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Alice in Abyssal Oblivion  作者: エスティ
第1章 天魔の一角獣
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chapter 1-3 酒場の常連

 世界が目に見える形で改変されたことを確と見届けたアリス。


 しかしながら、アリスが持つ魔障史書マディーヒストリックスは他の魔障院生が持つ同じ本と内容が異なっていたことには、メイベルも疑問の表情を浮かべていた。


 厳密に言えば、現代魔障史における肝心な記述が抜けていたのだ。


 アリスが持つ魔障史書マディーヒストリックスのみが改変を免れていた。


 理由も分からないまま、アリスの自室の扉が開いた。


「ふぅ、食堂を手伝っていたら遅れてしまった――アリスっ! どうしたんだ!?」


 戻ってきたピクサーブが慌ててアリスに駆け寄った。


「……何でもないわ」


 後ろを向きながら制服の袖で涙を拭き取るアリス。


 ピクサーブは地面に落ちた水滴の冷たい感触を確認すると、困った様子で歩み寄った。


「その割には床が濡れているようだが」

「目に埃が入ったのよ。毎日お掃除しているのに、懲りない埃ね」

「何があったか言ってみろ。他の魔障院生たちと喧嘩でもしたか?」

「――話すと長いわよ」

「ふっ、言ってみろ」


 アリスの背中に寄り添い、右肩に顎を乗せると、柔らかな毛並みの温もりが青い制服越しにじんわりと伝わり、部屋の古い石壁から漂う微かなカビと木の匂いが鼻を擽った。


 授業中に起こった不思議な現象をありのままに話すアリス。


 改変されたのは、アリス以外の魔障院生たちや教師が持つ魔障史書マディーヒストリックスであったにも拘らず、アリスが悪戯で内容を弄った疑いをかけられ、より一層信用をなくす結果となってしまったことを口々に語り、背中からピクサーブの温もりを感じ取っていた。


 ハッターが言及したアビサル・オブリビオンの話をアリスは思い出した。


 過去の記憶が全て深淵の中へと忘却され、最初からなかったかのように扱われる現象は、授業中の状況と見事に合致する。しかし、不思議なことに、アリスだけは改変される前の記憶を持っていた。


 謎が新たな謎を呼び、困惑しながらも両手を動かし、説明を続けた。


「つまり、アリスが持っている魔障史書マディーヒストリックスには2人の王女がいて、メイベルたちが持っている魔障史書マディーヒストリックスには1人の王女だけがいたということか」

「ええ、かつて2人の王女が王位継承戦争を始めたことを院長も忘れていたわ」

「それをみんなに信じてもらえなかったんだな。だが安心しろ。私はアリスを信じるぞ。一緒に謎を解き明かせば、きっとアリスの言い分こそが真実と気づいてくれるはずだ」

「――ありがとう」


 口角を上げるアリス。だがピクサーブは顰めっ面を崩そうとはしない。


「しかし、もしアリスの言い分が真実なら、由々しき事態だな。赤薔薇の女王が力尽くで唯一無二の王位を継承したというならば、アリスがスラッジオを倒した件を知ったことで、警戒しているだろうな。力を持つ者が恐れることはただ1つ」

「力を奪われることね」

「ああ、権力の奪還と言い換えてもいい。ましてやスラッジオを倒すほどの存在なら、相手からして脅威であることは間違いない。赤薔薇の女王がアリスを呼び出したのは、脅威になりえるかどうか判断するためだろう。受け答え次第では、ブリスティア魔障院が狙われても不思議ではない」

「どうしてそこまで分かるの?」

「我が主、フェアリウス女王陛下は数百年ほど前に即位した後、しばらくは内乱が続き、玉座を狙う者たちを断腸の思いで鎮圧していた。リャナン族は相手の感情や魔力には敏感でな、アリスが女王陛下に拝謁した時も、お前には至って冷静な姿に見えただろうが、内心は恐怖に怯えておられた。赤薔薇の女王にもそれなりの器量があるならば、同様に、アリスには細心の注意を払っていたはずだ」


 ピクサーブは後ろを向きながら忠告するように言った。


 アリスは自らが向き合うべき課題、事の重大さを理解した上で、尚も真実の探索をやめようと思うことはなかった。まずはアビサル・オブリビオンが書かれた御伽神話を見つけることを考えた。


 何か手立てはないかと、顎に手を添えている時であった。


「アリス、お前にお客が来てるぞ」


 青い姫カットの少年が扉を開けると、アリスに声をかけた。


「エルヴィス、お客って誰?」

「俺だよ」


 エルヴィスの頭上から透明になっていたチェシャが不意に現れた。


 かと思えば、今度は巣に戻ったかのようにアリスの周囲に纏わりついた。


 意外にも重さはなく、アリスでも軽々と持ち上げられるくらいだろうか。チェシャは顔を回転させながらアリスの寝室を物色する。目をキョロキョロと動かしながら再びアリスを見た。


