chapter 3-2 思惑
ワンダー号がドンマルノの港に着くと、アリスが真っ先に船から飛び降りた。
月末を迎える前に入学しなければ、手続き自体が無効になる。
余韻に浸る間もなく、トランプ兵の立つ港の検問でジョーカーカードを掲げ、アリスは晴れて入国を許可されるに至った。ワンダー号は物資の調達に忙しく、再び甲板に乗り上げる。
コッツの視界にアリスが入ると、頼るように歩み寄る。
「アリス、この後はどうするんだ?」
「私はここからアティ・テル大学まで行くわ。当分は戻ってこれないし、あなたたちはいつでも出航できるよう準備を済ませて。ここで過ごしてもいいし、帰国してもいいわよ」
「そうは言っても、お前さんが異界から連れてきた者たちはルクステラでも目立つぞ。特にネレイアラは世にも珍しい人魚だ。魔生物狩りに連れて行かれて異国に売り捌かれる可能性もある」
「――余程のことがなければ魔障狩りよりはマシだけど、どうしようかしら」
顎に手を当てながら策を練るアリス。
「私は同行させても一向に構わんが」
精神内を漂っている箒の中からジャンヌの声が響く。
「あなたの秘密がバレるかもしれないわよ」
箒を召喚し、穂先に向かって話しかけると、通行人が首を傾げた。
「ピクサーブたちも安易に目立つ行動は慎むべき立場なのだろう? 戦況を一変させる力を持ちながら、ワンダー号の仕事にも従順忠実で欲がない。心配はいらないだろう。妖精騎士のピクサーブ、一角天魔のマルアス、歌姫人魚のネレイアラ。話を伺った限りだが、類稀な才を持つ者たちばかりだ。どうやらお前は数奇な運命に余程好かれているらしい」
「あなたほどじゃないけどね」
「……言ってくれるな」
聞こえないくらいの声で、ジャンヌが不満げにボソッと呟く。
ピクサーブ、マルアス、ネレイアラがアリスの前に立つ。
「アリス、もう行くのか?」
「ええ。あなたたちも来る?」
「当然だ。私はお前の護衛としてお供しているんだからな」
「俺も一緒に行くぜ。確か大学には馬術競技があるって聞いたし、俺も力になれると思うぜ」
「あたしも人間界を旅してみたいし、人間界では、アニマリーを使い魔として連れて行くのが恒例らしいじゃない。だったら決まりでしょ」
ネレイアラが片目を閉じながら言うと、アリスはクスッと笑いながら穂先を吸い込み口に変形させた。
順番に箒の中へと入っていく。ネレイアラがアリスのベッドを占拠し、ピクサーブがジャンヌと対面するように丸太の椅子に腰かけ、マルアスが4本の脚を下ろす。
箒の柄を握り、地面を蹴りながら跨り、風を切って空へ舞い上がった。
勢い良く滑空すると、金髪を強く靡かせ、帝都アティ・テルへと進む。
アリスが持つ【女神の箒】の速度は他の魔箒を凌駕していた。
もはやアリスの一部であった。通常は魔箒を掴む力を調節しながら飛行するが、アリスは思い描くだけで手足の如く制御し、見る者の度肝を抜いた。
通行人が思わず振り返るほどの凄まじい速さで道沿いに飛ぶ。
「ジャンヌ、帝都はこっちの方角でいいのよね?」
「ああ。ドンマルノから東だ。手練れの者でも数時間を要するんだがな」
アリスの眼下に広がるのは、大河が緩やかに蛇行し、その両岸に無数の橋が架けられた、巨大で息を呑むほど美しい都市だった。石橋はどれも古びて優雅で、欄干には彫刻が施され、橋の下を小さな舟がいくつも行き交う。河岸通りには白い石を積み上げた建物が途切れることなく連なり、どの窓にも花が飾られている。屋根は灰青色の亜鉛板で覆われ、通りは碁盤の目のように整然と交差し、朝の陽光を浴びて石畳が銀色に輝いていた。中央に聳えるのは巨大な大聖堂であった。
2本の尖塔が天を突き、薔薇窓が朝陽を虹色に砕き、広場に光の雨を降らせている。その西側、川の中州に浮かぶ島の上に古い城塞と宮殿が重なり合い、尖塔と円屋根が絡み合うように立ち並ぶ。そして大聖堂のすぐ南、川沿いの広大な敷地にはアティ・テル帝立大学が広がっていた。赤煉瓦と白い石を縞模様に組み合わせた建物群、中庭には古い井戸とプラタナスの並木、帝立図書館のドームが朝日に光る。
アリスは箒を傾け、ゆっくりと高度を下げる。ジャンヌが内部から箒越しに帝都を目に焼きつける。
「何年ぶりかな。ルーティア大聖堂は千年前に建てられた。今はもう誰も覚えていない。石畳も何度も貼り替えられている。フルール・ド・リス宮殿はルクステラの皇族と貴族たちが住まう場所で、ルベルバス王国軍との戦いの時は、あの場所を死守するべく剣を振るったものだ」
