chapter 3-1 旅立ち
第3章の幕開けとなります。
舞台はルベルバス王国から海を挟んだ隣国ルクステラ帝国となります。
大学生となったアリスに何が待ち受けているのか、お楽しみくださいませ。
ブリスティア魔障院卒業式から数日後――。
ルヴァ島南端の小さな集落、グラシード村は霧が深く立ち込め、潮の匂いと焼きたてパンの香りが混じる桟橋に修復を済ませたばかりの帆船が1隻だけ静かに浮かんでいた。
船首に大きく描かれたワンダー号の文字が光る。帆はまだ畳まれたままだが、甲板は既に賑やかだ。
「荷物は全部積んだか?」
「ああ。いつでもいいぞ」
赤いバンダナを巻いた黄緑色のゴブリン、コッツが小さな体で大きな木箱を軽々と抱えて走り回る。
「モック、船底の藻は全部剥がしたか?」
「もちろん、夜中までかかったけどね」
仔牛の鼻をヒクヒクと動かす海亀族のモックが甲羅を波に浮かべて豪快に笑う。
鳥獣族のグリフォアは翼を広げて帆柱に止まり、蜥蜴族のビルは舷側にへばりついて舵輪を回す。
ピクサーブは船内を飛び回り、マルアスは甲板で優雅に蹄を鳴らし、ネレイアラは船尾から顔を出して歌を口遊んでいる。ジミーの後を継ぎ、船長となったアリスがいない間に、ブリスティア海賊団は船長代理となったコッツを中心にまとまりを見せていた。
桟橋の先端に青い魔障院制服を着用するアリスが立つ。
風に金髪が靡き、碧い瞳は水平線を真っ直ぐに見据えている。アリスにはまだブリスティア魔障院を卒業した実感がなく、物思いに耽りながらも、潮風に吹かれながら余韻に浸っていた。
「いよいよね」
背後から白銀の鎧を纏った少女が歩み寄る。
短いマントの金十字が朝陽に輝き、透き通る白髪が霧に濡れる。
「アリス、本当に行くのか?」
アリスが振り返ると、ジャンヌは一歩前に出る。静かに、だが決して揺るがぬ声で告げた。
「当たり前でしょ」
「どうしてもルクステラに行くなら私も同行させてもらう。理由は他でもない。お前を監視するためだ」
「まだ疑ってるの?」
「当然だろう。帝都アティ・テルへ行くというなら、私がそばにいなければ安心はできん。お前が帝都を焼き払う予知夢を見た以上、脅威でないと確信を持って言えるまでは、目を離すわけにはいかん」
アリスは一瞬苦笑いを浮かべる。
「それって、ずっと私と一緒にいるってこと?」
「嫌なら船を降りろ。だが降りなければ、お前を見張るだけだ」
風が2人の間を通り抜ける。アリスは小さく溜め息を吐き、右手を差し出した。
「まあ理由はどうであれ、今は黙して歓迎するわ。でも乗船するなら、掟に従ってもらうわよ」
ジャンヌは一瞬躊躇い、やがてその手を握り返す。
「いいだろう。そういえば、この船は海賊漁船だったな」
「ええ。特徴的なのは、仲間との約束は絶対に守ることよ。たとえ船長であっても、誰との約束であっても破ることが許されないのよ」
「ならば約束してもらおう。ルクステラの脅威になることはするな」
「いいわよ。あなたのこと、詳しく聞いてもいいかしら?」
「そうだな。これも何かの縁だ。知っていることであれば答えよう」
アリスはジャンヌに絶え間なく質問を繰り返した。
既に終わった千年戦争の生き証人であるかのように証言し、アリスはノートにまとめていく。
興味深いことに、450年も前の千年戦争中期の頃を当時の住民の如く、鮮明に記憶していた。
歴史書の記録と一致していることからも、ジャンヌが当時を生きていたことが窺える。だがアリスには不可解なことがある。ジャンヌ・ピュセルと契約書に名前を書かせ、靴音を鳴らしながら乗船する。
