chapter 3-8 失われた聖杯神話
夜を迎え、学長室の扉が重い音を立てて閉まった。
部屋は蝋燭の灯りだけが頼りで、巨大な天文儀が星の運行を模して音もなく回っている。
窓の外は既に夜、帝都の灯りが遠くに瞬き、大聖堂の尖塔が、月光を浴びて黒く浮かび上がっていた。書棚の奥、黒と深紅の枢機卿服を纏った老人がゆっくりと椅子に腰を下ろした。
カルドの緋色のローブは、蝋燭の光を受け、新鮮な血のように艶やかで、裾の金の刺繍が鍵を妖しく輝かせている。瞳の奥は獲物を値踏みするような、冷たく、底知れぬ光を宿していた。
対面に座るユリウスはいつもの穏やかな笑みを浮かべながらも背筋を伸ばしながらカルドの視線を真正面から受け止めている。カルドはゆっくりとステッキを床に突き、部屋全体に響く声で語り始めた。
「失われた聖杯にまつわる伝説はお前も知っておろう」
ユリウスは静かに頷いた。カルドは細い目を向け、蝋燭の炎を見つめながら続ける。
「聖剣ヴォーパルは、古来より鞘なき聖剣と呼ばれてきた。だが真実ではない」
ゆっくりと立ち上がり、書棚の奥から古びた羊皮紙の巻物を取り出した。
巻物を広げると、そこには剣と杯が絡み合うような複雑な魔法陣が描かれていた。
「あれにはかつて鞘があった。そして鞘の正体こそが聖杯ルパーヴォだ」
ユリウスは一瞬息を呑み、意図を察知したように共感の頷きを示す。
「剣なき鞘とも呼ばれていた聖杯……それがヴォーパルの真の鞘とは驚きですな」
カルドは巻物をテーブルに置き、指で魔法陣を丁寧になぞった。
「剣なき鞘がなければ、鞘なき聖剣は制御不能となる。放っておけば力は暴走し、再び鞘を求めて暴れ出すだろう。だからこそ我々は、聖剣ヴォーパルを大学地下聖堂にある魔法陣の中で厳重に安置している」
ユリウスはカルドを追うように立ち上がり、窓の外を見た。
「猊下、まさかとは思いますが、それがアリスを大学に招いた理由ですか?」
ステッキを握りしめるカルドに視線を向け、ユリウスが尋ねた。
「アリスは掃除魔法であらゆる問題を掃除してきた。我輩が聖剣ヴォーパルを扱うには魔力が強すぎる。そこでアリスの掃除魔法を使い、聖剣ヴォーパルの余分な魔力を掃除し、制御を可能なものにするのだ」
蝋燭の炎が一瞬強く揺れた。部屋の奥で天文儀が新しい星の軌道を描き始めた。
「しかし、それではアリスに聖剣ヴォーパルの存在や我々の計画を明かすことになるのでは?」
「何か不都合があれば消えてもらうだけだ。他の魔障たちのようにな」
「流石は猊下、賢明ですな」
「地下聖堂には誰も入っていないだろうな?」
「ええ、もちろんです。誰かが入れば魔力感知しますので」
ユリウスは一瞬笑みを浮かべ、万全を誇示する。
その時、扉の外、廊下の影に1人の女性が息を潜めて立っていた。
長い黒髪を背中に流し、学生服の上に薄手のマントを羽織った大学生らしき女性。
扉の隙間から動かないまま、冷や汗が額から頬を伝い背中を冷たく濡らす。
――聖杯……ヴォーパル……アリス……? 他の魔障のようにって何?