「チェシャ、私に何の用なの?」

「うちの飼い主が君に用があるみたいでね。王都郊外にあるマウルタッシュ邸まで来てくれないか?」

「マウルタッシュ? ――まさかマウルタッシュ公爵の家?」

「おや、知っているのかい。なら話は早い。案内するよ」

「丁度良かったわ。私も王都に用事があったから」


 アリスはチェシャに言われるがまま、レイシーに外出許可を取り、魔障院の外に出た。


 右腕を囲むように出現した青い魔法陣から【女神の箒(ゴッデスイーパー)】を召喚する。


 箒に跨ると、アリスは王都まで一直線に飛び立った。道中の市場が見えると、いつもの如く平和に談笑する人々を見たアリスは笑みを浮かべ、王都の正門に降り立った。チェシャもアリスの周囲を漂うように浮遊し、ケラケラと笑いながら歯を見せ、アリスと一緒に門を素通りする。


 王都の中は箒で空を飛ぶことを禁止され、攻撃魔法を使った時点で反逆罪に問われるほど規律が厳しいことも、アリスが王都に行きたがらない理由の1つであった。王都では魔障院の掃除番が噂になり、パブランドンではムウニ・ディンロ市場にいる人々が集まり、アリスの話題が絶えなかった。


 カウンター越しにレイモンドが常連たちの前に立つ。


「しかしあれだな、アリスがスラッジオを倒したのが本当なら、将来は王国軍に入るんじゃねえか?」

「無理ね。王国軍に入れるのは平民の中でも上位に位置する優秀王国民(エクセレンター)として各地方から選抜されて、厳しい入隊試験に受かった強者だけよ。知ってるでしょ?」

「はははははっ! ヴィオラは相変わらず釣れねえなぁ~!」


 レイモンドが高笑いしながら言った。


 目線の先にいるヴィオラ・ローズはパブランドンの常連である。


 薄紫色のくせ毛が片目を隠し、ミディアムヘアーを手で後ろ側に梳き、カウンター席の近くに置かれている新聞を読み漁っている。男性に話しかけられては色気のある声で全てを聞き出す情報屋だ。


「それに将軍になれるのは優秀王国民(エクセレンター)の中でも特に優秀な貴族様だけだぜ。聞けばアリスという少女は掃除にまつわる魔法しか使えねえらしいじゃねえか。基礎魔法すらロクに使えねえ魔障が王国軍に入るなんざ、夢見すぎってもんよ」


 1番奥のカウンター席では、青年の男、ダリル・ソーンダイクが新聞を捲り、ボサボサした黄緑色の髪を気にすることもなく、魔障院の掃除番が水の物価を下げると書かれた記事を凝視する。


「ダリルまで冷てえなー。みんなしてうちのビールよりキンキンかよ」


 レイモンドが木製ジョッキいっぱいに入れたビールをダリルの前に置くと、麦の香ばしい匂いとほのかな苦味がカウンターに広がった。コップの中に水を入れてから【氷結(フリーズ)】を使い、手から放った冷気が一瞬で水を凍らせる。コップと同じ型の氷を取り出すと、ナイフで削った冷たい氷片がカクテルに落ち、キンと澄んだ音を立てながら銀色のマドラーで掻き混ぜられた。


 大きいフライパンを軽々と持ち上げ、オリーブオイルをたっぷりと注ぐ。キューブ状の炭に向かって【火炎(フレイム)】を放つと、炎が勢い良く炭に定着し、フライパンに刻んだポテトと魚の身を入れると、パチパチと激しい音と共に熱い油の香ばしい匂いが酒場中に立ち上った。


 狐色に染まったところで、予めフライパンに沈めておいた網を使って一斉に揚げていき、皿に盛りつけて客の食欲をそそり、更なる注文が入った。


 周囲を明るくしようと電球を天井に固定すると、今度は【雷電(サンダー)】を使い、手から出した電気を帯びた魔力を電球に閉じ込めると、電球が光り始めた。魔導具に使用者の魔力を閉じ込めておくことで半永久的に使用できることからも、人々が魔導具を活用していることが見て取れる。


 かつては魔障を人的資源として登用し、家事を任せていたが、魔導具が普及するにつれて居場所を減らしていった。更にはこれまでの魔導具とは異なり、魔力を留めることが可能となった最新式が誕生したことにより、最小限の魔力で全ての家事が完了する仕様となってからというもの、以前よりも魔障の雇用が激減し、下級使用人として働くことが難しくなったのだ。