アリスは息を呑み、箒を大学正門の上空へと滑らせる。
「だが今は、こうして平和な学舎の鐘が鳴っている。私は守りたいのだ。昔と変わらない、この景色を」
「私は変えたい未来のために戦っているけど、あなたは変えたくない今のために戦っているのね」
朝の鐘が起床の時を刻む。アリスは誰もいない裏庭の石畳に静かに着陸した。
再びトランプ兵にジョーカーカードを見せて検問を突破すると、城壁の門を潜り、今度は地上から帝都の姿を目の当たりにする。赤と青の甲冑から、すぐにルクステラ所属のトランプ兵と分かる。
地上付近で箒から飛び降りると、アリスは箒の召喚を解き、何食わぬ顔で正門へ進む。
朝靄がまだ薄紫に残る時刻。プラタナスの並木が途切れる先に、古びた鉄柵の向こうから黄金の朝陽が降り注いでいた。正門の両柱に据えられた雄鶏の石像。翼は半ば開き、胸を張ったその姿は、今にも夜明けを告げるために鳴こうとしているかのようだった。
赤い宝玉の瞳は朝露を宿した薔薇の花弁のように深紅に濡れて瞬いている。
アリスが石畳の最後の一歩を踏み出すと、空気が微かに震えた。
石の雄鶏がゆっくりと、長い眠りから覚めるように首を傾けた。朝陽が羽の1枚1枚を透かし、石の表面に眠っていた金色の紋様がふっと息を吹き返すように浮かび上がる。
「おや、月の終わりを縫ってきた小さな星か」
声は石の中からではなく、朝靄そのものから、あるいはアリスの胸の奥から直接響いた。
雄鶏の赤い宝玉の瞳が瞬きもせずに彼女を捉える。
「我はアティ・テル帝立大学門番、雄鶏像ガルス。汝の名は?」
「アリス・ブリスティア。ルベルバス王国から入学届を出しに来たわ」
空に舞い上がっていた朝陽が雄鶏の石像を通り抜け、虹色の光の帯となって、アリスの周囲を螺旋状に巡った。光はアリスの懐に潜り、入学許可証、卒業証書、ジョーカーカードを音もなく捲っていく。
「全て星の定めた通り。期限は今日の月が欠ける前。間に合ったようだな」
雄鶏の石像が翼を一度だけ、幻のように大きく広げた。その瞬間、門の鉄柵に絡まっていた蔦が銀の花を咲かせながら音もなく左右に分かれ、石畳の道が朝露を宝石に変え、光差す道となった。
「アリス・ブリスティア。ここから先は汝が紡ぐ歴史、最初のページとなるであろう。幸運を祈る」
雄鶏は最後に赤い宝玉の瞳で一度だけ優しく瞬き、再び石へと還る。だがその瞳に宿った光はアリスの胸の奥に小さな火として灯り、消えることはなかった。
門を潜った瞬間、中庭の古井戸から陽光を浴びた水音が祝福の鐘のように静かに響き始めた。
箒の中のピクサーブ、マルアス、ネレイアラ、ジャンヌが小さく息を呑む。
アリスは光の道を踏みしめながら静かに微笑んだ。正門はアリスの背後に、静かに閉じていく。
こうして、アリスはアティ・テル帝立大学への入学を果たしたのだった――。
血のように深い赤の絨毯が床から壁、天井へと這い上がり、窓枠さえも薔薇の棘のように鋭く壁を染めている。巨大なステンドグラスから降る光は全てが真紅に変わり、部屋の奥に据えられた玉座を燃え盛る炎のように照らし出していた。玉座に腰掛けるのは赤薔薇の女王。
赤い猪目柄のドレスに、胸元から裾まで無数の赤薔薇が咲き乱れ、短い赤毛は血の色をしたリボンが添えられ、金の細枠の眼鏡の奥から、鋭く、冷たく、どこか愉しげに新聞の一面を射抜いている。
クイーンズランドが発行した新聞の見出しは、太い黒文字で叫んでいた。
『ルクステラ皇帝、大陸軍を率い、ソルカリガに劇的勝利』
赤薔薇の女王の指が、紙をゆっくりと折り曲げる音だけが静寂を切り裂いた。
その傍らに、白いエプロンドレスに黒のヘッドドレス、表情を完全に殺したレティシアが無音のまま佇んでいる。赤薔薇の女王は新聞を脇に置き、赤と白のチェス盤に視線を落とす。
盤上では赤のビショップが生きているかのように、白のポーンを弾き飛ばした。
駒が盤外に転がり、紅の絨毯に吸い込まれるように沈む。
「レティシアよ。アリスはどうしておる?」
声は薔薇の蜜のように甘く、毒のように鋭い。
「密偵によれば、本日未明、帝都アティ・テルに到着したとの報告が入っております」
レティシアの声は人形が喋っているかのように平板だった。
