表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Alice in Abyssal Oblivion  作者: エスティ
序章 魔障院の掃除番
5/97

chapter 0-5 狂ったお茶会

 大樹に囲まれた広場は比較的明るく、階段付きの玄関が聳える一軒家が建っていた。


 一軒家の屋根の上は大きなシルクハットがかぶるような形で飾られている。


 家の前には白く長いパーティーテーブルがあり、テーブルの上にはうるさいくらいに物がたくさん置かれている。取っ手のついたティーポットには白薔薇と王冠が描かれている。


 真っ白なスノードロップが華やかに描かれたカップやソーサーに鮮やかな茶色の紅茶を淹れる三月兎が山鼠と談笑しながら淹れたばかりの熱い紅茶を飲み、熱さのあまり飛び上がった。ロビットもしれっと椅子に腰かけ、何事もなかったかのように小さな人参を口に頬張っている。奥の席には大道芸人の形をした男が紫色の帽子をかぶり、肩を揺らしながら紅茶の香りを嗅ぎ、気分を落ち着かせている。


 呑気にパーティーを開いている体たらくに、アリスは開いた口が塞がらない。


 一定の距離毎に、ケーキ、スコーン、サンドウィッチ、スモークサーモンなどが乗っている3段重ねのティースタンドや椅子が並び、ダフォディルやクロッカスの花が広場を囲むように咲き乱れている。


 マナーなどあってないようなもので、手の届かない場所にある食べ物を取ろうものならテーブルに上がって取りに行く始末だ。生真面目な王宮の執事であれば、無作法にも程があると怒り狂って乗り込むだろうが、アリスにとってはどうでもいいことだ。何より気掛かりなのは、歪みの森の最奥ではなかったことである。一軒家の後ろには更なる一本道が続き、広葉樹が連なっている。


 アリスはロビットの様子に呆れながら息を吐いた。


「君も参加するかい?」


 急に謎の猫がアリスの目の前に姿を現した。


「この狂ったお茶会に?」

「狂ったお茶会か。でも最高だろ? 何も気にしないで飲み食いできるんだ」

「作物が不足していたんじゃなかったの?」

「ああ、()()()()ではね。空腹な俺たちにとってはご馳走だ」


 妙な言い回しに違和感を覚えるアリス。


 謎の猫が手前の空いている席までアリスの肩を優しく押しながら案内する。狂ってはいるが、賑やかで楽しそうな雰囲気には羨望さえ感じた。


 蝶ネクタイとチョッキを着用し、頭に麦藁帽子を巻きつけている三月兎がアリスに気づく。


「あっ、アリスだ! 何でこんな所に?」

「ええっ! アリスって、あのアリス?」

「おっ、やっと来たか。こっち来いよ。美味いぜ」

「あの頃よりずっと大きくなっているが、きっと俺たちのアリスだ」

「――アリスだって?」


 アリスは奥の席に着く帽子をかぶった男と視線が一致する。


 帽子をかぶった男がテーブルの上に足を乗り上げ、アリスの元へと笑いながら走っていく。


 まるで再会したかのように、何の躊躇いもなくアリスに抱きついた。戸惑いながらも、アリスは帽子をかぶった男の抱擁を受け入れ、ブロンドの髪が帽子に触れた。肩につくほどの長い橙色の髪からコロンの香りを嗅ぎ取り、どこかで嗅いだことがあるようなと言わんばかりに目を細めた。


 アリスの両肩を掴みながら口角を上げた。


「アリス、やっぱりそうだ」

「待って。私はあなたたちのことを何も知らないの。どこかで会ったことある?」

「おいおい、せっかくこうして再会できたってのに、そりゃないだろ。君がまだ幼い頃だ。毎週こうしてティーパーティーに参加してくれていたじゃないか。くだらない世間話をしながら、夜まで踊り明かしていたのが昨日のように思える。もっとも、アリスはいつも途中で帰ってしまうんだ。ティーパーティーで散らかったゴミを全部綺麗に掃除してからね」

「――ごめんなさい。私、魔障院に入学する前のことは何も覚えてないの。両親がどんな人だったかも全部……気づいたら魔障院生になっていたわ」

「そうか、でもいつか思い出せるさ。こうして再会できたんだから。僕はハッター。文字通り、歪みの森で帽子屋を営んでいる。衣装なんかも売っている。ここは人里離れていて、心が落ち着くんだ」

