chapter 3-6 落書き
帝都アティ・テルの朝の市場は、いつもより騒めきが大きかった。
白い石壁に広がる赤い落書きを前に、商人、主婦、子供までもが魔力を使い、必死に拭ったり呪文を唱えたりしていたばかりか、優秀帝国民までもが動員される始末であった。
「【浄化】」
若い女が手を掲げると、発せられた光が壁を覆うが、文字はビクともしない。
「【水流】」
中年の男が手から出した水玉をぶつけるが、石は水に濡れるだけで、文字は鮮やかに浮かび上がる。
「クソッ! 何だこの塗料は! 魔法がまるで効かねえ!」
溜め息と苛立ちの声が市場の喧騒に混じって響く。
アリスとメイベルは、その一角で立ち止まり、落書きを眺めていた。
「帝国は鉄仮面を秘匿している……鉄仮面の秘密を暴け……カルド枢機卿の陰謀を止めろ……」
アリスが呟くと、メイベルがアリスに耳打ちする。
「これ、ただの悪戯じゃないわ」
「でしょうね。恐らく頭が子供のまま、字だけうまくなった人ね」
「頭が子供って、どういうこと?」
「目立とうとするのは注目されたいからよ。承認欲求の塊で、誰でもいいから見てほしいのよ」
その時、石畳を踏む重い足音が市場全体を震わせた。
トランプ兵の部隊が、赤と青の甲冑を鳴らして現れた。先頭のトランプ兵はハートの紋章を胸に、背後に大砲を曳かせている。大砲は黒鉄製で、砲口に魔力結晶が埋め込まれ、淡く青白く輝いていた。
群衆が騒めき、慌てて道を開ける。トランプ班長と思われるトランプ兵が羊皮紙を広げた。
「宰相命令である! 汚れを落とせぬ壁を砕け! 帝都の景観を損なう落書きは即刻除去する!」
商人たちが顔色を変え、今度はトランプ兵たちの前に立ち塞がる。
「待てよ! 壁を砕くって……家が壊れるじゃねえか!」
「冗談じゃねえ! 俺の店が潰れてもいいってのか!?」
「ああ、その通りだ」
しかし、トランプ兵たちは無表情で、大砲の砲口を落書きの壁に向けた。
砲口の中から魔力を帯びた砲弾が不気味に輝き始める。その瞬間、アリスが一歩前に出た。
「ちょっと待って!」
声は張り上げるように大きく、広場全体に響き渡った。トランプ班長がゆっくりと振り返る。
「誰かと思えば、魔障ではないか。邪魔しないでもらおうか」
アリスは【女神の箒】を肩に担ぎ、トランプ班長を見据えた。
「あなたたち正気なの!? 壁を砕くなんて乱暴すぎるわ!」
トランプ班長が嘲るように笑った。
「これはカルド枢機卿の命だぞ。魔障の分際で猊下の命に逆らうつもりか?」
アリスは碧い瞳を燃やし、ツカツカと近づく。
「落書きを消すなら私がやるわ」
「ふざけるな。落書きは優秀帝国民でさえ消せなかったのだ。お前のような魔障如きに消せるわけがないだろう」
「だったらまず、あなたたちからお掃除するしかないようね」
箒を構えると、一触即発の危機を感じたメイベルがアリスの前へ出る。
「あの……私たち、学生なんです」
「だから何だというのだ?」
「提案があるんですけど、アリスが落書きを落とせたら課外活動として単位を認めてもらえませんか?」
「何を言っている。学生ならさっさと帰れ。でなければ所属先に問題児として報告するぞ」
「ここで大砲をぶっ放す方がずっと問題よ。景観だって損なわれるし、こんなことをして帝都民から不満を買ったら、猊下の立場だって悪くなるわよ」
「そうだそうだ! カルド枢機卿でもやって良いことと悪いことがあるぜ!」
「暴力反対! トランプ兵は帰れ!」
帝都民たちの口から帰れの大合唱が響く中、トランプ班長は言葉を失い、やがて、冷たく笑った。
「……いいだろう。お前たちの言うことももっともだ。ならばやってみせろ。できなければ、この大砲で壁ごと吹き飛ばす。お前たちも問題を起こした魔障として帝都を追われ、退学になるだろう」
群衆が息を呑む。アリスは箒を構え、静かに微笑んだ。
穂先が吸い込み口へと変わり、中から大量の白い雑巾が飛び出し、アリスの周囲を浮遊する。
「お掃除の時間よ。【聖水掃除】」
上に向いた穂先から勢い良く大量の聖水が噴き出し、宙を舞う白い雑巾へと降り注ぐ。雑巾は一瞬で聖水を吸収し、まるで生き物のように帝都中の落書きへと飛び立っていった。
1枚の雑巾が壁に張り付き、小刻みに摩擦を起こす。赤い文字が溶ける雪のように薄れていく。
