chapter 0-1 異変
新作ファンタジーとなっております。
日本語訳は深淵なる忘却のアリスです。
魔法を基本とした物語ですが、現実世界を風刺している要素もあります。
時々視点が変わる三人称視点です。
魔障と呼ばれた1人の少女が、魔障院を舞台に活躍する姿をご覧あれ。
王都ムウニ・ディンロ郊外の小さな通りを人々は肩を窄めて踏みしめていた。
靴底が湿った石畳に吸い付くような感触が、歩く度に微かな不快音を立てる。
空は鉛のように重く垂れ込め、今にも雨粒が落ちてきそうな灰色の雲が低く覆い、風が運んでくる湿気と遠くの煙突の煤けた匂いが鼻腔を擽った。赤や黒の煉瓦で積まれた三角屋根の家屋が規則正しく並ぶ通り沿いには大きな硝子窓が並び、曇天の下で鈍く光を反射している。
王族親衛隊の甲冑が、ハート、ダイヤモンド、スペード、クローバーの鮮やかな絵柄を刻みながら金属の擦れ合う低い音を立てて闊歩する。兵士たちのブーツが石畳を叩く度、規則正しく抑圧の足音が響く。人々の耳には恐怖の鼓動のように染み込んでくる。誰もが視線を地面に落とし、息を殺して女王の行列が通り過ぎるのを祈るように身を縮めていた。
そんな王都の外れ、郊外の端にポツンと建つブリスティア魔障院はかつての修道院の亡骸だった。
神々が連なるはずのステンドグラスは無数の穴が開き、差し込む薄い日光が床に色褪せた虹の欠片を散らす。埃と古い石の匂いが混じり、湿った空気が肺に絡みつく。外の庭は人の背丈を超える雑草が風に騒めき、時折、枯れた茎が折れる乾いた音が響く。廃墟めいた静けさの中に奇妙な安堵が漂っていた。ここは魔障と呼ばれる者たちにとって数少ない息のできる場所だった。
どこの誰であれ、魔法を満足に操ることは世界の常識だった。だが稀に、生まれながらにしてその輪から外れる者たちがいた。基礎魔法さえ満足に扱えず、魔力の流れが細く途切れがち、または1つの偏った才能だけが異様に強い者たち。彼らは魔障と呼ばれ、通称の裏に愚弄と嘲りが込められていた。
常人は彼らを神に見放された哀れな残骸と見なした。街の路地で出会えば、鼻を摘まむような視線が刺さり、市場では値切り放題の安い労働力として扱われ、時には石を投げられることすらあった。湿った石畳に膝をつき、埃を吸い込みながら雑巾を絞る感触、指先が冷え、感覚が麻痺する痛みさえある。
基礎魔法が使えずとも、稀に固有魔法で細々と食い扶持を稼ぐ者もいた。
大半は下級使用人として不当に安い賃金でこき使われ、骨の髄まで疲弊していく運命を辿った。冷たい霧が肌を刺す中、背中を丸めて薪を運び、夜には蝋燭の煤けた匂いに塗れて眠りにつく。
魔障院の内部では、アリス・ブリスティアが軽やかに体を弾ませて走っていた。青い制服のスカートがふわりと舞い、腰まで伸びた明るいブロンドの髪が風を切ってカーテンのように揺れる。頭の黒いリボンが跳ね、碧眼が鋭く光る。息が少し上がり、頰が熱を帯び、足裏に古い木の床のざらつきを感じている。
「待ちなさい! その意地汚い心をお掃除してあげるわ!」
若々しくも力強く高い声を上げ、1匹の素早い白兎の後をしつこく追っている。
何を隠そう、平穏な日常しかなかったブリスティア魔障院に盗人と思われる藍色のチョッキを着用した白兎が魔障院生たちの授業中の隙を見て侵入を図ったのだ。白兎は足音も鳴らさずあっさり侵入するが、気配を人一倍感じやすいアリスの感覚だけは誤魔化せなかった。
短いスカートをふわりと揺らしながら足を止めた。壁際に白兎を追い詰めると、アリスは肩から指先にまで連なる魔法陣を出現させ、指先の魔法陣から1本の長い箒を取り出し、穂先を白兎に向けた。
「行き止まりよ。降参するか食用肉になるか、どっちがいいかしら?」
アリスは固有魔法【掃除】の持ち主にして、ブリスティア魔障院の掃除番である。
魔法陣から召喚された魔箒、【女神の箒】はアリスの代名詞だ。人々は魔箒と呼ばれる魔導具で空を飛ぶ。魔箒には種類があり、どの魔箒が適しているかは人によりけりだ。魔障は魔力不足により、魔箒を使えない場合がほとんどだ。
何も知らない白兎は開き直ったかのようにアリスを見上げた。
「笑えねえな。ていうかそんな箒1本で俺を捕まえる気か?」
「そうよ。何か問題ある?」
「はははははっ! こいつはお笑いだ。怪盗白兎と呼ばれたこのロビット様を捕まえるだぁ?」
ロビットが転げ回りながら大きく口を開き失笑する。