女性は震える足で、後退りしようとした。しかし、靴底が古い石畳の隙間に引っ掛かり、カツンと小さな音が響いた。部屋の中が一瞬凍りついた。カルドがゆっくりと振り返り、ユリウスも表情を硬くした。
慌てて扉から離れ、廊下を逃げようとした。だが、その瞬間、カルドの瞳が緋色に輝いた。
「【停止】」
低く絶対的な声を前に、女性の体が糸の切れた人形のようにピタリと止まった。
足は一歩を踏み出したまま、手は扉に触れたまま、髪は風に靡いたまま、完全に動きを奪われた。カルドはステッキを軽く振り、のっそりと歩み寄る。ユリウスも静かに扉を開けた。廊下に立つ女性は恐怖に目を見開き、2人の顔を最後に見た。カルドの冷たく底知れぬ瞳。ユリウスの穏やかだが一切の感情を殺した顔。女性の視界が緩やかに真っ暗に落ちていく。
意識が闇に沈む前、カルドの声だけが静かに響いた。
「余計なことを聞いたようだな」
蝋燭の炎が強く揺れた。学長室の扉が再び重い音を立てて閉まるのだった――。
朝の鐘がまだ遠くに響く頃であった。
アリスはベッドの中で昨日の痛みを鼻に残しながら深い眠りに落ちていた。
突然、扉が何度も激しく叩かれる音で目が覚めた。
「アリス! アリス起きて! 大変よ!」
普段の明るさとは違うメイベルの切迫した声。
アリスは飛び起き、欠伸を噛み殺しながら慌ててドアを開けた。
「どうしたのメイベル?」
メイベルは顔を真っ青にし、息を切らしながらアリスの腕を掴んだ。
「下宿寮の前でカレンが倒れてたの。さっき私の寝室に運んだんだけど、息がなくて」
アリスは一瞬で眠気が吹き飛んだ。
「カレンが? ――分かったわ」
2人はメイベルの寝室へと駆け込んだ。アリスの部屋と同じく簡素であった。
小さな机とベッド、朝陽がカーテン越しに差し込むだけの空間。
ベッドの上にはカレン・リッピンコットが横たわっていた。黒髪の美しい大学生。いつも冷静で、少し近寄りがたい雰囲気を纏っていたが、今は蒼白を通り越して灰色に近い顔色で、息も絶え絶えに、微かに胸が上下しているだけだった。唇は紫色に変色し、額には冷や汗が浮かび、体は小刻みに震えている。
アリスは【女神の箒】を召喚し、穂先を吸い込み口へと変えた。
「ピクサーブ! お願い! 力を貸して!」
「ああ、私に任せろ!」
妖精騎士たる姿が光と共に飛び出し、カレンのそばに着地する。
「【分析】」
ピクサーブの瞳が金色に輝き、カレンの体を隈なく調べる。
数秒後、ピクサーブの顔が絶望に歪んだ。
「……まずいな。全身が猛毒に侵されている。時限式の魔力だ。一定時間が経過すると、強制的に体内の機能が全て停止する。既に心臓と肺が限界を迎えようとしている」
メイベルが唇を噛み、涙を浮かべた。
「……そんな」
「そこをどいて。私が猛毒をお掃除するわ」
アリスだけは諦めていなかった。箒を静かに構え、元に戻した穂先をカレンに向けた。
「【浄化掃除】」
穂先から、優しい光が放たれ、カレンの体をそっと包み込んだ。
光は皮膚に染み込み、血管を巡り、毒を容赦なく浄化し、全身から皮膚の外へ押し出すように毒を吐き出していく。カレンの体が微かに震え、紫色だった唇が桜色へと戻っていく。
額の汗が蒸発し、蒼白だった肌が美しい白さを取り戻す。胸の上下が徐々に力強く規則正しくなる。
光が収まると、カレンは静かに深い眠りについていた。
「――猛毒が全部抜けている。流石はアリスだな」
ピクサーブが呆然と呟く。メイベルは涙を拭いアリスの手を握った。
「アリス、ありがとう」
箒の中でマルアス、ネレイアラがホッと一息吐くが、ジャンヌだけは表情1つ変えることなく、些細な異変を察知したのか、相も変わらず警戒の目を光らせていた。
「お掃除しただけよ」
「しかし、一体誰がこんなことを」
「それはカレンが知ってるんじゃない?」
「そうだな。だが仮にも1人の生徒が猛毒を受けて倒れるなど、由々しき事態だ。恐らく別の誰かが猛毒を仕掛けたに違いない。大学に報告して、警備を強化した方がいいんじゃないか?」
「無理よ。魔障が1人やられたところで、大学は動かないわ」
箒の中でネレイアラがジャンヌに視線を向ける。
「人間界って本当に不思議の国ね。来た時から気になってたけど、どうして同族同士で命まで奪うの?」
「無尽蔵に欲望を膨らませていくのが人間だ。それは文明的には進化だが、生物的には退化とも呼べる」
メイベルの寝室は、まだ少し冷たい空気を温めていた。
ベッドの上に横たわるカレンは黙したまま、肌を朝の光に晒している。アリス、メイベル、ピクサーブはベッドの両脇に立ち、息を潜めて彼女を見つめていた。
カレンの瞼が微かに震えた――。
「……ん?」
小さな呻きと共に、ゆっくりと目を開ける。紫水晶のような瞳が最初は焦点を失っていたが、やがて周囲に立つアリスとメイベルの顔を捉えたが、今にも気が遠くなりそうな顔だ。
「ここは?」
