夢のワンダーランド
ベッドでぼんやり天井のシミを数える。
鬱になってから続けているこのルーティン……というかもはや私の日常だ。
今日も気分はすこぶる落ちているし食欲も、起きる気力もない。
暗闇が怖いのに、太陽の光には責められてる気がして今日もいっぽも外には出れなかった。
けど、最早それが私の当たり前だ。
代わり映えはしない、なんでもない1日。
いつまで、いつまでこんなに灰色な日が続くのか。
今日も明日も良くなっている気は一向にしない。
治るビジョンも見えない。
小さい頃みたいになんでも大きく輝いていた、誰もが優しかった、私が主人公だと思っていた……あの世界にはもう戻れないのだ。
そう思ったらまた頭にモヤがかかる。
枕元に置いてある薬をぬるいペットボトルの水で飲み込んで目を閉じる。
消えたい、死にたい。
だけどその気力も勇気も出ない。
だからこうして、家族に迷惑を掛けているのを分かっていながら今日も生きていた。
息をしてるだけじゃ生きていないって、人は言うけど。
でも自分は息だけでもう精一杯だ。
スマホも、本も、薬がなければ文字が読めない。
理解ができない。
ご飯の味はかろうじてするけど、1口を口に運ぶのに1分もかかる。
こんな人間に、生きてる価値はあるんだろうか。
私は、ここにいていいんだろうか。
暗い考えが頂点に達した時、何故か突然電気が付いた。
驚いて電気のスイッチがあるドアの方を見たら、部屋の真ん中の机の上に長身の男が笑っていた。
びっくりした私が何か言う前に、また電気が消える。
再び着いた時には机に男の姿はなく……
背中に気配を感じて顔だけ振り向けば、私と壁の間のスペースに彼は寝そべっていた。
思わず体を離してしまった私は、狭いベッドから転げ落ちる。
それを見て男はまたカラカラと笑った。
「アリスは忙しいねぇ。そこが楽しいけどさぁ。」
男がパチン、と指を鳴らすと私の体はベッドの上に戻っていた。
最近、何故か部屋に現れるこの男。
『マッドハッター』、と名乗っている。
その名の通り、本当に不思議の国の帽子屋のように奇妙な格好と言動。
不思議なオレンジと紫色のくるくるの髪に、パッチワークみたいなツギハギの派手な服と帽子。
そしてさっきみたいな瞬間移動や魔法を平然と使う。
「なんの用なの、ハッター」
眉を顰める私にはお構い無し。
優雅な手つきで彼は私に毛布をかける。
「一緒にお昼寝するだろ?」
「今、夜なんだけど」
「夜は昼、昼は夜。おバカなアリスにも分かる、簡単なことだよ」
ちなみに私の名前はアリスじゃない。
けどこいつは、初めて会った時から何故か私をそう呼ぶ。
最初にこいつが部屋に現れたのはひと月前。
勿論、不審者だと思って騒ぎ立てたけど、警察どころか家にいる家族すら部屋には来なかった。
楽しげに笑う怪しい男は、帽子をとって優雅にお辞儀をして……「ようこそ、アリス。俺の狂ったお茶会へ。」と。
はぁ?何わけの分からんことを……なんて思ったのは一瞬で。
次の瞬間には、自分の見なれた薄暗い部屋は形こそそのままだが、ド派手なカラーリングに変わり。
机の上にはこれまたカラフルなティーセットと、海外のお菓子か?ってくらい鮮やかなカラーリングのスイーツが並んでいた。
目はチカチカするし、頭は混乱でクラクラするし。
思わず「もういっそ悪い夢か何かだと思いたい。」、と呟いた。
けど彼はそういう私に心底嬉しそうに「いいね。夢を見ていてよ。ずっとずっと、夢に溺れて、窒息するくらい溺れて。そして俺を覚えていて。」と。
それで私はもう、理解せざるを得なかった。
いや、諦めた、の方が正しい。
だってこんな訳の分からない状況だけど、夢か薬が見せてる幻かは知らないけど。
とにかく彼の入れた紅茶は、久しぶりにちゃんと味がしたから。
それからハッターは気まぐれに私の元を訪ねてくる。
初めての頃のようにお茶会をしたり、時折変なドリンクやお菓子を食べさせられたり。
いいように振り回されているだけなのだけれど、こいつの傍では気持ちが楽だった。
だって、無理して笑わなくても、元気になろうとしなくてもいいから。
「さあアリスねんねの時間だよ。」
「あんたは私のオカンか。」
「面白いねぇ。君はじつは夢の中。俺に見えてるのは実は君のママって訳か。」
「え、ほんとに夢?だとしたら私オカンと添い寝してることになるの?」
「さぁねぇ。気になるなら試してみれば?」
頬を抓るがまあ、痛い。現実じゃねぇか。
「やっぱりハッターはハッターね。私の母親なわけはなかったわ。」
頬のつねった跡にちゅう、とキスを落としてくるハッター。
もう慣れたけど男が女に簡単にキスとかすんなよ。
「そうでも無いさ。ママはこうしてベイビーにキスをするだろ?そう考えたら俺がママって解釈はあながち間違いじゃない。」
近くだとスパイスの交じった紅茶の香りが鼻をくすぐる。
彼の甘ったるい吐息に普通の女の子なら真っ赤になってるんだろうが、ざんねんながら私は虚無。
こう、やられっぱなしは性にあわない。
だから彼の耳元にキスをし返す。
「あっ、ちょ、っとアリス……だめ、だって……」
こいつは人には散々ベタベタ触る癖に触られるのは慣れてないらしい。
擽ったそうに身をよじるけど、私を振り払うことは無い。
それはつまりもっと、ということか?
