出し、カウンターテーブルの上に置いて広げると、ドゥブラ海峡近くの山がアリスの目に入った。


 グラン鉱山は港町ドゥブリスの果て、人気のないドゥブラ海峡近くにある。


 有史以来、主に魔導具の動力となる魔石を採掘する目的で開拓が行われた。新たな地層を掘り当てるように魔石の乱獲が行われたが、やがてルベルバス王国が成立すると、国営鉱山に指定され、貴族が牛耳るようになったが、ある時から誰も近づかなくなり、クリーチャーの巣窟と化した。


 現代では豊富な資源があるユリゼン大陸の一部を植民地にしてからは輸入に頼りきり、ルベルバス王国の財政を支えていることもあり、グラン鉱山は放棄された。鉱夫に代わり、魔石船が重宝されるに至る。


「ワンダー号は海賊漁船ではあるが、元々は高飛びするために作られた船だ。魔石を積めば空を飛べる。だが今は魔石も買えない身分だ。当然船は原始的な方法でしか動けない。しかもここら一帯はルクステラの海賊がうようよいやがる。北に行けば当然カエルバスの海賊が牛耳っているだろうよ。魔石があれば逃げ切れるだけの速さで航海できる。だからあまり遠出はできねえんだ」

「魔石があればいいのね。私、グラン鉱山に行ってみるわ」

「別に構わんが、命の保障はないぞ。何せあそこは危険なクリーチャーの巣窟だ。グラン鉱山を牛耳っていた貴族が慌てて放棄したくらいだ。いくら流行り病を掃除したお前さんでも――」

「心配ないわ。どんなクリーチャーでも、全部私がお掃除するわ」

「ふっ、そうかい」


 呆れながらも両手の平を上に向けるフェンリス。


 アリスはポーティアを飛び出し、海岸に停泊するワンダー号へと足を進めた。


 クック海賊団が騒がしく愚痴を飛ばしながら木箱の山を見つめている。


 ジミーとコリーの他、海亀族のモック、鳥獣族のグリフォア、蜥蜴族のビルが何かに急かされるように作物と資源を木箱に詰めて持ち運び、ワンダー号の船内貯蔵庫が所狭しと埋まっていく。


「漁業に行くの?」


 アリスが船内に居座るジミーとコリーを見上げながら呼びかけた。


「またお前さんか。言っておくが、カエルバス行きはお断りだ。グレイシャーをとっ捕まえるってんなら応援はするが、これ以上魔障盗賊団の件に関わりたくはねえ」

「そうそう、どの道魔石がねえと、カエルバスまで行けねえからな」

「余計な口を挟むんじゃねえ!」


 ジミーがコリーの頭に拳を力一杯ぶつけた。


「痛っ! 勘弁してくださいよ~!」

「口を動かす暇があるなら体を動かせ! 明日には出航するんだからな!」


 逃げるように船を降りると、中に物が詰まった木箱を持ち上げ、モックたちと運び始めた。


 溜め息を吐きながら額に汗をかく姿を見ると、箒の中に居座っているメイベルが口を開いた。


「アリス、私も手伝うわ」

「メイベル」

「私もやろう」

「俺も手伝うぜ。アリスのためだ」

「私もやる」

「あたしも」

「……私も」


 アリスが【女神の箒(ゴッデスイーパー)】を召喚し、穂先を吸い込み口に変形させると、中から飛び出すようにメイベルたちが颯爽と現れ、モックたちを手伝い始めた。


「私たちにも手伝わせてくれ。船員の仲間としてな」


 ピクサーブがモックに向かって言うと、木箱を両手に持ち、軽々と運び出した。


「おい、何勝手なことを――」

「アリスはワンダー号の船員として登録されているはずだ。お前の事情は知っている。無理にカエルバスまで行けとは言わんが、私もマルアスもアリスの仲間として船員に加えてもらいたい」

「船長、丁度良い機会じゃないですか。うちは喉から手が出るくらい人手が足りないんですから」

「……勝手にしろ」


 あからさまに不機嫌な様子で船内へと引き籠り、代わってコリーが陣頭指揮を執る。


 ピクサーブは手書きで、マルアスは蹄で同意書にサインし、メイベルたちが後に続く。


 晴れてワンダー号の船員として認められると、見返りを求める様子もなく、アリスたちは木箱の運搬を始めた。船内貯蔵庫は瞬く間に荷物で埋まり、ジミーは船長室で椅子に深々と腰かけながら傾けたボトル内の液体を口の中へと注ぎ込んでいく。大きく息を吐き、扉越しにアリスたちの様子を窺おうと耳を扉に近づけた。アリスに諦めるつもりがないことを見抜くと、目を半開きにさせながらボトルを机に置いた。


「モック、この前はありがとう。お陰で助かったわ」

「僕は言われた通りのことをしただけだよ。誰かさんが素直じゃないもんでね」


 呆れ笑いを見せながらモックが言った。目線の先は常にアリスの顔に向けられていた。


 太々しい仔牛のような鼻をヒクヒクと震わせ、照れ隠しをする様子はアリスの心を和ませた。

 不能型の魔障は主に下級使用人として雇用主の下で働くことを余儀なくされるが、景気に左右されることも少なくない。取り分け飢饉の際は成績に関係なく魔障の雇用を締め切り、真っ先に排除されてきた。


 魔障学者アーサー・アーデルハイトの著書『不能の研究』より

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