chapter 3-7 蔑視
昼下がりの大広間。午前の授業が終わると、大学は一気に静けさを取り戻した。
朝の喧騒は嘘のように消え、廊下の足音が遠ざかり、大広間の石畳には、斜めに差し込む午後の陽光だけが金色の帯を描いている。アリスはメイベルと別れた後、午後からの授業へと向かう。
人通りがめっきり少なくなっていた大広間を1人で横切ろうとしていた。
広間の壁には古いタペストリーが揺れ、歴代学長の肖像画が静かにアリスを見下ろしている。
その片隅で数人の大学生が声を潜めて囁き合っていた。
「なあ、鉄仮面の噂、聞いたか?」
「またかよ。あれってただの都市伝説だろ」
「最近落書きが増えてるじゃん。帝国が本当に誰かを秘密裏に収容してるって。しかもあのカルド枢機卿が絡んでるってさ。本当なのかな?」
「知るかよ。鉄仮面って、顔を見たら殺されるとかいう奴だろ?」
アリスは、足を止め、耳を澄ました。鉄仮面。その言葉が胸の奥に微かな棘のように刺さる。
大学生たちはアリスの存在に気づかず、更に声を潜めて続ける。
「俺の叔父がトランプ兵なんだけどさ、この前地下収容所の補強工事を手伝わされたんだってさ」
アリスは静かに息を吐き、歩みを再開した。大広間の石畳を、靴音が軽く響かせる。
人影はほとんどなく、遠くで誰かのページを捲る音だけが微かに聞こえる。
その時、柱の影から、赤いマントを翻した人影が現れた。フランソワであった。金髪のオールバックを午後の光に輝かせ、銀の百合バッジを胸に、静かにアリスの前に立ち塞がる。
「ちょっといいか?」
声は低いが、確実にアリスの名を呼んだ。
足を止め、少し警戒しながら、首を傾げた。
「どうしたの?」
フランソワは、人差し指を口に当て、静かにと言わんばかりの仕草をし、周囲を素早く見渡した。
誰もいないことを確認すると、ゆっくりと歩み寄り、アリスの耳元で囁くように言った。
「……話がある」
真上の陽光が、2人の影を長く、石畳に重ねた。
大広間の奥では、古い時計が思い出したように時を刻み始めた。
風がプラタナスの葉をざわざわと、不穏に鳴らし始めた。
数時間前――。
大学の昼休みはラウンジに柔らかな光が差し込み石畳の床に影を落としていた。
フランソワは友人たちに囲まれ、ラウンジのソファーに腰を下ろしていた。友人たちは、銀の百合バッジを胸に、それぞれ魔箒を傍らに置いて、フランソワをからかうように笑っている。
「なあフランソワ、何でさっき魔障の女に背を向けたんだよ?」
「魔障を見て引き下がるなんて珍しいよな。お前らしくもない」
フランソワは苦笑いを浮かべながら紅茶のカップを置いた。
「お前ら知らないのか? 彼女は魔障院の掃除番、アリス・ブリスティアだぞ」
魔障院の掃除番という言葉を聞き、友人たちが一瞬真顔になる。
「そうかもしれねえけど、たかがルベルバスの魔障だぜ。あれじゃお前が負けを認めたみたいにしか見えねえぞ。あそこまで煽っておいて引き下がるなんてな」
1人の友人が掲示板のクエスト紙を振って見せた。
「だったらスラッジオ討伐をやってみたらどうだ?」
他の友人たちが笑いながら煽る。
「そうだよ。フランソワだったら余裕だろ? ソルカリガで次期教皇って言われてる父親の血を引いてるんだぜ。スラッジオ討伐に成功すれば、教皇選挙でも優位に立てるじゃん」
フランソワは一瞬顔を歪めたが、やがて立ち上がった。
「……分かったよ。俺1人でスラッジオを討伐すりゃいいんだろ。余裕だ」
友人たちが、拍手と歓声で送り出す。
「頑張れよフランソワ。俺たちの実力を見せつけてやろうぜ」
貴族たるもの、一度振り上げた拳を下ろす選択肢はない。
重すぎる期待を一身に背負い、広場を去っていった。
「それでスラッジオ討伐クエストを俺1人で引き受けたんだけどさ、俺1人じゃ到底無理だ。なあ、一緒にやってくれないか? 頼む。一生のお願いだ」
「あの偉そうな餓鬼大将はどこへ行ったのかしら?」
フランソワは恥を忍び、腰を低くして必死に訴えた。
「立場上仕方なかったんだ。魔障と仲良くしてるなんてことが父上に知れたら破門だからな。アリスは今やスラッジオ討伐の第一人者。お前ならスラッジオを倒せるはずだ」
アリスは一瞬考え込み、日光が2人の影を長く石畳に重ねた。
聞けばフランソワにはただならぬ事情があった。
