表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Alice in Abyssal Oblivion  作者: エスティ
第3章 鉄仮面と失われた聖杯
109/109

chapter 3-9 諜報

 昼が過ぎ、午後の陽光が窓から斜めに差し込み、部屋の床を金色に染めていた。


 埃の粒子が光の筋の中で舞い、まるで小さな妖精の群れのように、部屋を優しく包み込んでいる。


 アリスは机の前に座り、静かに天使の羽根ペンを走らせていた。羽根の軸は純白で、先端から淡い青い光が漏れ、インクを必要とせず、いくらでも羊皮紙に文字を書ける。紙の上にはアリスの筆致で、退学届の文字が形を成していく。部屋は静かで、外の帝都の喧騒が遠く、微かに聞こえるだけ。


 聖剣ヴォーパルの話を胸に、眉間に皺を寄せ、羽根ペンを止めることなく進める。


 光の筋がペンの羽根を翼のように輝かせる。


 その時、扉の向こう側から指の関節を当てる音が何度か響く。


「アリス? いるの?」


 他でもないカレンの声。アリスはペンを置いて立ち上がり扉を開けた。


 黒髪を少し乱れさせ、銀の百合バッジを胸に息を切らして立っていた。


「病み上がりなんだから、あんまり無理しちゃ駄目よ」

「それどころじゃないわ。今外で大変なことが起こって――」


 カレンは部屋に入るなり、机の上の羊皮紙が目に入ると、眼を見開いた。


「退学届!? ……アリス、何してるの!?」


 カレンは慌ててアリスの両肩を掴み、強く揺さぶった。


「冗談でしょ!? あなた、せっかく入学したのに、どうして退学なんて!」


 アリスはカレンの手を優しく振り解く。


「私が進学したのは教職資格を得るためであって、カルドの愚かな野望に加担するためじゃないわ」


 カレンは一瞬息を呑み、アリスの目を真っ直ぐに見つめた。


「……本気なの?」


 アリスは頷く。カレンは深く息を吐き、部屋の隅に腰を下ろした。


「……駄目よ。今あなたが退学したら、魔障の未来が閉ざされてしまうわ」

「正統教が魔障を異端として迫害していることはあなたも知っているでしょ。加担はできないわ」

「確かにカルドが聖剣ヴォーパルの力を得て人間界を支配するようになれば、教皇を名乗るでしょうね。でもあなたの夢を叶える機会があるとすれば、今をおいて他にないわ」

「何が言いたいの?」

「教職学科にいるってことは、教職を望んでいるんでしょ。魔障で教職に就いた人はいないわ。なのにその1人目になりたいとは思わないわけ?」

「大学なら他にもあるわ。転入してやり直せば、いくらでもチャンスは――」

「あなた何も分かってないわね! 私たちは魔障よ! アリスの言う通り、存在そのものが異端と言われているのよ! 他の大学が易々と首を縦に振るわけないでしょ! 本来なら大学という選択肢があること自体、不思議なくらいなのよ! メイベルから聞いたわ。カエルレウムマレは負け犬が集まる寮で、下級使用人にもなれない問題児だらけの寮なんですってね。私なら進学の話があった時点で警戒するわ。あなたはもう少し駆け引きを覚えるべきよ。怒りや憎しみに任せた行動は必ず失敗するわよ」


 カレンが念を押すように言うと、アリスはかつてのハッターの言葉を思い出す――。


 ――あの忠告は……こんな事態を予期していたからだったのね。


 ふと、アリスは呼吸を整え、カレンの焦りようから、心の奥に違和感を覚えた。


 同じ下宿寮の仲間としてではない。どちらかと言えば、魔障としての一生に全てを懸けている反応と言わんばかりの剣幕に、思わず疑問を抱いたのだ。


「カレン、私に何か隠してるでしょ?」

「――どうしてそう思うわけ?」

「あなたは嘘を吐いているわ。メイベルは私と同じ魔障院の同期で、カエルレウムマレのこともよく知っているけど、魔障院生のことを負け犬と呼んだことは一度もないわ。何故かは分からないけど、あなたの言葉には意図的なものを感じるわ」

「だからどうしたっていうの?」

「あなたが何者で、何の目的でここにいるのかを言わないなら、退学届を提出するわ」


 アリスは立ち尽くすカレンを他所に、残りの文章を書き終える。


 青い封蝋まで押すと、部屋の扉を開けると、カレンの手が伸び、アリスの腕を掴む。


「待って! ……分かったわ。そこまで言うなら、目的を話すわ」

「やっと口を開いたわね」

「私は……魔障騎士団(マディーナイツ)の一員よ」

「それって魔障盗賊団じゃない!」

「静かに!」

「あっ……ごめん」


 廊下の外を見渡し、誰もいないことを確認すると、アリスはそっと扉を閉めた。


「どういうつもりなの?」

「私たちは魔障の地位向上を目指しているだけじゃなく、真正教の信者でもあるわ。カルドの陰謀を嗅ぎつけて、進学という体で諜報活動をしに来たのよ」


 アリスは一瞬言葉を失った。日光が窓を通して2人の顔を優しく照らし続けている。


 書き終えた退学届の羊皮紙はまだ天使の羽ペンの魔力が残っており、淡い青い光を帯びている。箒を構えると、穂先を吸い込み口へと変え、退学届をそっと吸い込み口へと差し入れる。