「ジャンヌ・ピュセルという名前は本名なの?」
「厳密に言えば本名ではない。ジャンヌは450年ほど前に当時の修道女から頂いた名前で、ピュセルは乙女を意味するあだ名だ。生まれた頃の記憶はない」
「あなたはどうしてルクステラのために戦っているの?」
「祖国だからというのもあるが、私の故郷、ミレンド村のジューヴォ教会は飢饉だった。ルクステラが地方にも正統教を布教する目的で建てられて以降、多くの住民が帝都からの多額の寄付によって救われた。その中に私の家族もいた。私はルクステラに命を救われた。国の恩義に報いるべく、かつてのルベルバスの征服からルクステラを護っただけだ」
「火炙りの刑に処されたって聞いたけど、どうしてあなたは生きているの?」
「私にも分からん……確かに私は434年前、ルベルバス王国軍に捕らえられ、魔災として火刑柱に縛られた。神の元へ旅立つ覚悟はできていた」
434年前――。
アーソナ大陸ルベルバス王国占領下ムーティリマ。
広場の空は鉱滓のように灰色で、風は焼けた鉄と焦げた肉の匂いを運んでいた。
中央に立てられた火刑柱は、まだ新しい木材の匂いを残しながら無数の薪に囲まれていた。
薄汚れた白い処女衣を纏った少女が縄で柱に縛り付けられている。
白髪は短く切り揃えられ、水色の碧眼は空を見上げたまま一筋の涙も流さない。群衆は遠巻きに立ち、石を投げる者、唾を吐く者、哀れに思い祈りを捧げる者、ただ野次馬として見物する者もいた。
「ルクステラの魔災め!」
「ここがお前の墓場だ!」
「神の裁きを受けろ!」
司祭が宣告を読み上げる。死刑執行人が松明を掲げ、薪に火を放つ。最初は小さな火だった。ぱちりぱちりと音を立て、少女の足元から這い上がる。
熱が皮膚を焦がし、処女衣の裾が赤く染まり、たちまち炎が全身を包んだ。
ジャンヌの唇から初めて声が漏れる。それは悲鳴ではなく、祈りとも呪いとも言える。
炎は白く青く、やがて真紅に変わる。髪が燃え、皮膚が縮れ、肉が裂け、骨が露わになる。群衆は次第に静まり返り、やがて誰もが顔を背けた。死刑執行人は松明を捨て、司祭は聖書を抱えて立ち去る。
見物人も十分だと言わんばかりに、足早に広場を後にする。残ったのは火刑柱と、黒く炭化した人形のような残骸のみ。風が吹き、灰が舞い、炭がボロボロと崩れ落ちる――。
そして、ぽつりと、小さな音がした。炭化した塊の中心に、罅割れが生じる。罅から白い光が漏れる。
次の瞬間、炭が音もなく崩れ落ち、中から光沢を帯びた裸体が現れた。肌は焼け跡1つなく、白髪は元の長さに戻り、水色の碧眼は何事もなかったかのように澄んでいる。
ジャンヌは自らの手を見下ろし、震える唇で呟いた。
「まさか……これは神の思し召しなのか?」
立ち上がり、裸のまま灰の上を歩く。足跡1つ残らない。近くに落ちていた死刑執行人の捨てた古びた外套の切れ端を拾い、肩に羽織う。粗い布はすぐに灰で汚れるが、それでも隠すのに精一杯だ。ジャンヌは人影のない路地へと滑り込み、石壁に背を預けて初めて膝を突く。涙は出なかった。
ただ、胸の奥に永遠に消えない炎が灯ったような感覚があった。遠くでルベルバス王国軍の凱旋ラッパが鳴り響く。ジャンヌは古びた布を握りしめ、物陰に身を潜めながら静かに立ち上がる。
「ルクステラは……私が護る。神は再び私に機会を与えてくださった」
瞳には聖なる決意と、消えぬ業火が同時に宿った。
