chapter 0-3 追憶
数十年ほど昔のこと、ルベルバス王国には暴君と呼ばれた先代王が君臨していた。
当初は敬虔な国王として振る舞っていたが、何人もの妻を娶り、民には重税を強いた。
財政管理はお粗末なもので、隣国カエルバス王国との戦争に明け暮れた。王朝初期の頃に蓄えられていた国庫は度重なる戦費により底をついた。先代王は財源を求め、国中の修道院に解散命令を出した。戦費は修道院の財産を全て没収することで賄われ、暇を出された大勢の修道女たちは、打開策として王国各地に捨てられていた魔障を集め、新たに魔障院の修道女として再起を図ることとなった。
結局、残った世継ぎは2人の異母姉妹であった。姉はレッドハートドレスと呼ばれる真っ赤な猪目柄と赤薔薇が描かれたドレスを着用し、先代王に似たのか、粗暴狼藉で民を顧みない性格であった。妹はホワイトスタードレスと呼ばれる真っ白な星柄と白薔薇が描かれたドレスを着用し、姉とは対照的に心優しい王妃に似たのか、民からは絶大な人気を誇っていた。
しかし、意外にも先代王が後継者に指名したのは妹であった。
やがて先代王が健康を害して崩御すると、王宮は混乱を極めた。
姉が王位継承法における本来の継承順位を理由に継承権を主張した。王都ムウニ・ディンロの異なる場所で妹と同時に即位し、2つの戴冠式が同日に行われるという異例の事態となった。
普段の佇まいから、姉は赤薔薇の女王、妹は白薔薇の女王と呼ばれた。
最初こそ手を取り合っていたが、赤薔薇の女王は秘密裏に軍を率い、白薔薇の女王が居住する宮殿を襲った。共同統治の約束を反故にしたことを事前に察知していた白薔薇の女王は王国北部へと避難し、反乱軍を結成したことで王位継承戦争が勃発する。しかし、白薔薇の女王率いる反乱軍は身分を問わず寄せ集めただけの若輩者ばかりであった。一方で赤薔薇の女王率いる王国軍は先代王時代からの豊富な実戦経験により練度が高く、瞬く間に数でも質でも劣る反乱軍を制圧した。
この時猛威を振るったのが、絶対龍ジャバウォックであった。元は赤薔薇の女王に仕える小さな飼い龍でしかなかったが、王位継承戦争で反乱軍の兵士たちが見たジャバウォックは、以前に見た姿とは全く異なっていた。人の数倍の体格、魚のような頭、2本の触角がある額、口元には2本の髭、口の中に鋭い門歯、途中から2つに別れている蛇のような舌、首は細長く、体は爬虫類状の鱗に覆われ、直立歩行する恐竜のような腕と脚、手足にそれぞれ5本ずつの鋭い鉤爪、剣の生えた長い尻尾、背中に蝙蝠のような翼を持った姿は、まさしく凶悪さそのものであった。口から吐き出す紅蓮の炎は周囲を消し炭の如く焼き尽くし、投降する反乱軍を容赦なく皆殺しにした。
白薔薇の女王は辺境へと追いやられ、以降、歴史書から姿を消した。
実権を握った赤薔薇の女王は議会から正式に唯一の女王と認められ、予てから嫌悪の対象であった異教徒を老若男女問わず、次から次へと処刑していった。
恐怖による支配が続く中、ルベルバス王国は飢饉が頻発し、不毛の地へと変わり果てた――。
「アリスっ! 危ないっ!」
ロビットの声が聞こえると、アリスはハッと我に返り、黒い光線を横にかわした。
「何ボーッとしてんだよ!?」
「ごめんなさい。前に歴史書の絵で見たことがあったから」
アリスは左腕を横に伸ばし、横に連なる魔法陣から【女神の箒】を召喚する。
腐敗した泥の龍が雄叫びを上げながら再び黒い光線を放つ。
「うわああああっ!」
アリスのすぐ後ろにいた商人が口を開け、慌てた形相のまま石化し、まるで時間が止まったように動かなくなる。生命の気配すら感じない様子に、アリスは恐怖した。
「嘘だろ。まさかあいつがここまで来るなんて」
「どんなクリーチャーか知ってるの?」
「あれはスラッジオだ。腐敗した泥を纏ったクリーチャーで、目に入った生命を見境なしに襲う危険な奴なんだ。一度見たことがある。前に見たのとは違う姿だけどな」
「てっきりジャバウォックかと思ったけど、違うのね。なら話は早いわ」
両手に【女神の箒】を持ち、勇敢にも突進するように距離を詰める。
「おいっ! 何やってんだ! 危ないって!」
「腐敗した泥ならお掃除するまでよ。【浄化掃除】」
穂先を纏う聖なる光が放射状に発射され、汚泥粘液スラッジオの体を覆い尽くす。