雑巾が市場の壁、噴水の縁、露店の柱、教会の門柱、路地の隅、橋の欄干、帝都のあらゆる場所へと飛んでいき、全ての落書きを瞬く間に消し去っていった。
塗料の魔法耐性を無視しながら、汚れなど最初からなかったかのように、石を元の白さへと戻す。帝都民たちは呆気に取られ、やがて歓声と拍手が沸き起こった。
「消えた……落書きが消えたぞ!」
「嘘だろ。魔障がやったのか!?」
「すげえ、壁が新品みたいだ!」
商人たちは涙を浮かべ、子供たちは手を叩き、女性たちは祈るように胸に手を当てる。トランプ班長は大砲の前に立ち尽くし、口を開けたまま、信じられないという顔で壁を見上げた。
「信じられん。魔障にこんな力が……」
トランプ班長の声は震えていた。大砲の魔力結晶が無意味に輝きを失う。
「――撤退するぞ……」
「いいんですか?」
「ああ。猊下を貶める落書きがないなら、大砲を使う理由もない」
トランプ兵たちは大砲を曳き、重い足取りで市場を後にする。
去り際に、トランプ班長が後ろ姿のまま、アリスに向かって兜越しに冷たい目を向ける。
「お前が何者かは知らん。だが長生きしたいなら、猊下には逆らわないことだ」
声は風に乗り、確実にアリスの耳に届いた。帝都民たちはトランプ兵の退却を拍手と歓声で見送った。
雑巾が全て戻ってくると、穂先の吸い込み口へと入っていく。
アリスは事なきを得た安心からか、静かに息を吐いた。
「アリスはずっと変わらないわね」
メイベルが歩み寄ると、アリスは少し疲れた笑みを浮かべ、帝都の空を見上げた。
「よく変わり者って言われるけどね」
帝都から落書きが綺麗さっぱり消えると、市場全体が息を呑むような静けさに包まれた。
最初にアリスの掃除魔法に気づいたのは、1番近くの壁を拭いていた老商人だった。
歓声が市場全体に広がった。老商人は呆気に取られながら壁に触れた。
「俺の店が元の白に戻った……ありがとう……ありがとう、お嬢ちゃん!」
子供は笑いながらアリスの雑巾を思い出す。
「雑巾がトランプの札みたいにいっぱい飛んでたね! あんな魔法があったんだ!」
女性はアリスを見つめながら歩み寄る。
「神様の思し召しね。本当にありがとう」
市場は一瞬にして喜びと感謝の渦に変わり、商人たちが自分の店を指差す。
「見ろ! 壁が綺麗になったぞ!」
隣の店主と抱き合い、笑い合う。落書きが消えた壁は、昨日建てられたかのように白く輝き、朝陽を反射して帝都全体を明るく照らした。市場の人々がアリスを取り囲み、次々と感謝の言葉をかけていく。
「ありがとう、お嬢ちゃん! これで店が元通りだ!」
老商人はアリスの手を握り、惜しみなく言った。
「これで俺たちの生活が元通りになる」
掃除の余韻を知らせるかのような光沢は、新しく磨かれた石壁を何もなかったかのように、美しく照らし続けていた。人々の生活に笑顔が戻り、市場が再び商売の賑わいを見せる。
落書きの赤い文字は、もうどこにも残っていなかった。
「しかし、どうしてお嬢ちゃんは、ここまで立派に掃除番の仕事ができるんだい? 魔法耐性を持った頑固な落書きを落とせるほどの強力な魔法が使えるなら、他でもっと稼げただろうに」
「帝都の素敵な景観は、人知れず仕事をしている掃除番の賜物よ。もし掃除番がいなかったら、今頃帝都の町は汚物塗れになっていたでしょうね。誰かが掃除番にならないと、綺麗にならないのよ」
「いやぁ~、実に逞しい限りだよ。下級使用人にするには惜しい逸材だ。うちで働く気はないか?」
「気持ちは嬉しいけど、私にはやるべきことがあるわ」
「そうか……なら聞くが、君は何が望みなのかな?」
「私の望みは、魔障の地位を常人と同じところまで上げることよ。そのために教職を目指しているわ」
「なるほどねぇ~。魔障の地位を上げたいなら、教職より女王様にでもなった方が早いんじゃないか?」
老商人が笑いながら言った。アリスは冗談と思い、苦笑いを浮かべる。
「そうかもしれないけど、私にそんな力はないわ」
「いや、あるはずだ。君はまだ、内に秘めた力に気づいていないようだからな」
老商人が不穏な笑みを浮かべると、アリスは首を傾げ、漠然とした違和感を覚えた。
箒越しに含みのある言葉を聞いたジャンヌが警戒の目を光らせた。
雑巾を肩にかけ、まだ少し震える足取りで、市場の喧騒の中を歩き出した。
人々が感謝の言葉をかけ、手を振る中、老商人は静かに市場の端へと向かう。
