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Alice in Abyssal Oblivion  作者: エスティ
第3章 鉄仮面と失われた聖杯
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chapter 3-4 伝統ある学舎

 数週間前――。


 歪みの森は深い緑に包まれ、1枚1枚の葉が風に揺られながら自然を奏でている。


 その中心だけが、誰かが円形に切り取ったかように、ぽっかりと明るい広場になっていた。大樹の根が絡み合い、天蓋のように枝を広げながらも陽光が縞模様に降り注ぐ。


 地面にはダフォディルとクロッカスが絨毯を敷き詰めたように咲き乱れている。広場の真ん中には白く長いパーティーテーブルが置かれていた。テーブルクロスは純白のリネンに金糸の刺繍、しかし既に紅茶の染みやジャムの跡が無数に付いている。テーブルの上はうるさいくらいに物がたくさん置かれていた。


 取っ手のついた大きなティーポットには白薔薇と王冠が優雅に描かれ、蓋の上には小さな王冠がちょこんと描かれている。真っ白なスノードロップが華やかに描かれたカップとソーサー、3段重ねのティースタンドには、野苺のショートケーキ、クロテッドクリームたっぷりのスコーン、スモークサーモンと胡瓜のサンドウィッチ、小さなマカロンやフィナンシェが山盛りだ。


 何の変哲もない椅子が一定の距離毎に並び、どれも背凭れの形が違う。


 ハッターは紫色のシルクハットを斜めに被り、チェックのベストに燕尾服という大道芸人風の出で立ちで肩を小刻みに揺らしながら紅茶の香りを嗅いでいる。


 ヘイヤは長い兎耳を動かし、ティーポットを片手にレイピアを腰に構えた山鼠のドーマと談笑し、淹れたばかりの紅茶を飲んでは飛び上がり、耳をバタバタさせて冷ましている。ロビットは白いベストに懐中時計をぶら下げ、椅子に腰かけ、小さな人参をポリポリ頬張りながらのんびりと光景を眺めている。チェシャはどこからともなく現れ、今はテーブルの上に寝そべって尻尾だけをゆらゆらさせている。


 家の屋根には、巨大なシルクハットがかぶさるように飾られ、階段つきの玄関は誰かを待っているかのように開け放たれている。マナーなど最初から存在しない。手の届かないケーキを取ろうとすれば、ハッターはテーブルに這い上がり、ヘイヤは椅子の上に立ち、ドーマは尻尾で器用に掴んで取る。


 呑気で狂ったティーパーティーの最中、いつもなら端の席に腰かけていたはずのハッターがいない。


 血相を変え、紫色のシルクハットを振り回しながら家の中で探し物をしている。


 ロビットが人参を食べる歯を止める。


「ハッター、さっきから何を慌ててんだ?」


 ハッターは顔を真っ青にしてひょっこりと顔を出す。


「思い出したんだ! 星詠みの悪戯を!」

「星詠みの悪戯だぁ!? 赤薔薇の女王に尻でも蹴られたか?」

「早くアリスに伝えないと!」


 アリスの名を聞いた瞬間、テーブル全体がピタリと静まり返った。ヘイヤの耳がピンと立ち、ドーマの目が震え、チェシャの尻尾が伸び、ロビットの懐中時計がかちりと音を立てて止まった。


「おいおい、アリスに伝えるって何だよ? デートにでも誘うのか?」

「そんなところだ」

「アリスだったら、アティ・テル大学に推薦入学したって聞いたぜ」

「アティ・テルって、お隣さんの帝都じゃねえか」

「そういや、魔障院の連中が噂してたぜ。アリスはカエルレウムマレのはずなのに、推薦で大学に受かったのが不自然だってな。何せ適性が分からないままの生徒が集まる寮だからねぇ~」

「――分かった。帝都だ。アリスは帝都アティ・テルにいる。クソッ! もっと早く気づいていれば!」


 急いで身支度を済ませようと荷物をまとめるハッター。


 物体を浮遊させ、収納されるべき場所へと素早く戻っていく。


「おや、出かけるのかい?」

「ああ。嫌な予感がする。王都で緋色の物品が流行っていただろ。でもみんなは何事もなかったかのように過ごしてる。不思議に思わないか? アリスがルベルバスに戻った時には、全て元通りになっていた」