聖なる光は腐敗したスラッジオの体を浄化し、表面の汚泥が消し飛び、原形を保てなくなる。バランスを崩して地面に倒れ込むと、周辺の草木は枯れ、手足や胴体が細く萎んでいく。
確かな手応えがあった。スラッジオは呻き声を上げながら藻掻き苦しみ、聖なる光を拒むように暴れ回った。アリスを睨みつけながら5本の指を伸ばすが、顔に触れる直前でピタリと止まる。
ようやく力尽きたのか、スラッジオの5本指がアリスの目の前で溶けていく。絶望したのか、苦悶の声も出さなくなると、腐敗した泥は跡形もなく地面に沈むように消滅したかと思えば、泥の中から龍の頭蓋骨と思われる白骨が姿を見せた。アリスは瞬きすら忘れ、顰めっ面のまま、スラッジオの消滅を見守った。一息吐き、ようやく【女神の箒】を下ろした。
龍の頭蓋骨を拾い上げ、変形した【女神の箒】の吸い込み口へと放り込む。
「す、すげえ……スラッジオを……掃除しちまいやがった」
「普段は服を洗濯する時に使っていた魔法だけど、スラッジオが汚れそのものなら効くと思ったわ」
「――あれっ、私は一体……」
アリスの後ろにいた商人の男が全身を触りながら呟いた。
「えっ、さっきまで石になってたよな?」
「【浄化掃除】は呪術や病気を浄化する力もあるのよ」
「――君が……私をドラゴンから助けてくれたのか?」
「まあ助けたのは副産物みたいなものだけど、そういうことにしておくわ。あっ、いけない。市場まで行ってみんなを元に戻さないと。じゃあね」
「あっ、ちょっと――」
商人の男は手を伸ばすが、アリスは箒に乗り、市場に向けて一直線に飛んでいく。商人の男はアリスに一言礼を言いたかったものの、帽子に手を添えながら呆れ返った。
市場は惨憺たる状況であった。逃げ遅れた商人や客が慌ただしい形相のまま石化し、地面には商品や貨幣があちこちに散らばっていたことからも、スラッジオが猛威を振るっていたことが見て取れる。
アリスは【浄化掃除】を放つと、聖なる光が石化した人々を見る見るうちに元の姿に戻し、気づかれる前にブリスティア魔障院へと立ち去った。箒に跨り、弾丸のような速さで来た道を戻っていく。道中再び商人の男が真下にいたが、アリスは気づく間もなく通り過ぎた。
予定の時刻より遅れてしまったことが気掛かりであった。
何より歴史書の内容が気になり、ブリスティア魔障院付属図書館へと立ち寄った。
主に言語、数学、歴史、地理、経済などに精通した本、子々孫々へと伝わる童話や昔話の本が集められており、魔障院でも使う教科書なども揃っている大きな図書館だが、高さがあり、魔法を使うことは禁止されているため、梯子を使うことでしか本を取り出せず、司書の監視の下、図書館内のみでの閲覧が可能であり、所属する修道女のみが借りることを許されている。
長い木造の梯子を使い、大人の10倍はある高さにまで攀じ登ると、アリスは手を伸ばし、分厚くも古びた1冊の本を手に取った。梯子から下りて開いてみれば、歴史書にはかつて授業中に学んだ出来事と同じ内容が1枚絵と共に記され、絶対龍ジャバウォックの絵とスラッジオの姿と重ね合わせた。
ロビットがアリスの肩に攀じ登り、歴史書の中を確認する。
「このドラゴン、さっき見たスラッジオじゃねえか?」
「これはジャバウォックよ。でもさっきのとは似て非なる存在みたい。スラッジオが消滅した時、ドラゴンの頭蓋骨が中から出てきたでしょ。関係あると思わない?」
「確かにそうだな。このジャバウォックっていうドラゴンの頭蓋骨にも似ているな」
「何かの手掛かりになるかもしれないし、この頭蓋骨を調べるわよ」
「えぇ~、よくそんな不気味な物を調べられるよなー。とっとと捨てちまえばいいのに」
「捨てていいのは愚かさだけよ。スラッジオは歪みの森にいるの?」
「いや、元々はいなかった。最後に見たのは海だったし、その時は海龍のような姿で、王国軍が総動員しているところを見たぜ。兵士たちはスラッジオと呼んでいたんだ。でもよ、歪みの森から出てくるのを見たのは初めてだな。姿も違っていたし、状況がいまいち呑み込めねえよ」
「私たちの知らないところで、何かが動いているのは確かね」
アリスは顎に手を当て、疑いを歪みの森へと向けた。
図書館を出ようとすると、入り口付近の木造椅子に腰かけていた司書の男がアリスの横に立つ。
30代くらいの男性で、肩にかかるくらいのカール、水色の背広を着用し、普段は一言も発することなく静かに来客を見守っている。ミステリアスな雰囲気を発しているが、あまりにも目立たないため、アリスを始めとした魔障院生からは無視されている。
