⑥
次の日、学校のあるバス停を降りた途端、いつもとは何か雰囲気が違うような気がした。
やけに暑いというか、騒々しい。
まるで有り余るほどの青春の熱気を、関係のない僕にまでぶつけてくるような……。
原因は少し歩いて直ぐに分かった。
それは正門の手前にあるグラウンドにあった。
野球部だ。
野球部の朝連はいつもなら軽いキャッチボールやランニングが主体のはずなのに、この日は朝腹から金属バットの鳴る音や勢い良く投げたボールがグローブを叩くような音がバンバン聞こえて来て、まるでスポコンドラマでも見ているみたいだ。
そう言えば、再来週からは全国高等学校野球選手権大会の県予選が始まる。
いわゆる“夏の甲子園”を目指す戦い。
今から急に頑張っても“ローマは1日にして成らず”つまり、もう手遅れだということ。
一生懸命頑張っている部員達には悪いが、それが現実だと思った。
午前中の授業が終わり、昼食の時間。
いわゆる“昼休み”
僕がノンビリ弁当箱を開けようとしたところ、メシも食わずに教室を出て行くヤツが居た。
森村直美だ。
そして、それに続くように席を立ったのは野球部の尾形。
友達から「口の周りにご飯粒が付いているぞ!」と揶揄われていたところを見ると、こっちの方は一応昼飯を食ったようだ。
何を慌てているのだろうとは、これっぽっちも思わずに、僕は前の授業の内容を思い返しながら弁当の玉子焼きを口に入れた。
しばらくすると、教室の南側から吹奏楽部の練習する音が流れて来る。
幾つもの音の中には直美の奏でるオーボエの音も混じっていて、その音たちがやがて一つの方向に集まり“曲”に変わった。
流れてくる曲は、どれも夏の高校野球で馴染みの深い曲ばかり。
そしてその曲に合わせるように、北側のグラウンドからは金属バットやグローブを叩くボールの音と部員たちの掛け声が聞こえて来た。
昼連!?
まるで強豪高校みたいじゃないか。
高校に入学して吹奏楽部に入った直美に聞いた事があった。
それは何故、バレー部に入らなかったのかと言うこと。
好奇心が強くて色んなことに挑戦する彼女の事だから“気が変わった”と軽い答えが返ってくものとばかり思っていたが違った。
直美は僕に、こう答えた。
「中学でバレーボールをしていた時に、いっぱい応援してもらって勇気をもらったから、今度は勇気を後押しする側に回りたい」と。
教室のある棟を挟んで、応援するものと、されるもの。
森村直美は今、野村を応援しているのだ……。
翌日から野球部の猛練習の噂は全校内に広がった。
「野村の最後の年を飾るため部員が一丸となって今年こそ上位進出を目指している」とか、「野村一人がいくら頑張っても他のものが駄目なので野村が怒ってしまった」とか、「今年は野村の調子が凄く良いから、他の選手が頑張れば甲子園にいける」 とか。
様々な噂が立てられたが、その噂の中心として登場するのは全て、あの野村だった。
噂の殆どが野球部自体の成績アップに繋がるものだったが、その中にいつもグラウンドで野村の事を見ている親衛隊たちの噂話が気になった。
それは野村が、ある女子生徒に告白したところ甲子園に出場したら付き合ってあげると言われたのでムキになっている。と言うものだった。
ある女子生徒……。
きっと、その“ある女子生徒”とは、直美の事ではないだろうか?
今まで噂話なんて気にも留めなかったのに何故かこの噂話には、心臓の直ぐ傍まで針を埋め込まれたような切羽詰った何かを感じずにはいられなかった。
身長が優に180㎝もある野村と、170㎝の直美が並ぶ姿は絵になるし、女子は大人になるとハイヒールを履くから余計背が高く見えて更に絵になる。
それに比べると僕の身長は160㎝……僕と並んで絵になる女子って、この世の中に存在するのだろうか。
ホームルームの時に、そんなことを考えながら周囲を見渡したが、そのような女子はこの世の中には居ないように思えた。
ドスン!
いつものように森村直美が僕の机に“用事の品”を置く。
いつもなら驚いたり文句を言ったりするのだが、なんとなく顔を合わせる気持ちにならなくて黙ってそれを受け取り、席を離れて学校を出た。
次の日も、その次の日も。
4日目にも僕の机の上には“用事の品”が置かれたので、それを手に取って帰ろうとしたところ逆に直美が僕の手を掴んだ。
“なに!??”
驚いて慌てて手を引っ込めようとしたが、彼女は強引に僕の手を引っ張ると、そのまま小走りに階段を上がり屋上へ連れて行く。
小柄な僕は、馬力のある彼女に引かれるまま付いて行くしかなかった。
なにか僕に対して怒っていることは、火を見るよりも明らか。
屋上に出ると彼女はグラウンドとは反対側の手すりに肘をかけ少しの間景色を眺めていて、夏の南風が後ろ姿のポニーテールを揺らしていた。
揺れるポニーテールの向こうには青い空に浮かぶ入道雲とセミの声。
南風が止まった途端、直美は急に僕の方に振り向き大きく息を吐くように声を出した。
僕は怒られるのが怖くて一瞬身構える。