 紙は水に落ちる葉のように箒の内部空間へと吸い込まれ、ゆっくりと漂い始めた。箒の中ではジャンヌが白銀の鎧を鳴らし、切り株の椅子に腰かけたまま、漂う退学届を手に取った。


 複雑な心境のまま、水色の碧眼で見つめている。


「……本当に、これでいいのか?」


 声は小さく、アリスの耳には届かない。箒の召喚を解き、窓の外を見た。


「そういえば、今外で何かあったとか言ってなかった?」


 カレンは一瞬顔を強張らせ、やがて慌てたように立ち上がった。


「あっ! そうだった! 用事を思い出したわ! アリス、急いで広場に来て!」


 アリスの手を掴み、部屋を飛び出した。廊下を駆け、階段を下り、大学の中央広場へと、息を切らしながら向かう。広場は既に人だかりができていた。


 学生たちが騒めきながら、中央の噴水の周りに集まっている。


 ルベルバス王国侯爵、サミュエル・ウェラーが立っていた。


 金髪を優雅に後ろに流し、深紅のマントに金の刺繍、胸にはルベルバスを象徴する赤薔薇の紋章。青年の端正な顔立ちに、自信に満ちた笑みを浮かべ、周囲の学生たちに対して丁寧に挨拶をしている。


 アリスは顔を見るや否や足を止めた。


 ――サミュエル? どうしてこんな所に……。


 グラシード村で一度会った時を思い出し、サミュエルが村の祭りでアリスを見初め、大胆にもデートに誘ったが、アリスはきっぱり断った。その時の少し強引で、どこか純粋な笑顔が今も記憶に残っている。


 サミュエルは群衆の中からアリスの姿を見つけると、目を輝かせた。


「アリス! 久しぶりだな!」


 人だかりを分け、アリスの前に歩み寄る。


「サミュエル様、何故このような所までおいでなさったのですか?」

「敬語はいらんよ。ルベルバスから親善大使として帝都アティ・テルに派遣されたんだ。まさか大学にまで進学しているとは、やはり私の見込みに間違いはなかったようだ」


 アリスは少し警戒しながら微笑みを返した。


「御託が多い人はレディにモテないわよ」

「相変わらず手厳しいな。実を言うと、私がここに来たのは君に用があったからだ」

「侯爵が私に?」

「ああ、帝都のカフェで話そう。奢るよ」

「……」


 納得がいかないまま、アリスは渋々とサミュエルの後に続くように歩み始めた。


 徒歩で帝都のカフェまで歩くと、石畳の路地を抜け、小さなテラス付きのカフェに着いた。


 外壁は白く、窓辺に赤いゼラニウムが飾られ、テラス席からは大聖堂の尖塔が見える。店内はコーヒーと焼きたてのクロワッサンの香りが漂い、陽光がテーブルを優しく照らしていた。


 2人は窓際の席に座り、サミュエルがメニューを広げる。


 アリスは隠し持っていた違和感の正体を突き止めようと口を開く。


「ルベルバス貴族はいつから馬車を使わなくなったのかしら?」

「親善大使が帝都に外出しているなんて知られたら騒ぎになるだろ。見かけ上はただのルベルバス貴族として来た。皇帝陛下にも拝謁済みだ。緋色の枢機卿にもね」

「……カルド枢機卿を知っているの?」

「もちろんさ。ルクステラ皇帝が留守を任せるほどの信頼を置いているくらいだ。最近は各地から希少な宝石が盗まれる事件が相次いでいる。調査団が魔力感知で行方を追ったところ、なくなった宝石の在り処がルクステラに集中していることが分かった。そこで私がまたしても派遣されたというわけだ」

「前にも派遣されていたの?」

「ああ。でもこっちで豪遊していたのがバレちゃって、有力な情報を手に入れるまでは帰ってくるなと、女王陛下のお怒りを買ってしまってね。しばらくはこっちにいるつもりだ」

