表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Alice in Abyssal Oblivion  作者: エスティ
第3章 鉄仮面と失われた聖杯
105/107

chapter 3-5 下水道

 帝都アティ・テルから遠く離れたルクステラ辺境の地。


 深い森を抜けた先の断崖に、灰色の要塞のような収容所が、大地から生えた棘のように聳えていた。


 外壁は黒鉄の厚板で覆われ、塔の頂には常に魔力結界が淡く輝き、風が吹いても葉っぱ1枚落ちない。地下へ続く螺旋階段は松明の揺らめく火光だけが道標で、湿った石の匂いと、時折響く水滴の音が永遠の静寂を強調する。地下5階、最も深い牢房、壁は魔石を埋め込んだ鉄格子で空気すら重い。


 息を吐くと、すぐにでも白く凍りつくようだ。


 牢房の中央には鉄仮面の男が収容されていた。体は鎖で壁に固定され、手足は魔力封じの枷で封じられている。周囲には呪術陣が三重に描かれ、淡い紫の光が絶えず脈打っている。顔は黒鉄の仮面で完全に覆われており、目と口の部分に細いスリットがあるのみであった。


 仮面は呪術魔法で溶着され、鍵もなければ取る術すら存在しない。男は動かない。ただ、スリットから覗く灰色の瞳が、闇の中で光を宿していた。松明の火が仮面の表面を赤く照らす。


 鎖の軋む音が時折、牢房に響く。その時、階段から重い足音が降りてきた。


 クローバーの6と書かれたトランプ兵。赤と青の甲冑に描かれたクローバーの紋章、兜越しの若々しい顔に緊張を浮かべ、重々しい空気を感じ取り、牢房の前に立つ。


「交代です。今日からここは私が守ることになりました」


 牢房の前で立っていたスペードの3のトランプ兵が甲冑を鳴らして振り返る。


「新入りか。ならば伝えておこう。こいつは特別だ。絶対に近づくな。話しかけてもいけない」


 クローバーの6は牢房を覗き込み、鉄仮面の男を眺める。


「何故そこまで厳重なんです? 仮面まで被せて」

「いいか、よく聞け。もしこいつが自分の経歴を話し始めたら、その場で殺せ」


 スペードの3は低い声で念を押すように告げた。


 腰から黒い拳銃を取り出し、クローバーの6に渡した。銃身は冷たく、弾の匂いが微かに漂う。


「殺せって、何故です? こいつは何者なんですか? 顔を隠してまで厳重に収容する理由は何です?」


 スペードの3は牢房を振り返り、鉄仮面のスリットから覗く灰色の瞳を避けるように目を逸らす。


「……知らない方がいい」


 さっきよりも声は低く、牢房の闇に溶けるように消えた。スペードの3は階段を上り、足音が遠ざかっていく。残されたクローバーの6は拳銃を握りしめ、牢房の前で立ったまま、鉄仮面の男を睨んだ。


 男は動かない。ただ、スリットから瞳が彼を見据えていた。松明の火が、ぱちりと爆ぜ、影が牢房の壁を生き物のように這い回った。収容所の外では、風が不穏な音を立てて吹き始めるのだった――。


 アティ・テル帝立大学中央広場では、魔箒サークルに新しい歓風が吹く。


 プラタナスの葉がざわざわと鳴り始めた。広場の中央、アリスとフランソワが一触即発の距離で対峙していた。フランソワは余裕の笑みを浮かべたまま、相棒となる魔箒を肩に担いでいる。


 アリスは碧い瞳を静かに燃やし、一歩も引かない。


 周囲のサークル部員たちは息を潜めて2人の間を見守る。空気が張り詰め、今にも緊張の糸が切れそうなその瞬間、フランソワが意外にも肩を竦めて笑った。


「ふん。まあいい、今はお前に構っている暇はない」


 一転して、フランソワは箒を地面に立て、くるりと背を向けた。


 身構えていたアリスは拍子抜けし、思わず目を見開いた。


「アリス・ブリスティア」

「……何よ」

「お前とはいずれ決着をつけることになるだろう。今から楽しみだ」


 ニヤリと笑みを浮かべると、サークル部員たちが戸惑いの視線を交わす中、フランソワは取り巻きに囲まれながら広場を去っていった。アリスは一瞬、目を丸くした。


「……どういうこと?」


 メイベルが、息を吐きながら駆け寄る。少し得意げに胸を張った。


「良かった……終わったみたいね」

「ええ……でも、何で急に引き下がったのかしら?」

「そんなことより、さっきクエストの手続きを完了させてきたわ。下水道の落書き清掃クエスト、アリスと私の名前で登録したけど、報酬が5単位ずつ、報酬は250ランカ、落書きの数に応じて、追加報酬が50ヴァルの倍数で追加されるんですって」

