chapter 0-1 異変
新作ファンタジーとなっております。
日本語訳は深淵なる忘却のアリスです。
魔法を基本とした物語ですが、現実世界を風刺している要素もあります。
時々視点が変わる三人称視点です。
魔障と呼ばれた1人の少女が、魔障院を舞台に活躍する姿をご覧あれ。
王都ムウニ・ディンロ郊外の小さな通りを人々が踏みしめる。
華麗なる王室の御膝元には、今にも雨が降り出そうと、不穏な曇りの空が広がっている。
赤や黒の煉瓦と大きなガラス窓が目立つ三角屋根の家屋が規則正しく並び、茶色や黄土色の煉瓦で几帳面に整備された小道を王族親衛隊が道に沿いながら闊歩し、人々の耳には抑圧の足音が響く。平伏すように目線を地面に向けたまま、女王が口を開かずに通り過ぎることばかりを祈っている。
ハート、ダイヤモンド、スペード、クローバーの絵柄がそれぞれの部隊毎に着用している甲冑に描かれている。兵士たちは長蛇の列を作り、人々には権威を示しているかのように映っている。
多種多様な種族が共存するムウニ・ディンロ郊外には、ブリスティア魔障院と呼ばれる構造物がポツンと建っている。人々は魔障院の名を聞いただけでも怖気が走る。
数十年ほど前のこと。かつて修道院としての役割を果たしていた使い古しの構造物であったが、魔障院として買い取られる頃には既に廃墟となっていた。改築されることもなく安く買い取られ、神々が顔を連ねるステンドグラスに空いた無数の穴からは明るい日光が差し込み、床には破片が散らばり、外の庭は人の背丈くらいの雑草が生い茂る始末であった。
どこの誰であれ、魔法を満足に使えることは常識である。だが稀に基礎魔法さえ使いこなせないほど魔力の弱い者、もしくは魔力の得手不得手に大きな偏りが認められる者が誕生する。彼らは通称と愚弄の意味を込めて魔障と呼ばれ、人々からは神に愛されなかった哀れな存在と見なされ、専ら嫌悪の対象とすらされているほどだ。基礎魔法が使いこなせずとも、固有魔法で食い扶持を見つける者もいるが、それは例外以外の何ものでもなく、大半は単純作業を専門とする下級使用人として、不当に安くこき使われる運命を辿っていた。しかしながら、彼らには文句を言う発想すらないのだ。
故に、多くの居場所なき者たちにとって、魔障院は数少ない拠り所となっていた。
魔障院の中では1人の少女、アリス・ブリスティアが軽やかに体を動かし、颯爽と走っている。
「待ちなさい。その意地汚い心をお掃除してあげるわ!」
若々しくも力強く高い声を上げ、1匹の素早い白兎の後をしつこく追っている。
2階の手摺りを掴みながら1階の床へと飛び降りた。頭の上に黒いリボンをしっかりと結び、青く可愛らしい魔障院制服を着用し、年齢相応の背丈、色白な細身の体は、見る者にふんわりとした幼く柔らかい印象を持たせた。アリスは風に煽られるまま、腰にまで伸びている明るいブロンドの髪をカーテンのように靡かせ、透き通るくらいに輝く碧眼を持つ、どこにでもいる10代半ばの少女である。
何を隠そう、平穏な日常しかなかったブリスティア魔障院に盗人と思われる藍色のチョッキを着用した白兎が魔障院生たちの授業中の隙を見て侵入を図ったのだ。白兎は足音も鳴らさずあっさり侵入するが、アニマリーの気配を人一倍感じやすいアリスの目は誤魔化せなかった。
短いスカートをふわりと揺らしながら足を止めた。
壁際に白兎を追い詰めると、アリスは腕輪のように肩から指先にまで連なる魔法陣を出現させ、指先の魔法陣から1本の長い箒を取り出し、穂先を白兎に向けた。
「行き止まりよ。降参するか食用肉になるか、どっちがいいかしら?」
アリスは固有魔法【掃除】の持ち主にして、ブリスティア魔障院の掃除番である。
魔法陣から召喚された魔箒、【女神の箒】はアリスの代名詞だ。空を飛行する場合、民衆は魔箒と呼ばれる道具を使う。魔箒には種類があり、どの魔箒が適しているかは人によりけりである。無論、魔障と呼ばれる者たちは魔力不足により、魔箒を使えない場合がほとんどだ。
何も知らない白兎は、開き直ったかのようにアリスを見上げた。
「笑えねえな。ていうかそんな箒1本で俺を捕まえる気か?」
「そうよ。何か問題ある?」
「はははははっ! こいつはお笑いだ。怪盗白兎と呼ばれたこのロビット様を捕まえるだぁ?」
