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直美がオーボエを仕舞いはじめ、それが終わるまで川面を見ていた。
そして二人で家路に向かう。
途中にある自販機の前で彼女は喉が渇いたと言ったので、飲めば良いじゃないかと返事を返すと
「財布の中身はスッカラカン」だと言って、僕に“おねだり”してきた。
僕は仕方なしに自販機にお金を入れると、直美はこの前と同じソーダを買って、缶を開けずに僕の方にニッコリ笑顔を見せて突っ立っていた。
一緒に飲んでから帰ろうという合図なのかと思い、僕も喉が渇いたのでコーラを買って二人で自動販売機の横にあったベンチに腰掛けた。
「ありがとう」
いつもは生意気な彼女から、しおらしい声で礼を言われた。
「うん……」
こういうときに気の利いた奴は何か良い事言うんだろうなと思ったが、僕には何も話す事が思い浮かばなかった。
「この前は手ぶらだったのに、今日は財布を持って来てくれたのね」
“持って来てくれた”と直美に言われチョッと引っ掛かったが、実際にもし彼女と出会って脱水症状が出ていた場合の緊急事態に備えて財布を持って来た。
ただ、そこのところを見透かされたような気がして少し嫌だった。
駄菓子屋のベンチに腰掛けて飲んでいると、少し離れたところで近所の子供が親と花火をしていた。
ベンチの背もたれに背を付けて座っている僕は、膝に肘をついて前かがみに座って花火を見ている直美を見ていた。
後ろから見る格好になるので表情までは見えないが、こうしてみていると小さい子供の頃と何も変わっていないように見える。
「きれいだね」
彼女が急に振り向き目が合ってしまいドキッとした。
「花火のことだよ」と慌てて付け加えると彼女は「そうね」と言ってまた花火の方に向く。
少し慌ててしまった僕は、持っていたコーラを飲もうとして気管に入れてしまい咳が止まらなくなった。
「ばかねぇ、慌てて飲むから咽るのよ」
言葉とは逆に、僕の背中を擦ってくれる直美の手は優しくて柔らかかった。
「子供の頃、よく一緒にああやって花火したよね」
直美が花火を見ながらポツンと言った。
僕たちは家も近所で親同士も仲が良かったので小学生くらいまでは夏になると、あの河原まで行ってよく一緒に花火をした。
小さい頃から背の高かった彼女と花火をしていると通りがかりの人から姉弟仲良くて好いねと毎回のように言われて悔しかった。
生まれたのは僕のほうが早いのに彼女のほうが断然背が高いので誰からもそう見られるのが嫌だった。
おとなしく花火を見ていた彼女が急に、目をクリクリさせ僕のほうに振り向いて言った
「ねぇ!今度花火しない?」
「えっ」
いくら近所で親同士も仲が良いといっても、さすがにこの歳で二人きりで花火というのは……。
暗がりと花火の灯りで直美には分からないだろうが、恐らく今の僕は赤面している。
いつの間にか花火は終わっていて子供たちと親が後片付けをして家に戻っていた。
急に辺りが暗く静かになった。
微かに吹いた風の音が聞えた気がした。
直美が「小さかった頃が懐かしいな」とポツンと言った声が、凄く寂しいように聞こえた。
さっき「花火をしない?」と尋ねてきた明るさが、消えてしまったように気がした。
おそらくそれは花火が終わったせいだけではないだろう。
学校で面と向かって見られると何を言われるのかいつも警戒してしまうのに、今夜はやけに変な気持ちがするのは屹度この夜の闇のせいなんだろう。
いつもは背の高いノッポで生意気な直美が、小さくてキャシャで可憐に思えて不思議だった。
家に帰るためベンチから立ち上がり、飲み終わった缶を自販機の横にあるゴミ箱に捨てると、ゴトンと音がした。
森村直美はまだソーダの缶を持っていたので、捨てていけばと声を掛けたが彼女は、まだ残っていると返事を返した。
飲み終わるまで待とうかと言うと、慌てて飲むとゲップが出るから残りは家で飲むと缶を持ったまま歩き出す。
変なヤツ、いつもは僕が“急げ!”と言っても、あまのじゃくなくせに……。
家の前で別れて、僕は直美が家に戻るまでその後ろ姿を見送っていた。
直美は僕が見ているのを知っていたらしく、自分の家の前で僕に振り向くと手を振る。
どこかの家に吊るされた風鈴がチリンと、ひとつだけ清らかで悲しい音を鳴らし、そのときその風が森村直美のポニーテールにまとめた髪を微かに揺らした。
そして静かに、まるで蛍が闇の中に吸い込まれるように家の影に隠れて見えなくなった。