「分かったわ。早いとこ終わらせましょ」

「急がないと締め切り過ぎちゃうもんね。帝都の下水道区画まで行きましょ」


 アリスとメイベルは大学の広場を後にし、帝都アティ・テルの下水道区画へと向かった。


 銀の百合バッジが朝陽を浴び、同じリズムで揺れる。帝都アティ・テルは朝の喧騒に満ちていた。


 石畳の通りは馬車の車輪が軋み、露店の呼び声が響き、カフェのテラスでは焼きたてのクロワッサンとコーヒーの香りが漂う。白い石の建物が連なり、屋根は灰青色の亜鉛板で覆われ、窓辺にはゼラニウムの花が飾られている。大河に架かる石橋を渡り、聖堂の尖塔が遠くに見え、鐘の音がゆっくりと打つ。


 大河の支流沿いに伸びる石畳の小道を歩きながら、メイベルが首から下げた小さな銀色の魔導具を弄んでいることに気づいた。それは鎖で繋がれた懐中時計のような形をしており、表面に小さなレンズとダイヤルが付いている。アリスは歩調を緩め、好奇心を抑えきれない。


「それは何?」


 メイベルが魔導具を軽く持ち上げ、ニコッと笑う。


写真現像機(フォトグラフィア)っていう魔導具よ。清掃クエストは現場を写真に撮って、掃除した後でもう一度写真を撮ってから提出して、初めてクエストクリアになるのよ」


 アリスは少しばかり眉を寄せ、握り拳を解いた。


「地味に面倒ね……ただお掃除するだけじゃ駄目なの?」


 メイベルは肩を竦め、写真現像機(フォトグラフィア)をの紐を首にかける。


「帝都のクエストは厳しいのよ。特に下水道みたいな場所は汚れの残骸が残ってないか、ちゃんと確認しないと危ないんだって。これで撮ると、魔力の痕跡まで写るのよ」


 2人は更に歩を進め、帝都アティ・テルの南端、下水道の入口へと到着した。


 鉄の格子門は錆びて重く、周囲の石壁には苔と水の染みが広がっている。


 門の前に立つトランプ兵が銀の百合バッジを確認し、鍵を開ける。


「くれぐれも注意することだ。最近は下水の汚れが妙に増えているからな」

「分かりました。任せてください」


 メイベルが返事をすると、石段を下り、鉄の扉を開けると、湿った空気と、微かな魔力の匂いが2人を迎えた。アリスは、箒を握りしめ、静かに微笑んだ。中へ入ると、湿った空気が肌を刺し、微かな魔力の匂いが鼻をつく。階段を下り、暗い通路を進むと、黒い汚泥の塊が壁や床にへばりつく光景が見えた。


 頑固な汚れを見るや否や、アリスは張り切るようにしながら腕の周囲に魔法陣を出現させる。


 魔法陣から【女神の箒(ゴッデスイーパー)】が召喚され、ふわふわとした穂先が揺れる。


「まさかこんな所にスラッジオがいるなんて……」

「丁度良かったわ。お掃除がしたくてうずうずしていたから」


 メイベルが写真を撮ると、アリスは箒を構えるのだった――。


 しばらくして下水道の掃除が完了すると、暗く湿った下水道の通路が最初に入った時とは別世界のように変わっていた。下水道を支配していたスラッジオは跡形もなく消え去り、古い石煉瓦が新しく削り出されたかのように淡い灰色に輝いている。床の石畳は水の流れが優しく磨いた鏡面のように、足音を反射して響かせる。天井から垂れていた苔や藻は根こそぎ浄化され、代わりに微かな浄化の光が壁の隙間から柔らかく漏れていた。流れている下水でさえ、かつての淀んだ黒褐色ではなく、透き通った銀色に変わり、底の石まで見通せるほど澄んでいる。聖水が静かに流れているかのようだ。


 空気は湿気と腐臭に満ちていたはずが、今は清冽な泉の香りが漂う。


 アリスは箒を肩に担ぎ、満足げに息を吐いた。


「ふぅ、お掃除完了」


 メイベルは、写真を撮り終え、呆然と立ち尽くしていた。


「――信じられない。地上の通りよりも、こっちの方がずっと綺麗ね」


 その時、通路の奥から甲冑の足音が響いた。


 赤と青の甲冑にハートとダイヤの紋章を胸にした3人のトランプ兵が松明を掲げて現れる。先頭のトランプ兵は最初こそ警戒の目を向けていたが、下水道の光景を目にした瞬間、松明を落としそうになった。