次期教皇の子息として、首席での卒業を言いつけられるも、勉学こそ優秀だが、魔力は人並みにしか振るわせることはなく、優秀帝国民の称号など、夢のまた夢であった。
「スラッジオ討伐を果たせば、あなたのお父さんが教皇選挙で有利になるの?」
「まあな。正統教の教皇選挙は実力で決まるが、力が同じくらいなら投票で決まる。前の教皇は息子がアゴスブルク家から嫁を貰っていたことが決め手になって教皇になれたんだ。しかも今はスラッジオが各地で猛威を振るっている。もし俺がスラッジオを倒したってなりゃ、父上の力添えになれるだけじゃない! 俺もルクステラ史に名を刻むほどの大物になれるってもんだ! 俺だって一目置かれたい! 父上ほどじゃなくていい! みんなから尊敬される貴族になりたい!」
意気揚々と語るフランソワを前に、アリスは仮面の剥がれた素顔を見た。
「あなた、今の方が等身大よ。さっきよりもずっと生き生きしてるわ。小物にしか見えないけど」
「そりゃねえだろ……随分な言われようだ」
「みんなの前でも今のあなたでいればいいのに、どうして隠そうとするわけ?」
「貴族は体裁が命だ。常に強い優等生であることが求められるからな」
「魔障院にいた時から思っていたけど、男ってどこでも虚勢の張り合いばかりで大変ね」
「全くだ。できれば大学よりも先に、見せかけの優等生を卒業したいんだけどな」
対面するようにしながら他愛のない会話をするアリスとフランソワの前に、数人の生徒が通りかかる。
「フランソワ? お前、何で魔障なんかと仲良くしてんだ?」
信じられないと言わんばかりの表情で、生徒がフランソワを疑うように尋ねる。
突如として血相を変え、普段の冷徹な目つきへと変わった。
「仲良く? おいおい、この俺が魔障如きと仲良しになるわけねえだろ。スラッジオの件について話していたんだ。どっちが先にスラッジオ討伐を果たせるかで競争しようって話になった」
「ハッ! 魔障がフランソワに勝てるわけねえだろ! そんなの勝負にもならねえよ!」
「そうそう。魔障の猿頭でも分かるように、ちゃんと叩き込んでやらねえとな」
「その魔障っていう呼び方やめてくれる? 私にはアリス・ブリスティアという立派な名前があるのよ」
「魔障の分際で話しかけんじゃねえよ! 神に見放された劣等種が調子に乗るな!」
生徒たちが一斉に嫌悪の目をアリスに向ける。
彼らの目には一片の曇りもなく、さも当然のような反応だ。
アリスの中で何かがぷつんと切れる音がした。
怒りが煮え滾り、昂る感情に身を任せ、拳を振り上げようとする。
しかし、一瞬の追憶がアリスの体を停止させる。
貴族少年に楯突き、メイベルを庇い、停学となった魔障院時代を思い出す――。
ハッと気づいたアリスは口を噤みながら握り拳を解き、己の無力さを噛みしめた。代わりに生徒たちを哀れみの目で見つめると、1人の生徒がアリスに向かってずかずかと乱暴に急に歩み寄る。
「何だその目はっ!」
左手でアリスの胸ぐらを掴むと、何の躊躇いもなく右拳を振るい、アリスの鼻に直撃する。
吹っ飛ばされるアリス。派手に床の上を転ぶと、俯せとなったアリスの顔から赤い液体がポタポタと流れ落ちる。箒の中にいたピクサーブ、マルアス、ネレイアラが目を大きく見開いた。
だがジャンヌは冷静に状況の行く末を見守っている。
「あの野郎! レディに手を出すなんて許せねえ!」
「もう見てられないわ。あたしが出る!」
「私も行こう――」
「待て!」
ジャンヌが一声で制止すると、ピクサーブ、マルアス、ネレイアラが同時に首を振り返る。
「何で止めるんだよ!? 目の前でアリスを傷つけられたんだぞ!」
「そうよ! 寄りによって同種に手を出すなんて……そんなの間違ってるわ……」
「同感だ。リーフォレストではまずありえない光景だ」
「お前たち異界の者には分からんだろうが、これが人間という存在だ。自然破壊、世界紛争、そして――魔法障害者への根強い蔑視。人間は知性なき知能によって、何度も同じ過ちを繰り返してきた」
「だからって、仲間を見捨てられるわけないでしょ! アリスはあたしたちの世界を救ってくれたのよ。今度はあたしたちが助ける番よ――」
「今出ていけば、アリスを更に追い詰めることになるぞ」
「どういう意味よ!?」
頭の提灯を光らせ、声を張り上げるようにネレイアラが言った。