市場の喧騒が遠ざかり、路地が細くなり、人影が疎らになる頃、老商人は人気のない町外れの古い石壁に囲まれた空き地に辿り着いた。日光が差し込むが、ここだけは影が深く、冷たい風が吹き抜ける。
老商人が立ち止まり、周囲を見回した。誰もいないことを確認すると、体がゆっくりと変わり始めた。背が伸び、皺が消え、白髪は伸び、顔立ちが鋭く、威厳のあるものへと変わっていく。古びた服が鮮やかな緋色の礼服へと変わり、裾には金の刺繍が輝いている。
その瞳は獲物を値踏みするような、冷たく、底知れぬ光を宿していた。
カルド・プルミニストル枢機卿であった。仮面のような笑みを浮かべ、優雅にステッキを持つ。
「アリスに会った感想は如何ですかな?」
木の下で待ち構えていたユリウスが話しかける。
「噂通り面白い娘だ。絶大な魔力を有していながら、自覚することもなく、周囲に悟らせることもなく、世の秩序のために【掃除】を究めている」
「しばらくは泳がせておけとの仰せでしたが、本当によろしいので?」
「アリスを呼び寄せるために餌を撒いたが、我輩の計画通りに動いてくれたようだ」
「落書きは誰の仕業でしょうか?」
「魔障盗賊団の連中だ。鉄仮面の存在に感づかれてしまったが、これで目的が炙り出せた。奴らが動く前に先手を打ち、早々に消去せねばならん」
目を細めながらステッキを振るうと、木の葉が全て固まり、硝子細工のように全て抜け落ちる。
一瞬、強大な魔力を前に恐怖を覚えるユリウス。だが怯むことはなく、再びカルドを見やる。
「猊下、儂にはあの小娘がそこまでの力を持っているようには到底思えません。本来であれば、入学資格さえ持たないアリスを我が校に招いてまで肩入れする理由は何です?」
「ルベルバスでは流行り病を一掃し、カエルバスでは白薔薇の女王を即位させて後継者問題を掃除した。これで皇帝陛下の計画が狂ったのだ。暴君たるルベルバスと君主なきカエルバスを戦わせ、両軍が疲弊したところに聖剣ヴォーパルの力で我が軍を送り込み、ルヴァ島を乗っ取る算段が丸潰れだ」
「白薔薇の女王が即位したならば、赤薔薇の女王にとって攻める口実になるのでは?」
「口実にはなるが、動機にはならん。カエルバスは先代王の死を民に隠し続けていた。それを公にすることで民の不信を煽り、内側から崩れるほどでなければルベルバス側に侵攻する余地などない。何処も彼処もスラッジオ討伐に頭を悩ませているのだ。しかし、ここまでの御膳立てをしなければ、小国さえまともに攻められぬとは、ルベルバスも落ちたものよ」
カルドが呆れたような口振りで言うと、ユリウスはカルドから目を背けた。
緋色の礼服は、ユリウスには血の如く、赤く目に映っていた。カルドが市場の方角を振り返る。
ユリウスは懐中時計を見るや否や、一礼を済ませてアティ・テル大学へと戻り、カルドがたった1人佇んでいる。ステッキを接地させ、アリスがいたアティ・テル市場を見渡す。
風が吹き、町外れの空き地に、陰謀の影だけが長く伸びていた。
一方、アリスの箒の中では、ピクサーブとジャンヌの会話が続く。
アリスはメイベルと共に大学へと戻り、共同でのクエストクリアにより、単位を認定されているところであった。クエストを出したのは、他でもないルクステラ帝国であった。
「ジャンヌ、さっきから表情が冴えないようだが」
「あの老商人の言葉が引っ掛かっている。最初からアリスを知っていたかのような口振りだ」
「ルクステラにもアリスを知る者がいたという話ではないのか?」
「魔障院の掃除番が流行り病を一掃したことは知られている。だが二つ名が1人歩きをしているだけで、アリス自身が著名なわけではない」
「周囲の反応から察するに、その通りだろうな。鉄仮面の落書きから、何か分かったことはあるか?」
「おおよそお前の見解と同じだ。誰かの意図が働いている」
ジャンヌが警戒の目を再び外へ向ける。学生たちは鉄仮面の噂をし始めた。
アリスは好奇心そのままに、群がる生徒たちに引き寄せられるように近づいていく。
どこへ向かうのかも分からず、筋書きもないまま、ただひたすらに彷徨い続ける音楽のことを我々は時間と呼んでいる。全宇宙に生じた時空の穴は異界の門として出会うはずのない者同士を引き合わせ、運命さえも歪ませる。だが時空に負荷がかかり続ければ不協和音を起こし、全宇宙の崩壊へと繋がりかねないのだ。
時を刻む職人ブリキアント・ティンプレーターの著書『歪みの理』より