荒廃した港町ドンマルノを離れ、再びミレンド村へと駆け足で戻るのだった――。
ワンダー号の甲板で、ジャンヌは同じ瞳で水平線を見つめている。
あの日の炎の熱を、今も胸の奥に感じながら。
「蘇ったことなんて歴史書に書かれていなかったわ」
「当然だ。私は自ら存在を秘匿した。私が生きていることが公になれば、ルベルバスが再び私に牙を剝くことが目に見えている。そこで私は存在を隠しながら兵士として戦い続けた」
「ルクステラにいる味方に頼れないの?」
「無理だ。敵はルベルバスだけではない。ルクステラにも私を良く思わない者たちがいる。自らの利益のために国を売ろうとする輩だ。奴らには私の存在が面白くなかったのだろう。私が捕まった時、敵側に私に位置を教えたのは、ルクステラ帝国軍の内部にいた地方貴族だ。私は一度死んだ後も、人知れず千年戦争が終結するまで、身を粉にして戦い続けた」
「よく存在がバレなかったわね」
「人除けの魔法を使った。戦場でも周囲からはただの雑兵にしか見えない。だが恐ろしいことに、カルド枢機卿は私の存在に気づいていた。聖剣ヴォーパルを奪いに来たのも、私がジューヴォ教会に安置していたことを知っていたからだ。全てはこの人間界ヒューマースを支配し、征服欲を満たすためだろう。だがそのような人物がルクステラの中枢を牛耳っているとなると、事だな」
ジャンヌが説明を続ける。聖剣ヴォーパルは鞘なき聖剣の異名を持ち、各地を彷徨っていた。
だが相応しい持ち主が現れることはなく、ジャンヌが手にした時でさえ、拒むように力を暴走させる始末であった。ジャンヌは聖剣ヴォーパルに相応しい鞘を探した。しかし、鞘なき聖剣とは言ったもので、もはやどの鞘にも収まる程度の魔力ではなかった。
結局、ジューヴォ教会に安置され、カルドが強奪するに至る。
幸いにも聖剣ヴォーパルにまつわる噂は途絶え、ミレンド村の惨状さえ、ほとんどの者が知らないほどであった。ジャンヌに帰る場所などない。あるのは見果てぬ先まで続く旅路である。
「カルド枢機卿を警戒していたのはそのためだったのね」
「ああ。カルドは聖剣ヴォーパルの力を使い、この世界を征服するつもりだ。どうにかして取り返したいところだが、私は一度死んだ身。あからさまに動くことはできん」
「だったら私の箒の中で住むのはどう?」
「箒の中だと。確かに魔箒の中は収納空間こそあるが、まさか部屋にしているのか?」
「そうよ。私の箒の中は浄化の力が強くて、どんな物でも永久保存できるし、お風呂に入らなくても清潔を保てるのよ。家にも帰れなくて宿にも泊まれない時は、よく箒の中で過ごしていたわ」
「なるほど、実に合理的だな」
思わず笑みを浮かべるジャンヌを前に、アリスも口角が上がる。
「やっと笑ったわね」
「……レイシー院長はとんでもない業を背負っていたようだが、アリスは気にしないのか?」
「聞いていたのね」
「さっきも言ったが、私は千年戦争終結まで正体を隠しながら戦い続けた。気配を悟られぬよう監視するくらい造作もない。他人の話まで聞く意図はなかったが、ルベルバスにもただならぬ事情があるようだ」
「大事なのは何をしていたかじゃないわ。これからどう行動するかよ。過去は変えられないけど、未来を変えることはできるわ。そのためにも、今この時から、魔障の未来を切り開くつもりよ」
「魔障の大量虐殺に関わった死刑執行人の子孫が魔障の未来を変えるべく行動した結果が、魔障盗賊団の誕生か。星詠みの悪戯とは、まさにこのことだな」