ロビットが転げ回りながら大きく口を開き失笑する。
「あーあ、あいつ終わったな」
「アリスを怒らせたらお掃除されるってのに」
2階のステンドグラス付近には魔障と思われる少年少女たちが佇んでいる。
アリスはニヤリと笑みを浮かべ、穂先を勢い良く大道芸人のように振り回す。
「お掃除の時間よ。【吸着掃除】」
穂先に魔力を集中させ、すっかり油断しきったまま立っている白兎の左腕にピタリと接触させる。
「……ふふっ! はははははっ! 何をするかと思えば、箒で触れただけじゃねえか。そんなんでこの俺を捕まえられるわけ――あれっ、箒が離れない!? うわっ! おっ、おいっ! 放せっ!」
アリスは箒を持ったまま、接着している白兎を軽々と持ち上げた。
一度穂先に接着したら最後、魔法を解除するまで離れることができなくなり、接着対象の重力は魔力成分が濃縮されたことで発生した浮力により無重力となるため、簡単に持ち上げられるのだ。
「院長先生があなたを待っているわ。最悪今日のディナーかもね」
「おいおい、冗談きついぜ。悪かったよ。盗んだ食いもんは返すからさ、下ろしてくれよ」
アリスは言われるがまま、ロビットに両足を着かせたが、箒が左腕から離れることはなかった。
ポケットにしまい込んだ林檎をアリスに手渡す。
しかし、侵入者をむやみに逃亡させるわけにもいかず、アリスは捕まえたばかりの白兎の扱いに頭を悩ませた。院長先生とやらがアリスの言った通りの人物でないことはロビットにはお見通しであった。
痺れを切らせたアリスが恐る恐る口を開く。
「ロビット、あなたはどうしてここに来たの?」
「何でって……仲間を養うためさ。森の餌が採れなくなっちまったからな」
「森に棲んでいるなら、作物がたくさんあるんじゃないの?」
「ああ、以前はそうだった。でも少し前から作物が育たないようになっちまった。まるで時間が止まったようにな。不思議だろ?」
両手を広げながら面白おかしくロビットが話す。
あまりにもいい加減な態度に、アリスは不信感すら抱いた。
捕まっている状況にもかかわらず、周囲をキョロキョロと見渡しながら観察する様子には落ち着きなど全くない。表情は剽軽そのもので、拘束されていないかのように自由だ。
「ふざけてるの?」
「とんでもない。じゃなきゃこんな殺風景極まりないところに来るかっての。見たところ魔障ばかりで、周囲の民衆も寄りつかないから、侵入してもバレねえと思ったけど、相当嫌われてんだな」
「お陰様でね」
「なあ頼むよ。森で仲間が腹を空かせて待ってるんだぁ~。このままじゃ飢え死にしちまうよぉ~」
「……」
今にも泣きそうな声でロビットが力ない声で訴える。盗みは手段であれど、目的ではない。
アリスはまたしても頭を悩ませた。本気なのか演技なのかまでは分からない。
しかし、もしも真実であったならば、アリスは何の罪もないアニマリーの仲間を飢え死にさせてしまうところであると自らに問いかけた。放っておけばまた人気のない家屋への侵入を繰り返すのではないかと懸念する一方で、盗むことに躊躇がない様子から、逼迫しているのではないかと思考を重ねた。
「どこの森?」
「ここから東の方にある歪みの森だよ。名前くらい知ってるだろ?」
「歪みの森ですって」
アリスが大きく目を見開いたのも無理はない。
歪みの森は王都ムウニ・ディンロ郊外にある危険な森。
ルベルバス王国各地では世にも不思議な現象が度々目撃され、見たこともない生物に遭遇したり、行方不明になったり、気候に変化が生じたりと、枚挙に暇がない。
人々は神話か何かを妄想で見たと嘲笑うばかりだが、無事に帰ってきた者たちは至って真剣だ。
歪みの森の興味深い話は、アリスの好奇心を駆り立てた。
行けば何か分かるかもしれない。しかし、歪みの森は出入りを固く禁じられており、人間と親しみのあるアニマリーたちでさえ口を閉ざすほど。王国各地にある立ち入り禁止区域は凶悪なクリーチャーの根城であり、時折住宅街に現れては、王国軍による犠牲を伴う出撃により退治されている。
数多くの死者を出すこともあり、俗に禁忌の聖域と呼ばれている。
「何でそんなに驚くんだ?」
「歪みの森には近寄るなって言われているわ。院長先生でさえ入ったことがないの」
「そうかい。ちょっと前までは、作物がたくさん育つ……緑豊かな森だった」
物寂しそうに声のトーンを下げるロビット。
