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Alice in Abyssal Oblivion  作者: エスティ
序章 魔障院の掃除番
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chapter 0-4 歪みの森

 翌日、王都から届いた新聞の見出しに誰もが目を疑った。


 魔障院の掃除番がスラッジオを倒すという見出しだ。名前こそ載っていないが、その正体がアリスであることは、級友たちの誰の目にも明らかであった。


 何やら外が騒がしい。アリスは青色のパジャマ姿のまま、寝室の外から聞こえる騒ぎの声に叩き起こされた。ベッドの隣ではロビットが小さな鼻息を出しながらお構いなしに眠りに就いていた。目を細く開けながら大きく口を開けて欠伸をすると、身支度を済ませてから食堂へと赴いた。


 寮によって朝から夜に至るまでの時間帯毎に役割分担が存在する。


 勉学において優秀な生徒が所属するアルブムシルヴァは行事予定表の作成、体力自慢の生徒が所属するニグルムモンテムは重い物資の運搬、社会性に長けている生徒が所属するルベルムヴァレムは近くの町や魔障院内での新聞配達を行い、特に大した能力が目立つことなく無適性と判断された生徒が所属するカエルレウムマレは調理補助と決まっている。


 しかし、アリスは調理補助に携わることなく列に並んだ。


 1人1枚持っているウッドトレイに乗った朝食を持って席に着く。カエルレウムマレは役割の関係上最後に席に着くのが習わしだが、アリスにとってはどうでもいいことだ。


 食堂は3列の長い木製テーブルが設置され、一定の距離毎にランプが規則正しく置かれている。自由席ではあるが、基本的に同じ寮の魔障院生で固まることが多い。


 アリスが来た時には既に席の半数近くが埋まっていた。


 今朝焼き上がったばかりのライ麦パン、ナイフで切り分けられたチェダーチーズのキューブ、野菜を裏漉しにしたスープを平らげていく。余ったスープにライ麦パンを浸して口に頬張ると、アリスは頬が落ちるように表情を和らげた。ロビットはアリスが採取した果物を前歯で削るように齧っている。


 食べる楽しみも束の間、目の前に同じ朝食が乗ったウッドトレイを持った魔障院生が腰かけた。


「ねえ、どうして君はカエルレウムマレなのに、調理補助の仕事をしないんだい?」


 乱れた頭のまま寝室から下りてきた男子がアリスに話しかけた。


 アリスの太股の上に座るロビットが下からアリスを眺めている。


「しないんじゃなくて、させてくれないのよ。調理補助をしていたら妙な臭いがして、調べてみたら危険な魔草が入っていたわ。このままじゃ危ないと思って、【掃除(スイープ)】を使って危険な魔草をお掃除したら、一部始終を見ていた調理番の生徒から、私が魔草を入れたって濡れ衣を着せられて、結局疑いをかけられたまま仕事から外されたのよ」

「お前は一生掃除だけしていろってロバート先生に言われてから、ずっとサボってるもんな」


 ディックが面白おかしく笑いながら言った。


「サボってないわ。仕事が変わっただけよ」

「まあまあ、もう済んだ話でしょ。私はアリスじゃないって信じてるから」

「でもさー、アリスが調理補助をしていた時のキッチン、清潔で快適だったんだけどなー」


 フレディが椅子に背を凭れさせ、大きくのけ反りながら呟いた。


「お前、アリスが好きなのか?」


 不機嫌そうにディックが言った。アリスはかつて仕立て上げられた不祥事を噛みしめた。


 ロバート・ダドリーはブリスティア魔障院教諭の1人。歴史学を担当しており、カエルレウムマレの寮監である。アリスはこの男の姿を思い出すだけで虫唾が走る。大柄な体格に藍色の背広は見る者を圧倒する威圧感さえある。掃除ができることくらいしか適性も持たず、授業中に意見ばかりするアリスに苛立ちを覚え、アリスが濡れ衣を着せられた時も一切信じなかった。


 以降は干されるように最低点をつけられ、使用人試験(サーヴァンテスト)でもアリスのことを批判的に紹介し、合格卒業ができない要因の1つとなっていた。


「そんなわけねえだろ。あいつは魔障の中でも1番の劣等生だぜ」

「あれじゃ今度の使用人試験(サーヴァンテスト)にも受からないかもな」


 聞こえないふりをしながら、他の魔障院生からの集中的な好奇の眼差しに気づく。


 毎年数十人ほどが入れ替わる魔障院において、事実上の売れ残りとなっていたアリスが就職先を見つけることもなく卒業を迎えるのは時間の問題であった。


 数ヵ月ほど前にも、アリスと仲の良かった魔障の1人が使用人試験(サーヴァンテスト)に合格卒業を決めると、予てから軍備増強に熱を入れていた王国軍兵士として所属することとなり、時折送られてくる手紙が心の支えであった。しかしながら、合格卒業できることが必ずしも幸せであるとは限らないと言わんばかりに、魔障であることを理由に過酷な迫害を受け、数日ほど前から連絡が途絶えた。