「あーあ、あいつ終わったな」
「アリスを怒らせたらお掃除されるってのに」
2階のステンドグラス付近には魔障と思われる少年少女たちが佇んでいる。
アリスはニヤリと笑みを浮かべ、穂先を勢い良く大道芸人のように振り回す。
「お掃除の時間よ。【吸着掃除】」
穂先に魔力を集中させ、すっかり油断しきったまま立っている白兎の左腕にピタリと接触させる。
「……ふふっ! はははははっ! 何をするかと思えば、箒で触れただけじゃねえか。そんなんでこの俺を捕まえられるわけ――あれっ、箒が離れない!? うわっ! おっ、おいっ! 放せっ!」
アリスは箒を持ったまま、接着している白兎を軽々と持ち上げた。
一度穂先に接着したら最後、魔法を解除するまで離れることができなくなり、接着対象の重力は魔力成分が濃縮されたことで発生した浮力により無重力となるため、簡単に持ち上げられるのだ。
「院長先生があなたを待っているわ。最悪今日のディナーかも」
「おいおい、冗談きついぜ……悪かったよ。盗んだ食いもんは返すからさ、下ろしてくれよ」
アリスは言われるがまま、ロビットに両足を着かせたが、箒が左腕から離れることはなかった。
ポケットにしまい込んだ林檎をアリスに手渡す。
しかし、侵入者をむやみに逃亡させるわけにもいかず、アリスは捕まえたばかりの白兎の扱いに頭を悩ませていると、やがて痺れを切らせたアリスが恐る恐る口を開く。
「ロビット、あなたはどうしてここに来たの?」
「何でって、仲間を養うためさ。森の餌が採れなくなっちまったからな」
「森に棲んでいるなら、作物がたくさんあるんじゃないの?」
「ああ、以前はそうだった。でも、少し前から作物が育たないようになっちまった。まるで時間が止まったようにな。実に不思議だろ?」
両手を広げながら面白可笑しくロビットが話す。
あまりにもいい加減な態度に、アリスは不信感すら抱いた。
捕まっているにもかかわらず、周囲をキョロキョロと見渡しながら観察する様子からは落ち着きが全く感じられない。表情は剽軽そのもので、拘束されていないかのように自由だ。
「ふざけてるの?」
「とんでもない。じゃなきゃこんな殺風景極まりない所に来るかっての。見たところ魔障ばかりで、周囲の民衆も寄りつかないから侵入してもバレねえと思ったけど、相当嫌われてんだな」
「お陰様でね」
「なあ頼むよ。森で仲間が腹を空かせて待ってるんだぁ~。このままじゃ飢え死にしちまうよぉ~」
「……」
今にも泣きそうな声でロビットが力ない声で訴える。盗みは手段であれど、目的ではない。
アリスはまたしても頭を悩ませた。本気なのか演技なのかまでは分からない。
もしも真実であったならば、アリスは何の罪もないアニマリーの仲間を飢え死にさせてしまうところであると自らに問いかけた。放っておけば、また人気のない家屋への侵入を繰り返すことを懸念する一方、盗むことに躊躇がない様子から、逼迫しているのではないかと思考を重ねた。
「どこの森?」
「ここから東の方にある歪みの森だよ。名前くらい知ってるだろ?」
「歪みの森ですって!」
アリスが大きく目を見開いたのも無理はない。
歪みの森は王都ムウニ・ディンロ郊外にある危険区域。
ルベルバス王国各地では世にも不思議な現象が度々目撃され、見たこともない生物に遭遇したり、行方不明になったり、気候に変化が生じたりと、枚挙に暇がない。
人々は神話か何かを妄想で見たと嘲笑うばかりだが、無事に帰ってきた者たちは至って真剣だ。
歪みの森の興味深い話はアリスの好奇心を駆り立てた。
行けば何か分かるかもしれないが、歪みの森は出入りを固く禁じられており、人間と親しみのあるアニマリーたちでさえ口を閉ざすほどだ。王国各地の立ち入り禁止区域は凶悪なクリーチャーの根城であり、時折、住宅街に現れては、王国軍による犠牲を伴う出撃により退治されている。
数多くの死者を出すこともあり、俗に『禁忌の聖域』と呼ばれている。
「何でそんなに驚くんだ?」
「歪みの森には近寄るなって言われているわ。院長先生でさえ入ったことがないの」
「そうかい。ちょっと前までは、作物がたくさん育つ……緑豊かな森だった」
物寂しそうに声のトーンを下げるロビット。
さっきまで立っていた両耳がシュンと垂れ下がるように曲がっている。考えていても仕方がないと思ったアリスは、箒を握ったままロビットを院長室へと引き摺った。