赤薔薇の女王は眼鏡のフレームを指で押し上げ、口元には獲物を見つけた獣のような笑みを浮かべる。
「遂に足を踏み入れたか」
立ち上がり、ドレスの裾が床を這う音を響かせながらチェス盤の前に跪く。
自らの思念で赤のキングを持ち、ゆっくりと1マス進めた。
「あの者を帝都アティ・テルに向かわせるのだ」
眩い閃光が赤薔薇の女王の瞳に、獰猛なまでに美しく灯る。
「畏まりました、女王陛下」
レティシアは一礼し、影のように静かに退室していく。
白のクイーンが我関せずと言わんばかりに赤のビショップを弾き飛ばし、空いたマスに鎮座する。
「――アリス、お前だけは断じて許さん」
赤薔薇の女王はチェス盤を見下ろしながら、誰にも聞こえない声で呟いた。
再び赤い王宮の奥で、薔薇の棘が音を立てて伸び始めた――。
ルクステラ帝国、旧王立鉱山跡、深部坑道。
帝都から馬で半日、箒で数時間、深い森を抜け、切り立った崖の奥に、忘れられた鉱山の入口がぽっかりと口を開けていた。夜の月は雲に隠れ、坑道の奥は世界の底に落ちたような漆黒だった。
その闇の中心に、藍色の灯りが亡魂の群れのように揺れていた。
藍色のローブを纏った者たちが無言で円陣を作り、中央に立つのはグレイシャー・フロスト。
長身で骨ばった肩がローブの下に浮き、痩せた体躯はまるで氷柱のように細く、冷たい風が吹き抜けるだけで折れてしまいそうだ。フードの奥から覗く髪は凍てついた夜空のような深い藍色で、闇の中でも不思議な光を放っている。顔は雪像のように無表情。ただ、口元だけが、氷の刃のように薄く、冷酷かつ確かな弧を描いていた。灰色の瞳は凍りついた湖の底を見るようで、闇の中でも獲物を見据える狼のように静かに光る。周囲の団員たちは同じ藍色のローブを纏う。
顔をフードで隠し、息すら潜めて立ったまま誰も口を開かない。
グレイシャーはゆっくりと右手を上げた。指先から淡い氷の結晶が舞い上がり、坑道の天井に張り巡らされた古い梁を瞬く間に白く染め、息さえ凍てつくかのようだ。
「――時は来た」
声は冷たい風が岩肌を削るような、低く冷たい響きだった。
「計画は順調か?」
藍色のローブの群れが、微かに騒めく。グレイシャーは口元の冷酷な笑みを更に深くした。
「ああ。支部団長の読み通り、あのアリス・ブリスティアが入学した」
「ふふふふふっ! ……奴が帝都に足を踏み入れた瞬間、盤面は動き始めた」
懐から銀の鍵を取り出し、闇の中に掲げた。
鍵は生きているかのように淡い藍色の光を放ち、坑道の奥に眠る巨大な鉄の扉を微かに震わせる。
「これはまたとない機会だ。魔障院の掃除番にしてスラッジオ討伐の第一人者と、あの聖剣ヴォーパルが同じ時間、同じ場所に居合わせているんだ。後はアリスさえ味方につければ、思惑通りだ」
団員たちが一斉に膝をついた。グレイシャーは灰色の瞳を遠く帝都の方向へと向ける。
「支部団長はアリスが我々の側につくと思っているのか? あの頑固者を動かすのはそう容易くは――」
グレイシャーが団員の肩に手を触れた途端、全身に氷が広がり、頭以外が氷漬けになる。
「動かざるを得ないんだよ。アリスには致命的な弱みがあるからな」
顔を近づけながらグレイシャーが言った。氷漬けとなった団員は寒さから何も話せない。
手を離した瞬間、木槌で叩いても割れないほどの硬い氷がボロボロと崩れ、団員は再び自由を取り戻しながらも肝を冷やし、周囲の団員たちも畏れ多い表情を崩さない。
「致命的な弱みがあるとして、一体どうするつもりだ?」
別の団員が言葉を選ぶようにしながら尋ねた。
「これから帝都まで行く」
「まさかとは思うが、本当にやるつもりか?」
「もちろんだ。俺たちは鉄仮面の重大機密を握っているんだ。如何に緋色の枢機卿が脅威であろうとも、これには流石に敵わない。苦労して手に入れた切り札だ」
染み汚れた1枚の写真を取り出すと、ほくそ笑むようにしながら目をやり、再び内ポケットにしまう。
坑道の奥で凍てついた運命の歯車が、狼の遠吠えのように、刻一刻と静かに回り始めた。
魔導具は魔導兵器として使われていた物品が民の生活必需品として応用された万物だが、それは魔障から職を奪う結果となった。予てから嫌悪されていた魔障を排除する口実として、魔導具が魔障と比較してどれほど優れた万物であるかを証明する張り紙が王命によって作られたのだ。
魔法史家エレノア・ダークシェルの著書『魔導具は語る』より