さっきまで立っていた両耳がシュンと垂れ下がるように曲がっている。
考えていても仕方がないと思ったアリスは、歩く気力すらなくなっているロビットを院長先生の元へと引き摺っていく。地面に散りばめられた砂の音を立て、院長室へと続く木造の階段を上がり、一定の距離毎に柱の立つ回廊を曲がり、ドアハンドルの丸い台座についている、錆びた真鍮のリングを押すようにしながら、木造の扉をゆっくりと2回叩いた。
「どうぞ」
扉の奥から余裕を孕んだ言葉が返ってくる。
「入って」
掴んでいる箒を前へと動かし、ロビットを先に行かせた。
物静かな院長室に入ると、ロビットはまたしても落ち着かない様子で、周囲の本棚をキョロキョロと見渡し、アリスを引っ張りながら跳ね回っている。
アリスとロビットの目先には、目に収まりきらないくらいの小さな眼鏡をかけ、ウィンプルを頭にかぶった老婆の女性が平然と椅子に腰かけ、羽根ペンを使い、机の上の紙に文字を書き綴っている。
「失礼します」
「あら、いきなり授業を抜け出したと報告を受けたかと思えば、アニマリーを飼っていたの?」
「いえ、この不届きな盗人白兎が侵入したので捕まえたんです」
「どうりで外が騒がしかったわけね。私はレイシー・ブリスティアと申します。このブリスティア魔障院の院長です。あなたは?」
「俺はロビット。歪みの森から来たんだ」
「まあ、歪みの森からですか。これまたどういった経緯で?」
レイシーが首を傾げながら尋ねると、ロビットは歪みの森での出来事を涙ながらに訴えた。
聞けば数日ほど前から作物が姿を消したばかりか、入れ替わるように見たこともないクリーチャーが頻繁に姿を現し、歪みの森に棲む多くのアニマリーを悩ませる結果となった。
「そうでしたか。しかし困りました。アニマリーの食糧を工面してやりたいところですが、私たちにも余裕がないのです。この前の飢饉で食糧庫の作物が底をついてしまったのです」
「おいおい、そりゃないぜ」
「申し訳ありませんが、私は生徒たちの面倒を見るので精一杯なのです。その様子だと、盗んだ食糧は無事にアリスの手に返したようですね。ではこうしましょう。しばらくの間、ロビットの面倒はアリスが見なさい。院長命令です」
「どうして私が?」
「この前使用人試験に落ちたでしょ。あっ、そうだわ。ロビットと一緒に食糧の採取に行きなさい。授業を抜け出した分の補習です。ロビットもそれでいいですね?」
「お、おう……」
「分かりました」
めんどくさそうにアリスが答えた。
アリスが魔法を解除すると、ロビットの左腕が箒から離れ、すぐ院長室から立ち去った。
使用人試験に合格卒業を決めることは全ての魔障の願いである。受からないまま成人を迎えれば成人卒業となり、後ろ盾もないまま不利な条件で職探しをする破目になる。
困り果てた挙句、盗みに走り、厳罰に処され、獄死する未来が彼らには見えている。
故に、魔障院生たちは必要に迫られ、下積みに励む。
無論、使用人試験に受かったところで、魔障院出身の時点で出世は望めない。あくまでもお情けで雇われた人的資源に過ぎず、名目上の身分も奴隷と同等であった。
ロビットの気配が消え、アリスが再びレイシーに目を向ける。
「どうして嘘を吐いたんですか?」
「飢饉があったのは本当よ」
「食糧なら十分あるじゃないですか」
「もし食糧庫に十分な蓄えがあることをロビットが知ったらどうすると思う?」
「どうするって……」
「仲間たちを率いて私たちの食糧を全部掻っ攫っていく可能性もあったのよ。知り合ったばかりの相手をむやみやたらに信用しないこと。いいわね?」
「……はい」
渋々と答えると、アリスは顔を下に向けたまま、院長室の外に出た。
扉が閉まる音が辺りに響く。アリスはため息を吐きながら足を踏み出し、廊下を歩きながら寝室へと移動する。魔障院1階が教室で占められ、2階は院長室や魔障院生たちの寝室となっている。
筆記体でアリスと書かれた部屋の扉を開け、中に入った後、ベッドに横たわり、大きく息を吐いた。
ルベルバス王国民の多くは余程教養がないのか、一度立った噂をまるで真実であるかのように信じ込む癖があり、暴君に利用されてしまう場合もある。悪魔とは多数派による間違った民意のことを言うのだ。
魔法官エヴァン・ギラスの著書『王国の黙示録』より