 王都にまで買い出しを兼ねて様子を見に行こうと考えていた矢先、ロビットが侵入を図ったことで目的を忘れかけていたことをアリスは自覚する。


「ねえアリス、この新聞の内容だけど、本当なの?」

「本当よ。それがどうかした?」

「今王都で噂になってるんだって。スラッジオを1人で倒すなんて凄いじゃん」


 燥ぐようにしながらアリスに抱きつくメイベル。


 アリスは1人の人物が頭に浮かんだ。昨日見た商人の男である。


 唯一の目撃者にして、普段は存在感のないブリスティア魔障院が新聞の表紙を飾る原因となった。


 朝食を終えると、アリスは自室へと戻り、【女神の箒(ゴッデスイーパー)】の穂先を吸い込み口に変形させると、腕を吸い込み口に突っ込み、龍の頭蓋骨を取り出す。アリスの思考と一体化し、一度吸い込み収納した物であれば思い通りに取り出せるのだ。


 しかし、調べようにも肝心の資料がなかった。


 魔障院付属図書館で調べようにも、昨日の出来事ですっかり悪目立ちしているアリスとしては他の魔障院生の前に姿を現したくはない。土曜日と日曜日は授業がなく、就寝以外は自由に過ごせるのだ。単位不足で補修が必要と見なされた生徒は教室で追加授業を行い、単位の取得を目指すのだ。必修科目を全て終えている魔障院生は卒業単位取得となり、そこで初めて使用人試験(サーヴァンテスト)を受ける資格を得る。受かれば合格卒業となるが、受からない場合は次に行われる使用人試験(サーヴァンテスト)までに高難度資格を履修するか、自習の日々を送ることとなる。


 アリスは必修科目を全て終えている。故に、平日であってもほとんど授業はなく退屈だ。


「ロビット、歪みの森まで案内してくれるかしら?」

「それはいいけどよ、バレたらまずいんじゃねえか?」

「どの道私は干されている身だし、退院処分になっても痛くないわ」

「嘘吐け。顔が落ち込んでるぞ。俺は人間のことはよく分からねえけどさ、嘘を吐いている奴はすぐ分かるんだ。一瞬だけ顔に出るんだよ。そいつの本性がな」

「野生の勘かしら?」

「まあそんなところだな。いつ行くんだ?」

「昼からよ。消灯までに戻れば間に合うはず」


 アリスは外出許可を得ることなく寝室に鍵をかけると、窓から外に飛び出し、1階の裏庭にスタッと降り立ち、他の魔障院生たちに紛れてまんまと外へ脱出する。いつも使っている手口だ。


 昼休みの時間、魔障院生たちは食堂へと殺到するため、普段から人気のない裏庭から誰もいなくなることをアリスは知っていた。雑草を踏みながら魔障院生たちについていくが、途中から機を見て集団から離れていくが、気づく者は1人もいない。この時間帯に出るのは買い出しか採取だ。


 草原を踏みながら歩いていると、他の人の気配がなくなったところでアリスは後ろを向き、ロビットが肩から飛び降りた。ロビットが一直線に走り出し、アリスも後を追った。


「早く来いよぉ~。置いて行っちまうぞぉ~」


 ロビットが歪みの森へと入って行く。アリスは叢に足を取られ、置いてけぼりのまま距離だけが開いていく。目立たずに向かう以上、箒を使うわけにもいかない。


 起きたばかりのアリスはすぐに息を切らし、足が段々と遅くなる。ロビットはアリスと距離ができていることにさえお構いなしに走り続けると、アリスを待つことなく森の奥へと消えていく。


 歪みの森が目の前に見えた。草原よりも深い緑に包まれ、葉も一回り大きい。


 森の入り口に辿り着く。目の前の看板を前に足を止め、呼吸を整えた。昨日の騒動もあり、歪みの森に対する警戒心が幸いしたのか、アリスを除けば人の気配すらないことに恐怖した。さっきまでの人混みが天国に思えると、不覚にも考えてしまった。歪みの森は奥へと真っ直ぐ続いていた。足を踏み入れ、道なりに進んでいく。人が通った跡にだけ、まるでアリスを誘っているかのように草木が生えていない。図鑑でしか見たことのない膨大な種類の魔草が生え、木から木へと渡るアニマリーやクリーチャーの足音が聞こえるくらいで、不気味なくらいの静寂が不安を煽っている。