地面に散らばった埃と砂が靴底でざりざりと音を立て、湿った空気が肺に絡みつく。
木造の階段は古く、足を踏み入れる度に軋み、埃っぽい空気が鼻を刺す。一定の間隔で柱が立つ回廊を曲がる度、壁の罅割れから冷たい風が吹き抜け、肌をざわつかせる。
錆びた真鍮のリングを押すようにして重い扉を二度叩く。
「どうぞ」
扉の奥から余裕を孕んだ言葉が返ってくる。
「入って」
掴んでいる箒を前へと動かし、ロビットを先に行かせた。
院長室は薄暗く、古い紙とインクの匂いが濃く漂い、壁一面の本棚には埃が積もる。
アリスとロビットの目先には、目に収まりきらないくらいの小さな眼鏡をかけ、ウィンプルを頭にかぶった老婆の女性が平然と椅子に腰かけ、羽根ペンを使い、机の上の紙に文字を書き綴っている。
「失礼します」
「あら、いきなり授業を抜け出したと報告を受けたかと思えば、アニマリーを飼っていたの?」
「いえ、この不届きな盗人白兎が侵入したので捕まえたんです」
「どうりで幼い子供が遊ぶように外が騒がしかったわけね。私はレイシー・ブリスティア。このブリスティア魔障院の院長です。あなたは?」
「俺はロビット。歪みの森から来たんだ」
「まあ、歪みの森からですか。これまたどういった経緯で?」
レイシーが首を傾げながら尋ねると、ロビットは歪みの森での出来事を涙ながらに訴えた。
聞けば数日ほど前から作物が姿を消したばかりか、入れ替わるように見たこともないクリーチャーが頻繁に姿を現し、歪みの森に棲む多くのアニマリーを悩ませる結果となった。
「そうでしたか。しかし、困りました。食糧を工面したいところですが、私たちにも余裕がありません。この前の飢饉で食糧庫の作物が底をついてしまったのです」
「おいおい、そりゃないぜ」
「申し訳ありませんが、私は生徒たちの面倒を見るので精一杯なのです。その様子だと、盗んだ食糧は無事にアリスの手に返したようですね。ではこうしましょう。しばらくの間、ロビットの面倒はアリスが見なさい。院長命令です」
「どうして私が?」
「この前使用人試験に落ちたでしょ。あっ、そうだわ。ロビットと一緒に食糧の採取に行きなさい。授業を抜け出した分の補習です。ロビットもそれでいいですね?」
「お、おう……」
「分かりました」
面倒臭そうにアリスが答え、魔法を解除する。
ロビットの左腕が箒から離れ、すぐ院長室から立ち去った。
使用人試験での合格卒業は多くの魔障が願うところだ。受からないまま成人を迎えれば成人卒業となり、後ろ盾もないまま、不利な条件で職探しをする破目になる。
困り果てた挙句、盗みに走り、厳罰に処され、獄死する未来が彼らには見えている。
故に、魔障院生たちは必要に迫られ、下積みに励む。
無論、使用人試験に受かったところで、魔障院出身の時点で出世は望めない。あくまでもお情けで雇われた人的資源に過ぎず、名目上の身分も奴隷と同等であった。
ロビットの気配が消え、アリスが再びレイシーに目を向ける。
「どうして嘘を吐いたんですか?」
「飢饉があったのは本当よ」
「食糧なら十分あるじゃないですか」
「もし食糧庫に十分な蓄えがあることをロビットが知ったらどうすると思う?」
「どうするって……」
「仲間たちを率いて私たちの食糧を全部掻っ攫っていく可能性もあったのよ。知り合ったばかりの相手をむやみやたらに信用しないこと。いいわね?」
「……はい」
渋々と答えると、アリスは顔を下に向けたまま、院長室の外に出た。
扉が閉まる音が辺りに響く。アリスは溜め息を吐きながら足を踏み出し、廊下を歩きながら寝室へと移動する。魔障院1階が教室で占められ、2階は院長室や魔障院生たちの寝室となっている。
筆記体でアリスと書かれた部屋の扉を開け、中に入ると、埃っぽい空気が肌にまとわりつく。簡素なベッドに横たわり、大きく息を吐いた。マットレスが体を沈め、古い布の匂いが鼻を擽る。
胸の奥で、歪みの森への好奇心と、押し付けられた面倒臭さが静かに渦を巻いていた。外の風が窓を叩く音が遠く響き、アリスは目を閉じた。今日の出来事が頭の中でゆっくりと回り始める。
全てが静かな予感のように胸に沈むのだった。
ルベルバス王国民の多くは余程教養がないのか、一度立った噂をまるで真実であるかのように信じ込む癖があり、暴君に利用されてしまう場合もある。悪魔とは多数派による間違った民意のことを言うのだ。
魔法官エヴァン・ギラスの著書『王国の黙示録』より