 徐々に隅へと追いやられていく魔障の待遇を不憫に思った修道女たちは、魔障の子供を集めて修道院に匿い、簡単な仕事を任せるようになった。今に続く魔障院の始まりであった。肩身が狭くなってからというもの、専ら罪人が担当していた、人の嫌がる汚れ仕事ばかりを押し付けられ、魔障は更に疎まれる存在となっていった。下級使用人から出世する道はなくなり、残虐王ジェノが即位してからしばらくの間は、下級使用人としてさえ使われなくなり、多くはカエルバス王国へと逃げ延びた。


「ウイスキーお待ち。フィッシュ&チップスもできたぜ」

「バンガーズ&マッシュを頼む」

「はいよ。ちょっと待っててくれ」

「今日はやけに注文が多いわね。雪でも降るんじゃないかしら」

「おいおい、冗談きついぜ。この前まで飢饉のせいで物価が上がってたんだ。商売あがったりな分、この機に乗じて取り返さねえとな」

「もっとも、最近は更におかしなことが起きているみたいだけど」

「何だよ、おかしなことって?」

「飢饉は収まったけど、今度は漁業不振だってよ。漁師たちは帰ってこねえし、アーソナ大陸にいる友人とは最近連絡が取れねえし、王都周辺に強力なクリーチャーが出現するし、何がどうなってんだか」

「確かにそうだな。この前のスラッジオの件といい、アニマリーが盗みを働いている件も気になるな」

「心配しなくても、ここには盗人なんて来ないわよ。首を献上しに来るようなものだし」


 手の平を顎に添えながらも、面白おかしくヴィオラが言った。


「だよな。はははははっ!」


 余裕の笑みを浮かべるレイモンド。無謀なアニマリーなどまずいないと考えたが、人々にとって何より心配なのは、定期的に国内外に出現し続けているスラッジオだ。


 土壌を破壊し、作物を腐らせ、人を石に変えるクリーチャーは脅威でしかない。


 ただ1人を除いては――。


 ドアベルが鳴り、ベルベットが意気揚々と来店する。


「いつものお願い」

「はいよ。今日も元気そうで何よりだ」


 レイモンドの掛け声を他所に、涼しい顔でウイスキーを飲み終えたヴィオラが移動する。


 ベルベットの隣に腰かけると、新聞の一面を見えるように置いた。箒を持ち、スラッジオを聖なる光により浄化するアリスの姿が美化される形で書かれている。


 記事にはクエンティン・マウルタッシュがアリスに一刻も早く会いたいと書き綴られている。


「ねえベルベット、アリスのことについて何か聞いてない?」

「あー、あたし一度会ったわよ。ハッターと一緒だったけど、それがどうかしたの?」

「一度私の【写真(フォトグラフ)】で顔を撮りたいわね。今度紹介してくれない?」

「また会ったら伝えておくわ――ん?」


 ふと、ベルベットがパブランドンの外を見ると、地図を見ながらムウニ・ディンロ市場を歩くアリスの姿が見えた。賑わう外の様子をベルベットは放心のまま目で追っている。


 纏わりつくように、チェシャがアリスの前を浮遊する。


 アリスと同じように、人々は他の種族と共に雑談をしながら歩いている。


 獣人族、魚人族、妖精族を始めとした多くの種族が暮らす王都ムウニ・ディンロだが、人間界ヒューマースとは言ったもので、やはり人間が圧倒的多数派であった。アニマリーに対して当たり前のように寛容なのか、豊作の時は残飯処理のために呼び寄せるほどであった。


「どうしたの?」

「何でもないわ――他人の空似かな?」


 小声で呟きながらも、すぐに前を向き、注文を待つベルベット。


 チェシャは道行く人々と挨拶を交わし、ユーモア溢れる言葉を返していく。


 アリスは社交的な人々に馴染もうとはせず、並んでいる店舗を1人眺め、王都の裏門まで一直線に抜けたところで、王都郊外の貴族が暮らす屋敷ばかりの広い住宅街へと到着した。


 公爵家の邸宅は異国から取り寄せた商品が並び、庭の樹木の葉擦れと咲き誇る花の甘い香りが風に乗って漂う。玄関や窓は広く、贅を極めすぎず品のある佇まいだ。


 チェシャは当たり前のように門の前を素通りしていく。門番はおらず、鍵は掛かっていない。


 不用心と思いながらも、アリスは重厚な木製の門を押し開ける。


 微かな蝶番の軋む音と共に、マウルタッシュ公爵家へと足を踏み入れた――。

 スラッジオの名は汚泥『Sludge』のクリーチャーが大地『geo』に根付いている様子から王国軍に名付けられた。原初の姿は汚泥粘液そのものであり、海から上陸したかと思えば、王国民、アニマリー、クリーチャーを見境なく襲い始め、王国軍が出撃するも、多大な犠牲を出した挙句、海へと帰っていった。


 ルベルバス王国宰相ドミニク・ガーフィールドの著書『魔生物図鑑』より

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