⑪
野球部は僕の予想に反して準々決勝まで勝ち進んでいた。
僕たちはクラス全員で夏季補習が終わって直ぐに、試合の行われる球場まで応援するために向かった。
この日は今年一番の暑い日で午後の気温は優に36度を超えていた。
コンクリートの席に座っているだけで倒れそうになる。
こんな中で、どうやって走ったり投げたりできるのか、野球部の連中がスーパーマンのように思えた。
そして応援の演奏をする吹奏楽部も。
応援する生徒たちの並び順は一番グランドに近い場所から、野球部員、吹奏楽部、父兄の順で、僕たち生徒とOBは一番後ろの席。
試合のほうは、稀に見る投手戦となり七回を終えたところまでお互いに得点を許さずスコアボードにはゼロが並んでいて、特に野村のほうはここまで相手の強力打線をノーヒットに抑える完璧なピッチングだった。
八回表の我が高の攻撃は一死から一番の尾形が内野安打で出塁し、送りバントで二死二塁と一回表以来久し振りに得点圏に走者を進め、続く三番打者が四球でチャンスを四番の野村に託す形となった。
このチャンスに今迄日陰に隠れるように応援していた生徒のうち何人かが一斉に最前列に移動して、声をからしこの日一番の声援を送った。
そして吹奏楽部の応援も更に高らかにスタンドに響き渡る。
一球目ファール。
二球目ボール。
三球目見逃しのストライク。
四球目ボール。
五球目ファール。
六球目ファール。
七球目ファール。
カウントがツーボール、ツーストライクと息が抜けない。二塁ランナーの尾形の俊足ならヒットだと一点は入るが……
周りの連中が興奮して応援している中で、僕はある異変を感じた。それは吹奏楽部の奏でる曲。
“何かがおかしい……でも何が?”
周囲を見渡しても、誰もその事に気が付かずに応援を続けている。
音痴な僕が変だと思うことだったら他の人も気が付くはずだと思っていたが、やはり何かがおかしい。
相手投手が八球目を投げ野村がまたファールした。
長い攻防にスタンドがどよめく。
ただ吹奏楽部だけはこのチャンスにどよめく暇もなく演奏を続けている。
そのとき初めて僕が感じた異変が何だったのか漸く気が付いた。
それは森村直美の吹くオーボエ。
特に音程が変だとかリズムが合っていないとかじゃなく、彼女のオーボエから吐き出されるその音が、まるで悲鳴のように感じた。
一番後ろの席に座っている僕からは、森村直美の様子は見ることは出来ない。
ただ見えるのは背の高い直美の頭だけ。
その頭はリズムを取るように揺れていた。
何かがおかしい。と考えた矢先、僕の足は僕の思考とは関係なしに階段を駆け降りていた。
思考が後から付いてくる。
そう!大勢いる吹奏楽部のメンバーの中で彼女の頭を振るリズムだけが皆とずれている!
それが一体なにを意味するのかは分からなかったが彼女に何かが起きていると思った。
グラウンドからキーンという甲高い金属バットがボールを弾く音が聞え、スタンドに座っていた生徒たちが一斉に立ち上がり森村直美を埋め尽くす。
もしも彼女に何事もなければ、人一倍背の高い彼女は立ち上がった中でも見えるはず。
だが、今はそれが見えない!
立っている人を掻き分けて森村直美の座っていたところに到着すると、彼女はオーボエを抱えたまま席にうつ伏せに倒れていた。
「大丈夫か!」
自然に大声が出た。
「直美!分かるか?!」
話しかけながら彼女のおでこを手で触る。
「誰か医務室に運ぶのを手伝ってくれ!」
その言葉で回りの生徒が集まる。
直ぐに担架が用意され、僕は直美乗せて担架を担ぎ、先生に誘導されて医務室に向かった。
医務室のベッドに移された森村直美は、衣服を緩め体を冷やすために冷たいタオルを頭と脇に乗せられ、食塩水を飲ませた。
直美の意識はもうハッキリしていて迷惑を掛けた事を詫びていた。
彼女が意識を回復したことで皆が安心して医務室から出て行ったが、試合なんてあまり興味のなかった僕は直美の事が心配だったので残った。
他にも倒れた人が居たらしく、医務室の先生は僕に「様子がおかしいと思ったら直ぐに連絡して」と携帯の番号を書いたメモを渡して部屋を出て行った。
医務室には僕と直美の二人きりになった。
「なんで分かったの……」
「えっ?」
苦しいのだろう、いつもと違う弱々しい口調で話されて、聞き返してしまった。
「一番に来てくれたよね」
「うん。オーボエが……」
「オーボエ?」
「うん……オーボエの音色が教えてくれた」
「へぇ~。サ・ス・ガ」
「えっ?」
「ううん。なんでもない」
僕には直美が言った言葉の意味が分からなかった。
「食塩水飲める?」
僕が勧めると彼女は笑って手に取ったので、僕は飲みやすいように彼女の背中に手を添えて上体を起こしてあげた。
あんなに背が高いのに、ずいぶん軽くて華奢な背中。
彼女は有難うと言って、食塩水を飲み終わると僕がまた手を添えて寝かせた。
横になると彼女は目を瞑り小さく呟いた。
「手を」
「えっ……」
「手を握っていて」
彼女の熱い手を握ると、何故か指先だけが冷たく感じて、もしかしたらこのまま死んでしまうのではないかと思い、両手で彼女の手を握ると、微かに聞えてきた救急車の音が近付いて来た。