「その意見には賛成だけど、退屈にならない?」

「そうでもないぞ。毎日楽しいさ」


 ティーポットを手に取り、カップに紅茶を淹れるハッター。


 退屈凌ぎなどという発想はない。変化を感じにくく、ゆったりとした毎日をボーッと過ごすことも、人が来ない帽子屋を営むことも、ハッターにとっては掛け替えのない日々だ。


 ロビットたちはくだらない話題を飽きることもなく延々と繰り返している。


「ハッター、教えてほしいことがあるの」

「いいとも。積もる話もあるからね」


 ニヤリと歯を見せながら席に着くと、真向かいの席を指差し、アリスを座らせた。


 アリスは幼き過去を思い出せない。


 思い出そうとすると、鍵がかかったように思考停止するのだ。アリスは無に帰した過去に興味を持ちながらも、今日までずっと忘れたつもりでいた。


 今日ハッターによって過去を意識させられるまでは。


「僕の仲間たちを紹介しよう。白兎のロビットは知っているだろう。三月兎のヘイヤ、山鼠のドーマ、魔猫のチェシャ。ずっとアリスを待っていた。歓迎するよ」

「感謝するわ。つかぬことを聞くけど、ハッターって本名なの?」

「良い質問だ。実を言うと、何故か本当の名前を思い出せないんだ」

「あなたも過去を忘れてしまったの?」

「いくつかの過去はね。初めて名前を忘れていることを自覚した時は、無断で存在を消去された気分だったよ。まるで最初からいなかったかのように。実に不思議な感覚だ」


 面白おかしく笑いながら話すも、ハッターの目からは朧気ながら侘しさが見える。


 ハッターが狂ったお茶会を開いていたのは、昔から行っていた習慣を繰り返せば、過去を思い出せるかもしれないからとアリスは考えた。帽子を深くかぶり、表情を悟られまいとするハッターにとって、名前は尊厳以外の何ものでもなかった。肝心な記憶に限って忘れてしまう理由さえ分からず、人に会うことすら拒むようになると、誰も来ることのない帽子屋を開業し、歪みの森に棲むアニマリーたちに帽子と衣装を振る舞っていたことは想像に難くなかった。


 アリスとて他人事ではない。全ての魔障院生の名字が魔障院名と同じとなったのは、およそ数百年ほど前にまで遡る。捨て子か行方不明者となった魔障にのみ与えていた仮の名字が魔障院所属の習わしとして定着した。元々は隠居した修道女たちが施設で魔障を保護する役割を担っていた。その場所はいつしか魔障院と呼ばれるようになり、先代王の王命による修道院解散後、各地で一斉に普及した。


 魔障の中には親公認の名字が存在する者もいるが、魔障院生となった場合は名字を捨て、合格卒業を決めてから新たに与えられた名字で生活することが強固な慣習となってからというもの、魔障は人間としての尊厳さえ失うに至った。やがて魔障が担っていた仕事までもが奪われていき、隅へと追いやられる格好となったが、魔障の存在意義は、魔障院で活動することであるとアリスは気づいていた。


 ハッターから話を聞いたアリスは、自分たちが記憶を失っている状況が妙に腑に落ちた。


「子供の時のことなんて、憶えてない方が普通だと思っていたわ」

「遠い過去であっても、憶えていることだってある。むしろ全部忘れている方が不自然だ」

「ハッター、これは一体どんな現象なの?」

「心当たりならある。アリスは『アビサル・オブリビオン』という言葉は聞いたことないかい?」

「アビサル・オブリビオン――確かどこかで……」


 顎に手を当てながら唸るアリス。1冊の本がすぐ頭に浮かんだ。


 かつてルベルバスの外から伝わった御伽神話であり、一昔前まで出版されていた本の名前である。


 御伽神話が意味するところは『深淵なる忘却』という謎の現象についてである。


 単なる忘却であれば、何かのきっかけで思い出すこともあるが、深淵なる忘却に至った場合、何があっても思い出すことはない。自分だけでなく、周囲の人々までもが、まるで最初から知らなかったかのように忘れている現象として描かれている。神話にしては珍しく詳細に書かれているが、世界の真実へと辿り着かない限り、深淵なる忘却から解放されることはないと言及される形で完結している。


 皮肉なことに、アビサル・オブリビオンという本自体も人々から忘れられつつある。


「思い出したかな?」

「ええ、でもあれって御伽神話じゃないの?」

「いや、アビサル・オブリビオンは単なる御伽神話じゃない。歴とした事実だ。現に君は僕のことを忘れているし、僕も自分の名前を忘れている。それとも他に仮説があるか?」

「もしその御伽神話が事実なら、真実へと辿り着ければ、過去の記憶を思い出せるかしら?」

「それは君次第だ」


 ニヤリと笑みを浮かべながらハッターが言った。


 アリスは紅茶を口に含み、ホッと一息吐いた。


 一軒家の後ろにある道が再び目に入り、深い緑の広葉樹が風に揺られている。夜を迎える前に魔障院へと戻らなければならないことを思い出したアリスが席から立ち上がり、足を踏み出した。