「アリスはただでさえ魔法障害者という十字架を背負っている。そこにお前たちが出ていって庇うようなことをすれば、魔障がアニマリーを使って問題を起こしたと言われる。立場の弱い者のしたことだけが取り沙汰される。それが人間界の常識だ。アニマリーの立場も、決して良くはない」
「だからアリスは……何もできなかったのか」
「そんなの……可笑しいわよ」
ネレイアラが大粒の水滴を流し、マルアスを正面から抱擁して啜り泣く。
アリスは床に転がったまま、ゆっくりと体を起こした。鼻から垂れた血が青い魔障院制服の胸に赤い染みを広げ、石畳にポタポタと落ちる。周囲の生徒たちは、最初こそ歓声を上げていたが、アリスが立ち上がる姿を見て、次第に騒めきを失った。一言も発することなく、震える手で鼻を押さえ、血の滴る制服の袖で顔を拭った。碧い瞳は怒りでもなく、悲しみでもなく、底知れぬ深い静けさを宿していた。
大広間に来たメイベルが慌てて駆け寄ろうとするが、アリスは1人で立ち上がった。
足取りは確かだったが、肩が僅かに震え、手の平が白くなるほど強く握りしめられている。
生徒たちの視線を一切受け止めず、アリスは広場を後にした。日光がアリスの背中を血のように赤く染めていた。下宿寮への道はプラタナスの葉が風に鳴り、悔しさを代弁するように音を立てていた。寝室に戻ると、アリスは扉を閉め、鍵をかけた。部屋は朝の光の残る静けさに包まれていた。
ベッドに座り込み、床に膝をつき、腕を抱えて震えを抑えようとした。鼻の痛みが、熱く、鋭く、胸の奥まで突き刺さる。悔しさは言葉にならず、喉の奥で熱い塊となり、静かに燃え続けていた。
震える腕を更に強く抱きしめる。その時、ノックの音が響いた。
「アリス! 私よ! 頼むから開けて! 治療するわ!」
アリスは一瞬息を止めた。のっそりと立ち上がり、鍵を開けた。
メイベルが入ってアリスの顔を見た瞬間、思わず目を見開いた。
「酷い! 鼻が折れてるじゃない!」
慌てて鞄から小さな瓶を取り出し、蓋を開けた。中に入っていたガラスの小瓶には淡い緑色の粉末。
メイベルは蓋を開け、慎重に指先に粉を乗せ、アリスの顔を優しく支えた。
鼻梁、鼻孔の縁、頬の血の筋に沿って粉をそっと円を描くように擦りつけた。粉が触れた瞬間、皮膚が微かに光り、粉末が生きているかのように皮膚に埋もれていく。淡い緑の粒子が、毛穴から、傷口から、骨の罅割れから吸い込まれるように浸透し、光の糸となって鼻骨を縫い合わせていく。
骨が正しい位置に戻る音が小さく静かに響いた。歪んでいた鼻梁がゆっくりと元の形を取り戻す。
出血はピタリと止まり、血の筋が時間を逆行するように薄れ、消えていく。
数秒の後、メイベルが指を離すと、アリスの鼻は何事なかったかのように美しい形へと戻っていた。
しかし、僅かに腫れが残り、触れるとまだ痛みが走る。
アリスはゆっくりと目を開け、指で鼻にそっと触れた。
「色んな薬草を調合して作られた傷薬だから、もう大丈夫よ」
メイベルの安堵した顔を見つめ、アリスは小さく微笑んだ。
「……ありがとう」
自分の耳をアリスの耳に触れさせるようにしながら、メイベルは涙を浮かべ、抱擁する。
「ううっ! 無事で良かったぁ~!」
「ごめんね。心配かけて……」
しばらくの沈黙が続き、痺れを切らすようにメイベルが口を開いた。
「……アリスはいつも1人で抱え込もうとするよね」
「私は1人でも十分戦えるわ――」
「だったらどうして! ……ピクサーブたちを箒の中に隠してまで連れてきたのよ!?」
「みんなが私の道に力を貸したいって言うからよ」
「嘘よ……本当は分かってるんでしょ? 自分の力だけではどうにもならないって。だからこそアリスは異界からの仲間を受け入れた。違う?」
「……」
またしても間を置くと、アリスは小さく息を吐き、静かに呟いた。
「でも……これが私の戦い方よ」
メイベルは何も言わず、アリスの手を強く握り返した。
箒の中では、2人の様子を窺いつつも、ピクサーブたちが目を背けていた。
時空の穴を通り、異界へと導かれた者を俗に迷い人と呼ぶ。宮殿列車は迷い人を見つけては拾い、然るべき世界へと運ぶ調和の象徴なのだ。もっとも、乗客はいつも数えるほどしかいないのが寂しくもある。
歪みを追う者クィント・ランブルステップの著書『天翔ける宮殿列車』より