 まだ昼であるにもかかわらず、上空が見えないくらいに大樹の成長が進み、日光さえまともに入って来ない様はさながら極夜のようで、時間感覚さえ歪みかねない。


「おやおや、ここに人が来るとは珍しい」


 アリスの真上にある木の上から低い声が聞こえた。目尻の高さまで歯茎を見せながらニヤニヤと意味もなく不気味な笑みを浮かべる謎の猫が首だけの姿で現れた。


 赤茶と漆黒の縞模様、鋭く大きな緑色の眼光はアリスの目を釘づけにした。木の上から浮遊したまま下りてくると、首から下の部位を見せるように現し、アリスの目の前にそっと漂っている。


 アリスの全長と変わらないくらいの大きさ、妙な威圧感はアリスの足を一歩下がらせた。


「見覚えがあるな。可愛らしい小顔に煌めく碧眼の少女、魔力は過剰だが、制御はできないようだ。君は一体どんな用でここまで来たのかな?」

「数日前から続いている異変の手掛かりを探しに来たの」

「異変? あー、王国各地で作物が採れなくなったことかい? それはさぞお困りだろう。王都は物価急上昇、みんな大慌てみたいだねぇ~。無論、歪みの森もね」


 面白おかしく体を浮遊させ、回転しながら謎の猫が答えた。


「他人事みたいに言うのね。それもあるけど、最近は特におかしいわ」

「おかしいのは毎日さ。誰も気づかないだけで、いつも少しずつ変わっている。君は日常の中にある些細な変化に敏感のようだ。1人でいる時間が長いんだろう。思慮深いが意地っ張りで、自分以外のことは背景としか思っていない。だが同時に孤独を恐れていると見た」


 謎の猫が発する的を射た言葉が耳を突くと、アリスは目が覚めたように表情が強張った。


「恐れてなんか――」

「恐れてるさ。だったら何故、危険を顧みず、異変の正体を突き止めようとするのかな?」


 アリスの至近距離にまで詰めると、今度は怯むことなく睨み返した。


「それは……魔障院にクリーチャーが迫ってきたからよ」

「なるほど、君は魔障院の出か。どうりで魔力に大きなバラつきがあるわけだ。クリーチャーが人里に現れるのはよくある話じゃないか。君は魔障院に深い思い入れがあるみたいだね」

「そんなんじゃないわ。ムカつく人だっているし、仲間意識を感じたことなんてなかった。どうせ卒業したら一生会わないような人たちだし……ただ、私みたいな魔障を受け入れてくれた場所だから」

「それを思い入れって言うんだけどなぁ~」


 謎の猫はゲラゲラと笑いながらアリスの周囲をうろつくように動き回る。


 アリスには鬱陶しいようにも感じたが、すぐに受容であると気づいた。


 歪みの森に生っている作物を見ると、真っ黒な液体が作物の表皮から突き破るように漏れ、汚染されて食べられないことを理解する。歪みの森で餌が採れなくなっていたのは本当だったのだ。ロビットの正直さを疑っていた自分に苛立ちを覚えながらも、スラッジオの出所を目で追っていく。


 ふと、商人の男の言葉を思い出す。何故歪みの森から現れたことを知っていたのだろうかと。


 アリスは謎の猫が指差した先を見た。日差しは消えているが、植物が光を発している。


 黄緑色や赤紫色に輝きを放っている大きな茸を横切るように進む。謎の猫はアリスの前を浮遊しながら奥へと移動すると、右前足を前に出し、手繰り寄せる仕草を見せた。


 ロビットの行方を心配しながらも、渋々と手で草を掻き分けながら後をつけた。歪みの森は人の方向感覚さえ歪めてしまうのだ。一度入れば出られないのではないかという不安さえ過らせる。深入りした者は数えるほどしかいない。奥に何があるかは、各地方の言い伝えによりけりだ。


 どれも神話の域を出ず、知る者はいても、信じる者はいない。


 地面が沼のようにぬかるんでいる。アリスは足首から下を汚しながらも先へ進む。未知への恐怖心よりも新たな見地を得たい好奇心が勝り、自分の中で高ぶる感情にアリスは気づきつつあった。


 仄かな風がアリスの髪を揺らすと、奥に抜け道があることを確信したアリスは足を速め、落ち葉を踏み荒らしながら謎の猫の尻尾を追っていくと、一筋の光が見えた。


 花が生い茂っている広場へ出たアリスは大きく目を見開いた。

 カエルバス王国は建国以来、ルベルバス王国と長きにわたり戦争を繰り返してきた。民の平和と豊穣が奪われる一方で、傭兵の雇用が増え、物流が発展し、辺境の治安が良くなったのは何という皮肉だろうか。


 国教会枢機卿ザカリア・ローガンの著書『血肉に染まる歴史』より

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