声は弱く、掠れていた。アリスが優しく手を握る。
「カレン、大丈夫? あなた、下宿寮の前で倒れて、猛毒に侵されていたのよ」
「そうだったんだ……アリス、ありがとう。お陰で助かったわ」
「お掃除しただけよ。それより、どうして瀕死の重傷を負っていたの?」
カレンは一瞬、目を大きく見開き、体を起こそうとした。
「どうしてって言われても――私、一体何を……うっ! 頭が……痛い!」
言葉が途切れ、突然、カレンが額を押さえて呻く。
激しい頭痛が脳を締めつけるように襲う。カレンは体を丸め、苦痛に顔を歪めた。
アリスが異変に気づく。魔障院付属図書館に缶詰めになっていた自身を思い出す。
痛みが和らぐと、カレンを丁寧に抱き起こす。
「どうして思い出そうとしただけで頭痛が起こるのかしら?」
「きっと呪術魔法よ! 本で読んだことがあるわ! 記憶を封じるための呪術魔法が載っていて、思い出そうとすると頭が痛くなるの。でも呪術魔法はとっくに滅んだはず……」
「確か錬金魔法も、古代で使われていた書物を掘り当てた者たちが、魔導兵器開発のために使うようになったと聞いたが、それと同じく、呪術魔法も掘り当てた者がいるのではないか?」
「呪術魔法は語ることさえタブーだし、秘密裏に掘り当てた人がいても不思議じゃないわね。これが本当なら大変なことよ。まずは呪術魔法をお掃除するわ」
「えっ? 本気で言ってるの? 呪術魔法は何万年にもわたって続くと言われている強力な呪いなのよ」
信じられないと言わんばかりの疑問を顔に浮かべるカレン。
「アリスなら大丈夫よ。いいからジッとしてて」
メイベルの言葉にカレンが渋々頷くと、アリスは箒を構え、穂先をカレンの額に向けた。
「【魔力掃除】」
元に戻った穂先から淡く青い光が放たれ、カレンの頭にそっと触れる。
光は頭蓋の内側へと染み込み、黒い霧のような魔力を引き摺り出していく。黒い霧は、カレンの額から煙のように立ち昇り、光に触れた瞬間、音もなく消滅した。
カレンの体が、一瞬ピクリと震え、やがて深い息を吐いた。
「――思い……出した……」
ゆっくりと体を起こし、アリスとメイベルを驚愕の目で見つめた。
「学長室でカルド枢機卿とユリウス学長が会談していたわ」
アリスとメイベルが息を呑み、箒の中ではジャンヌが聞く耳を傾けた。
「何を……?」
カレンは震える声で全てを語り始めた。
「聖杯ルパーヴォは聖剣ヴォーパルの真の鞘で、聖剣は大学の地下聖堂に安置されているわ」
「地下聖堂? 大学にそんな場所があるの?」
「私が入学した時に大学の地図を一通り見たけど、地下聖堂なんて載ってなかったわ」
「……禁忌の聖域」
「「!」」
冷たくポツリと呟いたカレンの言葉に、アリスとメイベルが耳を疑った。
「その反応から察するに、心当たりはあるみたいね」
「ええ。人里離れた森とかね」
「人気のない場所だけとは限らないわ。古代では禁忌の聖域は文字通りタブー。古代の地図には詳細な場所さえ載らなかった場所なのよ」
アリスの箒の中でマルアスが耳を傾けている。
「禁忌の聖域なら、むしろ地図に書いて、広く知らせた方が良いんじゃねえか?」
小さく呟くと、ジャンヌがマルアスの隣に佇む。
「古代の地図は各地を渡り歩く財宝発掘家が書いていた。つまり禁忌の聖域というのは、他の誰かに知られてはならない何かを隠すための場所だった。人間は知ることを欲する生き物だ。禁忌の聖域と知れば、当然赴こうとする者もいる。一攫千金を狙う者、もしくは――」
「好奇心が旺盛な奴……だろ?」
「……」
ふと、マルアスが笑みを浮かべると、ジャンヌは咄嗟にアリスの碧眼へと警戒の目を向けた。
「カルド枢機卿は聖剣ヴォーパルの力を悪用して、この世界を手中に収めるつもりよ。アリス、あなたは良からぬ野望のために利用されようとしているわ。あなたの掃除魔法で聖剣ヴォーパルの余分な魔力を取り除いて、制御できるようにすると言っていたわ」
「つまり、アリスが入学を認められたのって――」
「やはり仕組まれていたか」
「私はてっきり、今までの努力が報われたものとばかり思っていたわ……なのに……そんな恐ろしい計画があるなんて知らなかった。だから院長先生は……カエルレウムマレからの進学を不思議がっていたのね」
アリスは肩を落とし、カルドへの失望を隠せない。
大学で教職となるべく海を渡ったが、その意欲は失せつつあった。人間界ヒューマースが正統教の枢機卿たるカルドの手に落ちれば、今まで以上に魔障への風当たりが強くなるのは必至であった。
夢と野望の狭間に揺れ、頭さえ重く感じた。
錬金魔法によって作られた魔導兵器の実験を目撃し、その真相を知った者ほど魔導兵器を量産するべきではないと口を揃えて言った。放っておけば世界が滅びる。故に消去しなければならなかった。
禁忌職人ガリオン・ダスクブレードの著書『永遠なる星屑の叙事詩』より