「ちょっといいかい?」
男性にしてはやや高い声がアリスの左耳に入った。
ロビットはアリスに肩車をしてもらいながらも顔を隠した。
「構いませんけど、司書さんが言葉を話すなんて珍しいですね」
アリスは足を止め、司書の男に目線を向けると、男は顔を上げ、ニヤリとほくそ笑む。
「昔から人嫌いなものでね。それと、僕は司書さんじゃない。チャールズ・ドジソン。ここが修道院だった時は司祭で、今は魔障副院長兼司書を務めている者だよ。アリス」
「名前があったんですね。でもどうして私の名前を知ってるんですか?」
「君はブリスティア魔障院じゃ、ちょっとした有名人だ。よくこの図書館に生徒がやってきては院内の噂話をする。外には出ないが、職業柄、おおよその情報はすぐ耳に入る。見たところ、魔力を消耗しているようだが、戦闘でもしたのかな?」
「お掃除していただけです」
大した会話もせず、再び足を前に動かし、図書館から立ち去った。
一瞬、戦闘を見抜かれたのかと思い、アリスは胸に手を当て、乱れそうな呼吸を整えた。
魔障が無理をして魔力を消耗することは珍しくない。チャールズは特に問い詰めることもなく、木造の椅子に腰かけ、背をもたれさせるのだった――。
アリスが寝室に戻ろうと、扉に手をかけた。
すぐ近くを歩く足音が聞こえると、アリスは顔を横に向ける。
廊下を通っていたメイベルと視線が一致する。今日最後の授業を終えたばかりのメイベルは、アリスを見つけるや否や、髪を靡かせながら駆け寄った。
「あっ、アリス、さっき外から大きな爆発音が聞こえたんだけど、何かあったの?」
「知らないけど、また王国軍の軍事演習じゃないかしら」
「軍事演習にしては大きすぎるような気がするけど――最近どうも変なことばかり起こってるわよね。飢饉が収まってからは買い出しがなくなって採取ばかりだし」
「無理もないわ。王都は今物価高で、地方からの買い付けが滞っているみたいだし――!」
アリスは何かに気づき、口を小さく開けっ放しにする。
ふと、今日起こったことを追憶する。
思えば数日前から異変が起こり続けている。定期的に発生していた飢饉が止んでからだ。
王都の物価が急上昇したことで、買い出しではなく採取を命じられた件、歪みの森で作物が採れなくなったことでアニマリーによる空き巣被害が発生した件、本来いないはずのクリーチャーが立て続けに王都付近に現れ、王国軍が相次いで討伐していた件である。
「どうかしたの?」
「何でもないわ。今日もお掃除で疲れたから、先に寝るわね。おやすみ」
「お、おやすみ……」
寝室の扉を閉じると、メイベルは不審に思いながら頭を傾げた。
「アリスにしては寝るのが早い気がするけど……まあいっか」
呟きながらも、級友のさりげない仕草にクスッと笑い、メイベルも自らの寮へと戻っていった。
王都ムウニ・ディンロの赤く染め上げられた古城の最上階には、1人の真っ赤な猪目型の模様が描かれたドレスを着用する赤毛の女性、赤薔薇の女王が上品に佇んでいる。
真後ろには侍女の1人が落ち着いた様子で頭を下げている。
「して、スラッジオはどうなったのだ?」
「はい。歪みの森から現れたかと思えば、市場の近くで忽然と姿を消したとのことです」
「何、姿を消したとな?」
赤薔薇の女王の肩に乗っている小さな龍の頭を撫でようと指を動かした。
「はい、女王陛下。噂によれば、魔障院の者が1人で討伐したとのことです」
指の動きが止まり、喜びを露わにしていた小さな龍が真顔に戻る。
「魔障がだと。ありえぬことだ。無尽蔵な魔力を持ち、王国軍をもってしても討伐に骨が折れるスラッジオをたった1人で倒すなど――」
「目撃者がいます。明日には新聞記事になっているかと」
「……魔障を調べ上げ、妾に報告するのだ」
「畏まりました、女王陛下」
侍女の1人が深々とお辞儀すると、足元に魔法陣が広がり、一瞬にして姿を消した。
赤薔薇の女王はバルコニーの外へ出ると、闇夜に光る月に目をやり、不敵な笑みを浮かべた。
深淵なる忘却とは世界に生じる記憶の穴である。かつて記憶した人や物を群衆が一斉に忘却し、思い出すこともないばかりか、最初からいなかったかのように抹消されるのだ。家族や友人のことさえも。
神話作家シャルロット・ガーランドの著書『アビサル・オブリビオン』より