「んっ、や、くすぐったいから、ね、アリス……」
「ねえ、アンタ誰なの?」
私がそう聞くと彼はキョトンとした顔でその不思議な、何色にも見える瞳を瞬いた。
「私、もう人生詰んだとさえ思ってる。生きてる意味なんか分からないし、痛くも苦しくもなければ死んだっていいって思ってるの。だからアンタが何者でも……驚きはしないわ。ねぇ、あんたは何?幻覚?それとも死神かなにか?」
私の言葉に、彼はニンマリと口角を上げる。
「俺はマッドハッター。狂った帽子屋。それ以上でも以下でもないよ、アリス。」
「だから私はアリスじゃ」
「アリスだよ。君はアリス。俺がマッドハッターであるように君がアリスだと言うのは揺るがない事実なのさ。」
相変わらず良く掴めない。
難しい言葉じゃないはずなのに理解できない。
けどこの飄々とした感じは……何故か、嫌いじゃない。
「じゃあ親が付けた私の名前は?今この私が名乗ってる名前はなんだって言うの?」
「人は誰でもグループに所属するだろ?友達、仕事、家族。君の言うその名前は、どこかのグループでの呼び名のひとつにしか過ぎないさ。俺にとって君はアリス。それだけの事だよ。」
「訳が分からないわ。流石狂った帽子屋は言うことが違うのね。でも……そうね。少し、楽になったわ。名前をひとつ汚しても大したことじゃ、無いのかもしれない。」
大きな失敗。挫折。イジメ。
躓いた原因が明確にどれか、なんて今となっては分からない。
他人からしたらきっと、大したことじゃないのかも。
だけど私にとってはそれが、何よりも重くて。大きくて。
自分の今までを否定された気がした。
家族に申し訳なかった。
近所の人も、友達の目も、怖くなった。
同い年の人が頑張ってるとか、幸せだとか。
それを聞く度に、惨めで悔しくて悲しくてやるせなくて。
けど彼の言う通り……失敗したのはそのグループの中だけの話で。
彼の前での……『アリス』は、何一つ傷ついてない、綺麗なままなことに気がついた。
「ねぇ、アリス。俺の世界に行かない?」
私の心を読んだみたいなタイミングで、彼が口を開く。
それが意味すること……それはもう分かってる。
「行ったら、何か変わるかしら?」
私の問いかけに彼は穏やかに笑ったまま。
あら、あなた、そんな顔出来たのね。初めて知ったわよ。
「そうだね。少なくとも今君が苦しんで囚われているその『人生』からはオサラバ出来るだろうさ。」
「それは、とっても素敵な事ね。」
「おや意外だね。もっと脅えるかと思ったよ。」
おどけたように両手を上げてヒラヒラさせる彼に思わず苦笑いが溢れた。
「そうね。これを糧に頑張るわ、なんて言えれば『ハッピーエンド』なんでしょうけど。」
「じゃあ君は……なんでこの結末を選ぶの?」
何よ、それが最初から目的だったくせにじれったいのね。
どうしても私に選び取らせたいなら……そうしてやるわ、仕方ないから。
「勿論、夢を見ていたいからよ。夢を見続けるのが、眠り続けるのが私の幸せだもの。最初に言ったじゃない。ずっとずっと、夢に溺れて、窒息するくらい溺れて……」
「俺を、覚えていて。」
「……その方が面白いじゃない。だからそうする。それだけよ。」
私の言葉に、彼は心底嬉しそう。
まるで泣きそうな、綺麗な顔で歯を見せて笑った。
「いいね、最高にクールだ。君も……狂ってる。マッドアリスだね。」
「あら、私もあなたも狂ってるならそれが普通じゃない?ただのアリスで結構よ。」
彼が触れた、見慣れた部屋の窓はカラフルで重厚な……まさに『魔法の国への入口』に姿を変える。
そのドアノブを彼の手袋に包まれた手が捻る。
開いた扉の向こうはキラキラと、淡い虹色に輝いていた。
「ねぇ、ハッター。私はアリスでいいわ。でもね、ドレスは水色よりピンクが好きだし、髪の毛は金髪よりユニコーンカラーがいいわ。私のアリスは、そういうアリスよ。それでも……いい?」
新しい世界に飛び込む前にそう問いかける。
「当たり前じゃないか。君がなりたい君……それが俺の、最高のアリスさ。さあ、お手をどうぞ、アリス」
迷わずに彼の手を掴む。
私の心にはもう、暗いモヤはなくなった。
子供の頃のようなワクワクと、キラメキに満ち溢れて……うん、誰がなんと言おうと、私は今、幸せだった。
「ようこそ、君の新たな『世界』へ!」