「つまりこう言いたいんだろう。アリスが異変を掃除したことで、生じていた歪みがなくなったってね」

「そういうことだ」


 チェシャが得意げに言うと、ハッターが自室へと戻り、物色を始めた。


 本という本を漁り、後ろへと放り投げる。後を追いかけるチェシャはニヤリと見つめながら天井近くを浮遊し、ハッターの様子を落ち着いた様子で体を丸めながら見守っている。


 時が動き出したように、ロビットは再び人参を齧り始めた。


 ティーパーティーは何事もなく、ハッター不在の中でも淡々と続く。


 歪みの森の奥で、風が初めて、不穏な音を立てながら吹き始めた――。


 アティ・テル帝立大学では、大階段教室朝の鐘が鳴り終わった。


 アリスはメイベルと並んで重厚な扉の前に立った。扉を開けた瞬間、2人の足が自然と止まる。教室は円形劇場を縦に切り取ったような巨大な階段教室だった。天井は高く、四方の壁は古い石と赤煉瓦で組み合わされ、最上段から最下段まで、200以上の席が半円形に降りていく。窓は高く細長く、朝陽が斜めに差し込み、埃の舞う光の筋が床を金色に染める。既に8割ほどの席が埋まり、銀の百合バッジを胸にした学生たちが騒めきと共にアリスを見た。一瞬、騒めきが途切れた。


 カエルレウムマレの青い魔障院制服を誰もが一度は見る。


 視線は好奇、軽蔑、警戒、そしてすぐに逸らされる。誰も話しかけてこない。席を空けてくれる者さえいない。メイベルがアリスの袖を優しく引っ張る。


「……ねえ、端っこの席に座りましょ」


 アリスは苦笑いを浮かべ、1番後ろの空いた席に腰を下ろした。メイベルも隣に座り、分厚い教科書を膝に置く。教授が入ってくると、すぐに講義が始まった。


 黒板に巨大な魔法陣が描かれ、教授の杖が振られる度、教室全体に淡い光が広がる。


 他の生徒たちが【操作(オペレーション)】で羽根ペンを意思通りに走らせるが、アリスとメイベルは真剣に()()()でノートを取り、誰も話しかけず、誰も隣に座らない。


 ただ、授業が終わる頃、前の席の学生が小声で囁いた。


「今日から魔箒サークルだろ。広場で新歓やってるってさ。行ってみようぜ」


 そのたった一言だけが、教室の騒めきに紛れてアリスの耳に届いた。


 授業が終わると、メイベルが廊下に出た途端、釘付けになるアリスの目に気づく。


「アリス、どうしたの?」

「魔箒サークルの新歓があるって言ってたわ」

「あー、サークル活動ね。やめておいたほうがいいわよ。ここは魔障を歓迎している大学ではあるけど、大学生たちはそうじゃないわ。この前も魔障の1人が、いじめに耐え切れずに退学したのよ」

「誰もが悪い人じゃないわ。大学は楽しんだ方の勝ち。ここで馴染めないようじゃ、先が知れてるわ」

「実戦訓練ばっかりで、怪我人も出てるって噂よ。しかもサークルマスターが独特なのよ」


 しかし、アリスは興味が失せるどころか、より一層目を輝かせた。


「箒の実戦訓練なんて、腕が鳴るわね」

「ちょ、ちょっと!?」


 メイベルが慌てて追いかける。アリスはもう走り出していた。銀の百合バッジが誘うように光る。


 中庭を抜け、プラタナスの並木を駆け抜け、大学の中央広場へ。既に十数人の学生が円陣を作り、それぞれの魔箒を手に空を睨んでいた。広場の中央に立つのは、赤いマントを翻した大学生であった。


「どうした? もう終わりか? 新入生で魔箒がうまい奴はいないのか!?」


 その声に、アリスは迷いなく一歩踏み出した。メイベルが後ろで小さく溜め息を吐く。


「……やっぱり、こうなるんだ。アリスはいつだってアリスなのね」


 風が吹き、プラタナスの葉が、まるで拍手するように、ざわざわと鳴り始めた。


 魔箒サークルでは、文字通り魔箒を使った競技が行われていた。


 対面する2人がゴールネットを背にしながら向かい合い、箒に跨っている。宙を飛び交いながら行き来するボールが2人の穂先で打ち合うが、一方的に相手のゴールにボールが高速回転しながら吸い込まれ、ゴールネットがボールの摩擦を吸収しながら伸びている。


「あれは何なの?」

「フッケーという競技よ。お互いに箒に跨りながら穂先でボールを打ち合って、先に相手のゴールネットに決められた回数分入れた方の勝ち。もっとも、私には使いこなせる魔箒がないし、まず無理だけどね」

「無理かどうかはやってみてから言うものよ」

「ふふっ、アリスらしいね」


 審判の笛が鳴り、試合が集結したことを告げる。


 冷静沈着にして短い金髪のオールバックを後ろに梳くフランソワ・デカルトが、跪いている赤毛を靡かせているマケール・ロリオの前に立つ。だがアリスには不振にしか見えなかった。


「またフランソワの勝ちか。マケールもついてねえな」

「この大学でフランソワに勝てる奴なんていねえだろ」


 観衆のざわめきがまだ残る広場。フランソワはすでに仲間たちに囲まれ、勝ち誇った笑みを浮かべながら去っていく。残されたのは、両手の平を空に向け、肩を落としてベンチに腰かけたマケールのみ。