「何だこれは!?」


 3人共口を開けたまま、壁、床、天井、そして澄んだ水の流れを信じられないという顔で見渡す。


「汚れが全部消えている……いや、それどころか……聖堂の泉より清潔じゃないか!?」


 1人のトランプ兵が恐る恐る手を水に触れ、慌てて引き上げる。


「冷たくて清らかだ……もはや下水じゃない……」


 兵士たちはアリスとメイベルを交互に見る。


「一体何をしたんだ?」

「何って、お掃除しただけよ。しかもスラッジオまでいたわ」

「スラッジオだと!?」


 警戒を剥き出しにするトランプ兵。


「ええ。まだ小さいスラッジオだったから良かったけど、放っておけば手がつけられなくなるところだったのよ。地元のお掃除くらい、ちゃんと自分たちですることね」

「……実を言えば、下水道でスラッジオが出現したことは以前から知っていた。上に報告したはいいが、何も起こっていないなら自分たちでどうにかしろとの仰せだ。部下を下水道に向かわせたが、一向に帰ってくることはなく、仕方なく私が行ったところ、無残にも部下は石化され、砕かれていた。どんな攻撃も養分のように吸収され、まるで歯が立たなかったが、地上に出ようとはしなかったのが不幸中の幸いだ」

「スラッジオは汚れそのものよ。誰もお掃除しに来ないこの場所が居心地良かったんでしょうね」

「まあ、無事にスラッジオを討伐してくれて感謝する。何かあればうちの評判が下がるところだった」


 すっかりと安心しきっているトランプ兵に嫌悪を覚え、一歩前へと踏み出すアリス。


「何かあってからじゃ遅いわ。何も起きないでくれと願うのは勝手だけど、外面を気にして問題がないように装うなんて感心しないわね。組織に携わる人が仕事に責任を取れなくなったら終わりよ。善良な市民が何のために納税しているのか、よく考えることね」

「「「……」」」


 普段から思っていることを吐き捨てると、呆然としたまま佇むトランプ兵たちを他所に、アリスは呆れた表情を崩さないまま、下水道の出口に向かって歩き出す。メイベルが後を追い、隣に並ぶ。


「ちょっと言い過ぎじゃない?」

「言い足りないくらいよ。死人が出ているのに、保身のことしか考えないなんて、心が石化してるわ」

「ふふっ、何それ……でも、アリスの言う通りね。私も仕事に就いたら、必ず責任を全うするわ」


 帝都アティ・テル市内に出ると、初めてまともに町並みを眺めたアリスとメイベルが異変に気づく。


 町の壁や床にたくさんの落書きが見つかり、帝都民が困り果てていた。石畳の路地を歩く人々が溜め息を吐き、壁を指差す。石壁に何色もの塗料で乱雑に書かれた文字が無数に広がっている。


 帝国は鉄仮面を秘匿している、鉄仮面の秘密を暴け、カルド枢機卿の陰謀を止めろといったものだ。


 壁だけでなく、噴水の縁や市場の露店の柱、教会の門柱にまで、同じような落書きが夜の内に誰かが回ったかのように点在していた。帝都民の1人、年配の商人らしき男がボヤキながら壁を拭いている。


「全く、誰だよ、こんなことする奴は……汚れが落ちねえじゃねえか!」

「その落書き、いつからあったの?」


 アリスが帝都民の男に近づき、丁寧に尋ねた。


 男は振り返り、溜め息を吐きながら口を開いた。


「ここ2週間くらいだな。毎晩誰かが落書きして回ってるみたいで、段々増えている上に、誰1人として落書きを落とせねえ。困ったもんだ。寄りによって俺ん家の壁に書き殴りやがって……帝国の機密だかなんだか知らねえが、俺ら庶民には関係ねえのによ」


 男は雑巾を絞り、再び壁を拭き始める。アリスは落書きの文字をジッと見つめた。


 鉄仮面という言葉に、箒の中のジャンヌが微かに息を呑む音が聞こえた。


 帝都の朝陽が落書きの赤い文字を血のように不気味に輝かせていた。


「鉄仮面……」


 ジャンヌが呟くと、ピクサーブが敏感に聞き取り、テーブル越しに対面するように、切り株の椅子に腰かける。視線を感じたジャンヌはピクサーブに気づく。


「どうかしたのか?」

「いや、まさかと思っただけだ。噂には聞いていたが、鉄仮面は何十年も前から囚われの身だ」

「囚われの身? 何か罪でも犯したのか?」

「分からん。最初に噂となった時から詳細は不明だ。1つ確かなのは、長い間居場所を伏せられたまま、どこかに囚われている正体不明の囚人ということだけだ」


 鉄仮面の正体を人々が勘繰るようになって長い時が経つが、未だ解き明かされたことはない。


 落書きは鉄仮面にまつわる謎を示唆していたばかりか、カルドの思惑さえ明かしていた。権力を拡大していくカルドを警戒する者は少なくないが、落書きは恐れなど知らんと言わんばかりだ。


 アリスはここにきて初めて、ジャンヌからの警告の意味をようやく思い知るのだった。

 創造主たる神が作り上げた宇宙は法則なき法則からワンダーランドと名付けられた。星詠みの力を得た者はワンダーランドの支配者となり、宇宙の至る場所を訪れる数奇な運命を辿るのだ。


 古代魔石行商人ユディト・ラケルの著書『星詠みの悪戯』より

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