「よく無事でいられたわね」


 アリスは苦笑いを浮かべ、すぐに表情を引き締めた。


「肝が冷えたよ。それより、女王陛下から君への伝言を預かっている」


 カップをソーサーの上に置きながらサミュエルが言うと、アリスは真っ先に耳を疑った。


 赤薔薇の女王からの指令ならば、手紙を書くだけで十分だ。わざわざ誰かに伝言をさせる必要はない。良からぬ企みを予想しながらも、アリスは聞き耳を立てた。


 ましてや親善大使の口から伝えさせることは、極秘以外の何ものでもないと確信する。


「また流行り病のお掃除かしら?」

「月に一度、私の屋敷まで来て、ルクステラの情勢を報告するんだ」

「私に諜報活動をしろってこと?」

「それだけじゃない。世界各地を制圧しようとしているスラッジオの討伐命令も下っている。女王陛下は余程君を恐れていらっしゃるようだ」

「敵国がスラッジオに飲み込まれるのは、むしろ赤薔薇の女王が望んでいる結果のはずよ」

「事情が変わった。ルベルバス王家とルクステラ皇家が婚姻を結ぶことになった」

「何ですって!?」


 アリスが叫ぶと、声に反応した周囲の人々が2人に視線を集中する。千年戦争により、積年の恨みが募る両国において、ルベルバス王族とルクステラ皇族が婚姻を行うことは事実上の和解に等しいものだ。


 取り分け、口を噤んだまま眉間に皺を寄せているジャンヌにとっては到底信じ難いものであった。


 しばらく間を置くと、人々は再び雑談が始め、アリスは呼吸を整えた。


「まあ落ち着け。王族や皇族が他国と婚姻を結ぶことは珍しくない」

「でも、赤薔薇の女王がルクステラ皇帝と結婚するなんて、何か理由があるはずよ」

「そこまでは流石の私でも分からんな。渡航の目途さえ立てば、女王陛下もここにいらっしゃるだろう。ルベルバスを代表する貴族たちも一斉に連れてくるとのことだ」

「貴族たちも一緒に?」

「ああ。この婚姻の儀式は世界中が注目している。ルベルバスの勢力を他国に見せつける余興でもある。他にも女王陛下の妹君であるカエルバス女王、ソルカリガの皇族までもが参加する予定だ」

「……」


 深刻に顔を顰め、ジャンヌの警告を思い出す――。


 帝都アティ・テルの大聖堂に各国の代表が集合する事態を聞き、思わず懸念を抱いた。


「表情が冴えないな。何かあったのか?」

「アリス、予知夢のことは話すな」


 アリスの精神内を漂っている箒の中からジャンヌの声が響き、言葉が出る前に押し黙る。


「……侯爵、儀式は中止にするべきです」

「おいおい、何を言うかと思えば、中止になんてできるわけないだろ」

「中止にしないと、参加者全員が死ぬことになるわ」

「――どういう意味だ?」


 目を細めながらサミュエルが尋ねた。アリスは思考を巡らせ、言葉を慎重に選ぶ。


「今はまだ説明できないけど、カルド枢機卿が関わっていることだけは確かよ」

「昔と変わらないな。君は誰が相手でも決して取り繕うことがなく、嘘を吐くのが下手。レイシー院長が言っていた通りだ。分かった。今は君を信じよう。私にできることがあったら言ってくれ」

「鉄仮面を調べてもらうことはできるかしら?」

「最近ここで噂になっている鉄仮面の囚人か。何がどう関係しているかは分からんが、他でもないアリスの頼みだ。いいだろう」

「ありがとう」


 立ち上がりながら言うと、アリスは左足を斜め後ろの内側に引き、右足の膝を軽く曲げ、背筋は伸ばしたまま頭を下げた。サミュエルは余韻に浸りながらも、駆け足で去っていくアリスの後ろ姿を見届けた。


 再びコーヒーを口に含むサミュエルの後ろからメイド服姿が見える。


 景色に紛れていたレティシアが駆け寄り、無表情のまま、手で眼鏡を持ち上げる。


「不思議な子だな。あの堂々とした立ち振る舞い、揺るぎのない自信。昔の女王陛下を見ているようだ」

「サミュエル様はアリスを大層お気に召しているようですが、くれぐれも手を出すことのないよう忠告申し上げます。貴族が魔障と通じているなどと噂になるだけでも危ういのですから、ご自重くださいませ」

「分かってるよ……これで借りは返したからな」


 面倒と言わんばかりに溜め息を吐くサミュエル。


「はい、確かに。では失礼します」


 レティシアの周囲に魔法陣が出現すると、瞬く間に姿を消した。


 アリスはアティ・テル大学へと戻り、箒を召喚しようとするが、すぐに手が止まる。退学届のことは当分忘れようと決意し、教科書が詰め込まれた鞄を持ち、次の授業がある教室へと走っていく。


 不穏にも、陰謀の魔の手は刻一刻と迫っていた。

 真実に辿り着き、人々が記憶を取り戻す。世界の改変には不可解な謎がいくつも渦巻く。何者かの仕業ではない。当事者たちの想いが星詠みの悪戯に絡み、引き起こしているのではないかとさえ思う。かつて私が1人になることを望み、異界へと赴いた時に気づくべきだったのだ。


 神話作家シャルロット・ガーランドの著書『アビサル・オブリビオン』より

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