 半ば呆れ顔で、アリスはマケールに歩み寄り、見下ろすようにしながら口を開く。


「どうして手を抜いたの?」

「はぁ? 何言ってんだお前! 頭大丈夫か?」

「あのフランソワっていう人、そんなにうまいようには見えなかったわ。でもあなたのレシーブには隙がなかったし、箒を見事に乗りこなしていたわ。何か弱みでも握られてるの?」

「……あのな」

「あなたが言わないなら、フランソワに聞いてくるわ」

「ちょっ、ちょっと待て……分かったよ。白状するよ」


 観念したようにマケールが首を垂れると、アリスはマケールの隣に腰かける。


「フランソワは名家の出身で、学生たちを牛耳っている。もし俺が勝っちまったら面目丸潰れ。明日から壮絶ないじめが始まる。止めようったって無駄だ。フランソワの父親は正統教カルケウス地区の管轄を任されている枢機卿で、次期教皇とも言われている」

「だから誰も逆らえないのね」


 メイベルが2人の後ろからひょっこりと顔を覗かせる。


「……いるなら言ってくれよ」

「あはは、ごめんごめん。私はメイベル。こっちはアリスよ」

「マケール・ロリオだ。全然魔力を感じないけど、魔障なのか?」

「ええ。この魔障院制服は貰い物よ」

「その北方訛り、ルベルバス人だな。ていうかよくこんなとこに来られたよな」

「それ、どういう意味?」


 やけに冷めた目を浮かべるマケールを前に、常識を疑うようにアリスが首を傾げる。


「そのまんまの意味だよ。どうやって入ったんだ?」

「私もメイベルも推薦入学で来たわ」

「ここは学費が安いから、クエストをこなしながらでも授業を受けられるって、院長先生が言ってたわ」

「何か訳ありみてえだけど、悪いことは言わん。命が惜しけりゃ、今すぐ退学するんだな。ここはお前ら魔障にとっちゃ、地獄みてえな場所だ」


 アリスが眉を顰めると、メイベルはアリスから目を逸らす。


「地獄って、どういうことなの?」

「ルクステラは志ある学生を身分問わず受け入れる。でもそれは表向きで、実際は魔障への偏見に満ちた常人による、魔障狩りの巣窟だ。仕返しなんてしようものなら、魔障のしたことだけが取り沙汰される。今まで魔障で大学を卒業できた奴が数えるほどしかいないのはそのためだ。分かったら――」


 ふと、マケールが意気消沈したと思われるアリスを視界に入れようと隣を見渡す。


 しかし、アリスは意気消沈するどころか、口元に不穏な笑みを浮かべ、これから始まる嵐を楽しみにしているような、どこか愉しげな光を瞳に宿している。


 メイベルは一瞬、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「たまたま親が偉かっただけなのに、よくあんなに威張りくされるわね」

「おい! 間違っても本人の前で言うなよ! バレたら大変なことに――」

「誰が大変だって?」


 背後から余裕たっぷりの声。振り返ると、赤いマントを翻し、金髪のオールバックを風に靡かせたフランソワが、にこやかな笑みを浮かべて立っていた。周囲のサークル員たちが息を呑んで道を開ける。


 フランソワはゆっくりとアリスの前に歩み寄り、上から見下ろすようにしながら足を止める。


「気のせいかな? 魔障如きが、よくあんなに威張りくされるなんて言っていた気がするが」


 アリスは怯むことなく、一歩前に出てフランソワを見上げ、碧眼が静かに燃え始めている。


 伝統は何も校風だけではない。常人たる人々の心に根付く、魔障狩りとしての側面を何よりも嫌っていたことが、うっかり言葉に出てしまったのだ。


 広場に立つ古いプラタナスの木陰から、緋色の礼服を着用した老人が静かに姿を覗かせた。


 深紅のローブは新鮮な血を纏ったように艶やかで、裾には金の刺繍で聖なる鍵と剣が描かれている。


 白髪は後ろに流し、顔は皺1つなく、蝋人形のように整っている。


 しかし、その瞳だけは、獲物を値踏みするような、冷たく、底知れぬ光を宿していた。老人はアリスとフランソワの会話を僅かばかりの笑みを浮かべながら聞き耳を立てていた。やがて満足したように小さく頷くと、木陰から姿を消す。足音一つ立てず、影のように。


 広場に残るのは、2人の少女と少年の、燃え上がる対峙だけだった。

 異界へと続く時空の穴は全宇宙の至る箇所に存在するとされている。かつては時空の穴の在り処を魔力感知で突き止め、封魔の刻印によって消滅させる刻印師がいたが、時代が進むにつれて異界の穴が増え、対処が追いつかなくなった末、刻印師の存在さえ忘れ去られていった。


 刻印師テリオス・ノクタリスの著書『摩訶不思議の記録』より

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