氷のように冷たい声でジャンヌが言った。綻びを突かれたように、アリスは眉間に皺を寄せる。
「持って回った言い方はやめて……何が言いたいの?」
「分からんのか? レイシー院長はお前がグレイシャーと同じ未来を歩むことを懸念している。表情には出さなかったが、口元の動きから僅かに恐怖が見えた」
「人の心を読めるのね」
「読心術だ。多くの者と出会いを繰り返すと、相手の考えが嫌でも分かるようになる。長命の賜物だ」
「もしそうなったとしても、あなたが止めてくれるんでしょ?」
「相変わらず肝が据わっているな。私は好きになれんが、何故多くのルベルバス王国民がお前を慕っているのかがよく分かる。お前も運命に選ばれし者のようだ。今は黙して監視に留めるが、いつでもお前を斬れることを肝に銘じておけ。私はルクステラの未来を救えれば、それでいい」
ジャンヌが言葉を残し、船内へと入った。残されたアリスは、ただ1人、日に焼ける海を見つめた。
まだ卒業の余韻が胸に残る中、ワンダー号の出航が決まる――。
グラシード村の桟橋を離れる瞬間、霧が別れを惜しむように船体を包み、潮の匂いと焼きたてパンの香りが最後の一度だけ鼻を擽ると、帆が勢い良く開く音がした。
「ルクステラ帝国ドンマルノに向け、ようそろー!」
船長代理の仕事が板についていたコッツの甲高い声が背中に響いた。船が動き出すと、ルヴァ島は見る見る内に小さくなり、やがて霧の向こうに溶けていった。ドゥブラ海峡は島と大陸を結ぶ、深い青の絨毯のようだ。朝は鏡のように静かで、太陽が昇るにつれて波が金色に煌めき、昼にはグリフォアが帆柱から叫びながら急降下し、モックが舵輪を回し、ネレイアラの歌が潮の流れを優しく落ち着かせた。
夜になると、満天の星が海面に落ち、船が星の海を泳いでいるようだった。ピクサーブが前方の気配を探るように船首に貼りつき、マルアスが甲板で静かに鼻を鳴らし、ビルが目玉をキョロキョロと動かしながら風に吹かれる。帆は1日中張り、ワンダー号は生き物の如く軽やかに進む。
ジャンヌは船首に立ち、白銀の鎧を潮風に晒しながら、時折、水平線を睨むように見つめていた。
アリスは甲板を磨きながら帝都を心待ちにする。箒でひとっ飛びすることもできたが、魔障故に単独での国外脱出は許されず、ワンダー号での渡航以外に手段はなかった。
翌朝、月が欠け、遠くに灯りが1つ、ぽつりと浮かんだ。それが次第に連なり、やがて港町の灯火の帯となり、石造りの防波堤が姿を現した。ルクステラ帝国の入り口、アリスが初めて踏むドンマルノの土。船がゆっくりと速度を落とし、錨が海底に落ちる音が響いた。潮の匂いが、どこか違う石と葡萄酒と薔薇の香りに変わった。甲板に立つ全員が、息を呑んだ。
水平線の向こうに巨大な大陸が朝陽を浴び、静かに、確実に近づいていた。
アリスが船首から身を乗り出すと、ジャンヌが初めて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
ワンダー号は静寂を守りつつ、ドンマルノの港に滑り込むのだった。
残虐王ジェノ時代、王都ムウニ・ディンロから逃げ延びた魔障は修道院によって引き取られた。神の慈悲とも呼べる保護であったが、この時多くの修道院は重税に苦しみ、時の暴君への静かな抵抗を見せていた。魔障院の前身となり、魔法実験の名目で王国から補助金を強請り、多くの魔障を救ったのだ。
ヘクストゥム魔障院長グロリア・ヘクストゥムの著書『魔障院と修道女』より