「アリス、君がここに来た理由は?」

「異変の正体を突き止めるため」


 アリスは【女神の箒(ゴッデスイーパー)】を召喚すると、穂先が吸い込み口に変わり、中から龍の頭蓋骨を取り出した。ハッターの目の前に龍の頭蓋骨を差し出すと、表情が難癖をつけるように歪む。


「これに見覚えはあるかしら?」

「何を出すかと思えば、ジャバウォックの頭蓋骨じゃないか。どうしてアリスがこれを?」

「スラッジオが体の中にこれを持っていたわ」

「何だって。まさかスラッジオと戦ったのか?」

「ええ、すぐお掃除したわ。汚れのお掃除は得意中の得意よ。歪みの森から現れたと聞いて、ここに来れば何か分かると思ったの」

「……やはり王都にまで進出していたか」


 ハッターがボソッと呟く。妙な確信を持った様子に、アリスは首を傾げた。


 ヘイヤがアリスの前に立ち、麦藁帽子を突き破って出ている長い両耳をピクピクと震わせた。


 顔は震え、額からは冷や汗が流れている。手にはカップを持ち、龍の頭蓋骨を見つめながらアリスの様子を窺っている。アリスはヘイヤの気紛れな言動を不審に思いながら脚をしゃがませた。


「ヘイヤ、もしかしてこれが怖いの?」

「そりゃ怖いさ……ジャバウォックは俺たちから平和を奪った……にっくき邪龍だっ!」


 突然声を荒げ、自らが腰かけていた椅子に向かってカップを勢い良く投げつけた。


 音を立てながらカップがバラバラに割れ、ヘイヤは肩で呼吸をするように息を乱した。


 雑談が止まると、アリスはようやく事の重大さを理解する。歴史書にも載っていたジャバウォックが王国の命運を大きく左右したかと思えば、頭蓋骨となって見つかることは、敗戦の痛みを抱える者たちにとっては神経を逆撫でされる格好以外の何ものでもなかった。


「落ち着いて。一体何があったの?」

「ジャバウォックはルベルバス北部を焼き尽くした……この世の地獄だ」


 感情が高ぶっているヘイヤに代わってハッターが答えた。


「赤薔薇の女王は、ルベルバスを恐怖で支配する血塗れの女王よ」


 ため息を吐きながら残念そうにドーマが言った。


 ロビットが椅子から立ち上がり、二足歩行のまま降りると、アリスの近くまで歩み寄る。


 背伸びをするようにドーマがロビットの隣に並んでいることからも、ハッターを取り巻くアニマリーたちの仲睦まじい様子が窺える。ようやくヘイヤが落ち着きを取り戻すと、テーブルの上を飛び越え、ハッターの肩の上まで攀じ登り、少しばかり遠くにある雪が積もった山脈を眺めた。


「ロビット、私のことを知っていたの?」

「いや、最初は確信が持てなかった。みんなアリスの顔をすっかり忘れていたからな。でもまさか本物に再会できるとは思わなかった。ハッターが言うんだから間違いない」

「アリス、悪いことは言わない。今すぐ王都を離れるんだ。赤薔薇の女王は魔障に対して強い嫌悪感を持っている。何をされるか分からんぞ」

「ハッター、心遣いはありがたいけど、そういうわけにはいかないわ。たとえどんな結末が待ち受けていようと、決して背を向けてはいけないもの。何だか分かる?」


 意外な問いを受け、ハッターは鼻で笑った。


「――人になぞなぞを出されたのは初めてだ」

「運命だろ?」


 不意にチェシャがアリスの前に現れ、空中を漂うように浮遊する。


「チェシャ、その現れ方はどうにかならないの?」

「癖になってるもんでね」

「もし……赤薔薇の女王が魔障を排除しようとするなら……容赦はしないわ」


 小さな手で【女神の箒(ゴッデスイーパー)】を持ち上げ、掲げながら覚悟を示した。


「ハハッ! 本当に君は……小さい頃から変わってないな。大人顔負けのブラックジョーク、根拠のない過剰なまでの自信、細かいことをいちいち気にせずにはいられない観察眼。君が魔障院でどのような扱いを受けているかはその性格を見れば分かる」

「……私は特に成績が悪いから――!」


 アリスがそっぽを向くと、ハッターは後ろから優しく抱擁する。


 帽子屋特有の繊維の匂いがアリスの鼻を吹き抜けると、今まで感じたことのない温かみを、アリスは初めて知ったように黙ったまま受け止めた。


 曇り空から一筋の光が差し込み、アリスを明るく照らした。

 時折神話の如く、見たこともない異界へ行った話を語る者がいる。にわかには信じ難いが、彼らが持っている異界の書物は異なる言語と文法で書かれ、作物は異なる形と味であることは実に興味深い。


 魔草学者セドリック・オーウェンの著書『異界の神隠し』より

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